2009/08/03
『教行信証』から見ないと『歎異抄』は判らない(哲学者・山崎正一)
前回、親鸞聖人の高弟・唯円が書いたといわれる『歎異抄』の真意は
親鸞聖人、畢生の大著『教行信証』をもってなされるべきだと書きました。
なぜ、この当然ともいうべきことがなされないのでしょう?
哲学者、山崎 正一(やまざき まさかず・東大名誉教授・日本哲学会委員長も務めた)の
エッセイに、そのヒントがあるかも知れません。
『歎異抄』における親鸞の言葉は、たしかに、その肉声を聴く思いがするほどの
ものがあるけれども、しかし、親鸞の全貌というものを考えようとすると、
何か、舌足らずというか、あるいは、とらえどころがないというか、
どうも、よく判らぬ、しかとは判らぬ、というところがある。
親鸞という人物は、やはり『教行信証』の方で見るべきで、
『歎異抄』というのは、親鸞の或る一面を、鋭く鮮明に伝えてはくれるが、
しかし、何か、まだ不充分なところがあるように思われる。
『歎異抄』の著者唯円よりも、親鸞という人物は、はるかに大きかったのであろう。
いや、それは、当然のことであろう。
(中略)
それならば、『教行信証』の方ならば、親鸞という人物とその思想は、しかと
捉(とら)えられるか、というと、これがまた、必ずしも、そうでもないところが、
あるようである。
そういう意味では、親鸞という人は、まことに、不思議な人である。
(エッセイ~現代思想1979.6)
山崎氏も『歎異抄』よりも『教行信証』を重視すべきと主張しています。
その指摘は評価できます、
ところが、その『教行信証』が“読めない”のでしょう。
最後は「不思議な人」としか言えないようです。
無理もないかもしれません、華厳宗の傑僧といわれる人でも
『教行信証』を狂人の書だと、唾棄して庭に投げたといわれるのですから。
『教行信証』から『歎異抄』の真意を明らかにすることがいかに重要か、
しかし、それがまた、いかに困難なことか、日本哲学会委員長も務めた山崎氏なればこそ
感じ取られたのでありましょう。
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