2009/08/07
お盆を弥陀の浄土で再開を果たす勝縁に
お盆の季節――。
親兄弟や愛児、恋人との悲しい別れを経験した人は、故人の在りし日を、しみじみと思い出すことでしょう。
「今ごろあの人は、どこでどうして」
「もう一度会いたい」
つのる思いは簡単には消えません。
大切な人の死を悼む気持ちは皆同じです。
でも、死別はいつも私が残るとは限りません。親しい人の死に接した時、人はやがてわが身に訪れる死を予感し、底知れぬ不安と恐怖を感じます。
「もう再び会えないのだなあ、話もできないのだ」
と、故人のために流す悲しみの涙は、実は、
「自分もいつか必ず、再び帰ってはこられない遠い世界に、たった一人、旅立たねばならないのだなあ」
と、自分のために流す涙でもあるのでしょう。
家族や友人の無常を、わが身に迫る一大事を見つめる勝縁とすることこそお盆に臨む大切な心掛けでしょう。
生あるものは必ず死す、といわれるように、有史以前から幾億兆の人類で、死ななかった人は一人もありません。
蓮如上人は、『御文章』に、
「上は大聖世尊より始めて、下は悪逆の提婆に至るまで、逃れ難きは無常なり」
とおっしゃっています。
最も偉大なお釈迦さまも、その釈尊の名声をねたみ、命を付け狙った提婆も、死を免れることはできないのです。
たとえ、宇宙に飛び出しても逃れることはできません。
そのように死は100パーセント確実な未来と納得しても、とかく遠い先のことと思いがちです。
「死なんてまだまだ先の話。今から考えたってしょうがないよ」
と言う人もありましょうが、果たして、正しい人生観といえるでしょうか。
タレントのビートたけしさんは、1994年のバイク事故で生死の境をさまよった時、「今までどうしてこんな生き方したんだろう」と猛省し、「人生観の訂正」をせざるをえなかったと告白しています。
「死というのは突如来る暴力なんだね。(中略)準備なんかしなくたっていいと言ってても、結局死というものには無理矢理対応させられるわけだよ。あまりにも一方的に向こうが勝手に来るわけだから。
(中略)
死というものの凄さというのは、自分の人生振り返って、何をしたとか何をしてないとかいうのは全然関係ない。そんなことはビタ一文かすんないんだよ」
(『たけしの死ぬための生き方』)
精神科医であった頼藤和寛氏も、52歳でガンの宣告を受けた時の心境を、著書にこうつづっています。
「これまで平気で歩いてきた道が実は地雷原だったと教えられ、これから先はもっと危ないと注意されたようなものである。
それでも時間の本性上、退くことはおろか立ち止まることもできない。無理矢理歩かされる。
次の一歩が命取りなのか、あるいはずいぶん先のほうまで地雷に触れないまま進めるのか。いずれにせよ、生きて地雷原から抜け出ることだけはできない」
(『わたし、ガンです ある精神科医の耐病記』)
次の一歩で爆発するかもしれない道を、だれもが歩いているのだと訴えています。死はまだまだ先の話ではない。今の問題だと知らされます。
にもかかわらず、自分が死ぬとは思えないのは、“太陽と死は直視できない“といわれるように、己の死は、直視するにはあまりに過酷だからでしょう。しかし、幾ら目を背けていても解決にはなりません。
一歩後生へと足を踏みだした時、魂は真っ暗な未来に驚きます。
お釈迦さまは、これを後生の一大事と言われています。この一大事の解決一つを教えられたのが、真実の仏教なのです。
釈尊は、一切経の結論として、『大無量寿経』に、
「一向専念無量寿仏(阿弥陀仏)」
と仰せになり、
“後生の一大事の解決は、大宇宙最高の仏である阿弥陀仏の本願力によるしかない。だから、阿弥陀仏一仏に向かい、阿弥陀仏だけを信じよ“
と明言されています。
蓮如上人も、そのことを『御文章』に、
「これによりて、ただ深く願うべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり、信心決定して参るべきは安養の浄土なりと思うべきなり」
とおっしゃり、阿弥陀如来を信ずるよりほかに、後生の一大事を解決する道は決してないぞ、と明かされています。
弥陀は、その誓願(お約束)に、
「死後のハッキリしない暗い心を一念で破り、“極楽浄土へ必ず往ける“大安心・大満足の身にしてみせる」
と誓われています。
この阿弥陀仏の本願を信じ切れた時、この世は生きてよし、死んでよしの無上の幸福に生かされ、死後は、必ず弥陀の浄土へ往生しますから、後生の一大事は完全に解決いたします。
しかも極楽の蓮台に仏として生まれれば、懐かしい人たちとも再会できるのです。
『阿弥陀経』には、「倶会一処」と説かれています。
弥陀の浄土は、ともに一処に会うことができる世界だからです。
ただ、ここで、
「真実の信心をえたる人のみ本願の実報土(極楽浄土)によく入ると知るべし」(尊号真像銘文)
と、親鸞聖人が書いておられるように、浄土へ往けるのは、真実の信心、すなわち阿弥陀仏から賜る他力の信心をえている人のみであることをよく心得ていなければならないでしょう。
蓮如上人も、
「一念の信心定まらん輩は、十人は十人ながら百人は百人ながら、みな浄土に往生すべき事更に疑なし」(御文章)
とおっしゃり、死後、浄土に往生できるのは、一念の信心(他力の信心)を獲得した人だけだぞ、と目釘を刺しておられます。
かって、「一向専念無量寿仏」をあまりに強調されたため、法然、親鸞両聖人が、神信心の権力者の怒りを買い、流刑に遭われたことがありました。
法然上人は南国・土佐へ。親鸞聖人は越後へ。旅立ちの前夜、
「お師匠さま。短い間ではございましたが、親鸞、多生の間にも、遇えぬ尊いご縁を頂きました」
と泣き悲しまれる聖人に、法然上人は優しく語りかけられます。
「親鸞よ。そなたは越後か。いずこに行こうと、ご縁のある方々に、弥陀の本願をお伝えしようぞ。くれぐれも達者でな」
「はい、お師匠さま。お師匠さまは南国・土佐へ。遠く離れて西・東。生きて再びお会いすることができましょうか」
恩師との別れを惜しむ親鸞聖人は、一首の歌をしたためられます。
「会者定離 ありとはかねて 聞きしかど
昨日今日とは 思わざりけり」
法然上人は、次の返歌を贈られました。
「別れ路の さのみ嘆くな 法の友
また遇う国の ありと思えば」
たとえ今生で再会できなくてもしばしの別れ、嘆くな親鸞よ、再び会える世界(弥陀の浄土)があるのだからとの仰せです。
ご臨末の近づかれた親鸞聖人も、浄土往生の確信から、
「この身は今は歳きわまりて候えば、定めて先立ちて往生し候わんずれば、浄土にて必ず必ず待ちまいらせ候べし」(末灯鈔)
“親鸞、いよいよ今生の終わりに近づいた。必ず浄土へ往って待っていようぞ。間違いなく来なさいよ“
と明言されています。“必ず浄土で待っているぞ“と、力強くも温かく、末代の私たちに語りかけてくださっているのです。
真宗の盛んな村に、仏法熱心な夫婦がありました。平生から弥陀の本願を喜ぶ身になっていた夫は、いよいよ臨終が近づいた時、ともに苦楽を乗り越えてきた愛する妻に、こう告げました。
「おまえと一緒になれて、本当によかった。極楽の蓮台で、半座空けて待っているからな」
妻の目に、熱いものが込み上げたといいます。
縁あって同じ家に生まれ合わせた家族と、この世限りの縁では寂しい。
お盆には、親子、夫婦そろって弥陀の本願を聞かせていただき、ともに弥陀の浄土で再会する未来永遠の家族とならせていただきたいものです。
(P)
関連記事:
- None Found
[...] お盆が近づくと、また思い出してしまってね。 [...]