2009/07/30

倉田百三《歎異抄に魅せられた人々》

 kurata hyakuzo 倉田百三《歎異抄に魅せられた人々》 
(写真はウィキペディアより)
倉田百三(くらた ひゃくぞう、1891年 - 1943年)

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親鸞会は、親鸞聖人の教えを正確に一人でも多くの方に
お伝えするための集まりです。
「親鸞聖人といえば歎異抄」といわれるほど歎異抄は有名ですが、
「歎異抄に魅せられた人々」と題して連載しています。
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倉田百三といえば、世界的文豪の一人であるノーベル賞作家ロマン・ロラン
(1915年受賞 フランス人 代表作『ジャン・クリストフ』『魅せられたる魂』など)
から大絶賛を受けた文豪です。


ロマン・ロランが倉田百三の書いた、親鸞聖人を題材とした戯曲『出家とその弟子』
読み、感嘆のあまり作者・倉田に直接手紙を送り

「現代のアジアにあって、宗教芸術作品のうちでも、これ以上純粋なものを
私は知らない」


と激賞した逸話は世に知られています。

さらに、

和辻哲郎「あの生命に充ちた作を涙と感激とで読んだ」
有島武郎「読んで泣いてしまいました。何という勝れた芸術品でしょう」
亀井勝一郎「あらゆる時代を超えて共通する青春の問題が含まれている」


と、そうそうたる人たちを感動せしめた、倉田百三。
旧制第一高等学校時代は同級に芥川龍之介矢内原忠雄(※)がいましたが、
倉田は彼ら無試験入学者を振り切って主席になるほどの秀才だったといいます。

※矢内原 忠雄(やないはら ただお、1893年 - 1961年)・・日本の経済学者。東京大学総長。

その倉田百三は『歎異抄』を熟読し、こう称賛しています。

「歎異鈔よりも求心的な書物は恐らく世界にあるまい」

「実に名文だ。国宝と云っていい」

「歎異鈔は、私の知って居る限り、世界のあらゆる文書の中で、一番内面的な求心的な、
そして本質的なも
のである。
文学や、宗教の領域の中、宗教の中でも最も内面的な仏教、その中でも最も求心的な
浄土真宗
一番本質的な精髄ばかりを取り扱ったものである」

「コーランや、聖書もこれに比べれば外面的である。
日蓮や、道元の文章も、この歎異鈔の文章に比べれば、猶お外面世界の、騒がしい
ひびきがするのである」

日本にこういう文書の存在することは世界に誇るべき事であり、意を強くするに足る。
そして日本語と文章との表現力の如何にすぐれたものであるかを立証しているものである」

「歎異鈔からは我々は何処までも至純な、内心の声を聴かねばならぬ。
じくじくと山陰の苔から沁み出で来る泉のように、心をうるおすものをすすらねば
ならぬ。
柔かな触手が我々の心にふれ、力強い腕が我々のたましいを掴むであろう」

「余程精神的に生きて居ると思っているような人でも、此の書を読めば、まだまだ自分
が無雑にして、苟合的(※こうごうてき)なことを感じるであろう。
此の意味でこの書は心の鏡として向ってみるのがいい」

※苟合(こうごう)・・・他人に気に入られようとすること。迎合。

「歎異鈔より本質的に、内面的な書物を世界に求めてもありはしない。
これは敬虔な態度で、襟を正して読むべき書であり、又燈下に親しむべき心の友である」

(倉田百三著『一枚起請文・歎異鈔 法然と親鸞の信仰』)

「国宝」というべき歎異抄は、万余の人々を魅了し続けています。
同時に、その深さゆえ、様々な誤解を生んできました。

「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」
に象徴されるように、全編が謎めいた逆説に満ちており、
変幻自在の表現は、読者を翻弄してやまず、700年間、真意はほとんど誰にも
知りえなかったといっていいでしょう。

逆に言えば、どんな自由奔放な解釈がなされても、それが正しいのか間違って
いるのか決定的なモノサシを示す人がありませんでした

ご存じのとおり『歎異抄』は親鸞聖人ご自身が筆を持って書かれたものではありません。
作者不詳、一般には親鸞聖人の高弟・唯円によって書かれたものといわれています。

ならば歎異抄の正しい心は、親鸞聖人自筆の『教行信証』に求めねばならないはずです。

ところが驚くべきことに、この当然と思えることがなされてこなかったのです。
その表れか、『教行信証』によって『歎異抄』をひらいた『歎異抄をひらく』が世に出るや、
1年5カ月たっても、歎異抄関連の発刊がピタリと止んだままなのです。
既刊本を加筆したものや復刻は幾つか出ましたが、
事実上、『ひらく』の後の新作と呼べるものはまだないと言ってもいいでしょう。

日本の思想界で、これは異例のことではないでしょうか。
『歎異抄をひらく』の「はじめに」にはこう明記されています。

 とかく『歎異抄』を論じたものは、著者の体験や信条に力点が置かれ、
 自由奔放に解釈されている、と嘆く識者も少なくはない。
 本書は、聖人自作の『教行信証』などをもとに、『歎異抄』の真意の解明に
 鋭意努めた
つもりである。


事実『歎異抄をひらく』の随所に親鸞聖人の直説が示され、それに基づいて『歎異抄』の
不可解とさえ思える文章が、説き明かされています。

『教行信証』によって『歎異抄』の真意をひらいた、

それが『歎異抄をひらく』なのです。

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ウィキペディアによると、この倉田百三の写真の著作権の保護期間は満了している。出典はKamakura Museum of Literature archives, Japan

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