2010/04/12

比較対照『歎異抄をひらく』【6】「他の善も要にあらず」の誤解で真宗凋落

前回(『歎異抄』解説書の比較対照《急ぎ仏になりて》)
http://www.shinrankai.net/2009/12/hikak-2.htm

に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。

<原文>

しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきがゆえに
(『歎異抄』一章)

『誤解された歎異抄』梅原猛(※1)著の意訳

それゆえ、この阿弥陀さまの本願を信ずるためには、他の善をなす必要は毛頭ありません。
ただ念仏すればいいのです。念仏以上の善はほかにありませんから。



『歎異抄をひらく』高森顕徹先生著の意訳
ゆえに弥陀の本願に救い摂られたならば、一切の善は無用となる。弥陀より賜った念仏以上の
善はないからだ。

この一節を、梅原氏のように”本願を信ずるには、諸善は必要ない”と理解する人が多くあります。
『歎異抄 全講読』安良岡康作(※2)著も、
「本願を信じようとするに当っては、ほかの善い行いも必要ではない」と、次のように解説しています。

初めての聞き手にとっては、耳を驚かす立言であったに違いない。
本願への信心には、いかなる善行も不要であるというのであるから。
読経も讃歎も礼拝も供養も写経も布施等も、不要な雑行として退けられる
(安良岡康作『歎異抄 全講読』)

『初めての歎異抄』山崎龍明(※3)著も、「善根は救いには無関係」と言っています。

『歎異抄』の第一条には、「しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらず」とあります。
つまり、阿弥陀仏の本願に生きる者は、他の一切の善根をおさめる必要がないというのです。
善根は救いには無関係だといっています。
(山崎龍明『初めての歎異抄』)

ここに、浄土真宗の堕落の原因があります。
「”本願に救われるには、善は一切いらない”と『歎異抄』に書いてあるじゃないか」と、
浄土真宗の者は積極的に善に向かおうとしません。

消極的、退嬰的な者ばかりで、ポジティブな人がいないのです。
善い種をまかなかったら、やってくるのは悪果ばかり。

「親鸞聖人の教えに善の勧めはない」と、とんでもない聞き誤りをしているから、
真宗の凋落は目に余る惨状です。

ですがそれは、聖人ご在世中からあった根深い謬見でもあります。
『歎異抄をひらく』では、聖人が悪を戒め善を勧められたお言葉を提示して、その誤解を正されています。

「弥陀の本願に救われるには、念仏以上の善はないのだから、念仏さえ称えていれば、
他の善はしなくてもよい。本願で助からぬ悪はないのだから、どんな悪も恐れることはないのだ」
と得手に聞き、平気で悪を犯す輩が、聖人ご在世からあったとみえて、「放逸無慚なるまじき」と、
しばしば忠告されている。

一、二を挙げておこう。

われ往生すべければとて、為まじきことをもし、思うまじきことをもおもい、言うまじきことをも
言いなどすることは、あるべくも候わず (末灯鈔)

「これで自分は、極楽へ往けるようになったのだから」と広言し、勝手気ままに、してはならないことを
したり、思うてはならぬことを思ったり、言ってはならぬことを言ったりするなど、決してあっては
ならないことだ。
煩悩具足の身なればとて、心にまかせて、身にも為まじきことをも許し、口にも言うまじきことをも許し、
意にも思うまじきことをも許して、いかにも心の儘にてあるべしと申しおうて候らんこそ、返す返す不便に
おぼえ候え。

酔もさめぬ先になお酒を勧め、毒も消えやらぬにいよいよ毒を勧めんがごとし。「薬あり、毒を好め」と
候らんことは、あるべくも候わずとこそ覚え候
(末灯鈔)

どうせ煩悩の塊だからと開き直って、思うにまかせて、やってはならぬ振る舞いをし、言ってはならぬ
ことを言い、思ってはならぬことを思っても、これは仕方のないこと、慎む必要はないのだ、と話し合って
いるようだが、はなはだ情けない限りである。
泥酔者に、なお酒を勧め、毒で苦しんでいる者に「薬がある、どんどん毒を飲め」と言う愚者が、どこにあろうか。

真意の理解される困難さと、聖人の悲憤の涙が伝わってくる。

(『歎異抄をひらく』155ページ)

では、「本願を信ぜんには」をどう理解すべきでしょうか。
種々に解釈されてきたが、『歎異抄 その批判的考察』石田瑞麿(※4)著は次のような
歯切れの悪い解説をしています。

「もしも信ぜられるならば、その場合には」といった意味に解されるのが、「信センニハ」の意味するところであろう。

(石田瑞麿『歎異抄 その批判的考察』)

『歎異抄論註』佐藤正英(※5)著も、同様に言葉を濁しています。

「信じているとすれば、それ以上には」の意に解すべきではなかろうか。 (佐藤正英『歎異抄論註』)

「であろう」「ではなかろうか」という憶測が氾濫する中、『歎異抄をひらく』では、「本願を信ぜんには」を
「弥陀の本願に救い摂られたならば」と、鮮明に意訳されています。
「本願を信ぜんには」とは、「本願を信じたならば」ということです。
弥陀の本願は、信ずる一念で救うお約束だから、「本願を信じたならば」とは「本願に救い摂られたならば」に
ほかなりません。

「本願を信ぜんには」が読めないから、続く「他の善も要にあらず」も”仕事も家族もすべて重要でなくなる
ことでしょう”とか、”世間を超越して仕事に専念することでしょう”などと誤解、曲解に満ちています。

『現代語 歎異抄』親鸞仏教センター(※6)著には列記されています。

A▼広げて考えれば、自分が大事にしている家族、健康、財産、地位、名声、仕事など、この世の
あらゆる価値が、肝心なことではなくなるということでしょう。(中略)
C▼この世を超越した視点をもって、この世の仕事に専念することでしょう。

(親鸞仏教センター(※6)『現代語 歎異抄』)

仏教の目的が浄土往生であることが、まるで抜けた、論外の解釈です。
『歎異抄をひらく』では、「他の善も要にあらず」を「一切の善は無用となる」と意訳されています。

これは”浄土往生には”無用ということです。
仏法は、百年足らずの泡の一生でなく、永遠の魂の解決が説かれるから、常に浄土往生が目的です。
弥陀に救われたら”往生には”一切の善は無用ということであって、この世の生活面に善が不要という
ことではありません。

信心決定の身になったら、何もしなくても財や物が集まり、人から尊敬されると思ったら大間違いです。
善をしなければ、人生の落伍者になるだけです。
大宇宙の功徳「南無阿弥陀仏」を丸もらいすれば、いつ死んでも往生間違いなしと大満足するから、
往生のためには善は一切無用となります。
それを「他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきがゆえに」とおっしゃっているのです。

この真義を、『歎異抄をひらく』では次のように詳解されています。

「他の善も要にあらず」(他の善は必要ない)とは、弥陀の本願を信じ救われた者は、弥陀より賜った
念仏で往生決定の大満足を獲ているから、「往生のために善をしようという心」は微塵もない、
ということである。

難病が特効薬で完治した人は、他に薬を求めようという心がないのと同じだ。他の薬に用事があるのは、
全快していないからであろう。

既に救い摂られた人に、救われるに必要な善などあろうはずがない。
善が欲しいのは、救われていない証である。

(『歎異抄をひらく』158ページ)

「カミソリ聖教」の異名を持つ『歎異抄』の中でも、とりわけ危険な誤解を生む一節だから、特に留意して
読まねばなりません。

《まとめ》

「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず」(『歎異抄』1章)

・他の『歎異抄解説書』

「本願を信ずるには(弥陀の本願に救われるには)善は一切いらないから、親鸞聖人の教えに善の勧めはない」
と聞き誤っている。
この『歎異抄』の誤解から「善をすすめぬ真宗」となり、今日の衰退をもたらした。

・『歎異抄をひらく』

「本願を信じたならば(弥陀の本願に救い摂られたならば)浄土往生のためには一切の善は無用となる」
と説かれている。

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〔※1 梅原 猛(うめはら たけし)哲学者。
京都市立芸術大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授。
京都市名誉市民。文化勲章受章者〕

〔※2 安良岡 康作(やすらおか こうさく)国文学者。
東京学芸大学名誉教授。日本中世文学、国語教育専攻〕

〔※3 山崎龍明(やまざき りゅうみょう)日本の仏教学・真宗学者。
武蔵野女子学院中学校・高等学校宗教科教諭、本願寺教学本部講師、
龍谷大学文学部、駒澤大学仏教学部非常勤講師を経て、武蔵野女子大学
(現・武蔵野大学)文学部日本語・日本文学科教授となる。
のちに同大学仏教文化研究所所長を併任。世界宗教者平和会議(WCRP)
平和研究所副所長。東京都小平市の浄土真宗本願寺派法善寺住職、
同派布教使でもある。特に『歎異抄』が専門。 wikipediaより〕

〔※4 石田瑞麿(いしだ みずまろ)仏教学・日本仏教専攻。文学博士。
東京帝国大学文学部印度哲学梵文学科卒業。
その後、東京大学講師、東海大学教授〕

〔※5 佐藤 正英(さとう まさひで)日本の宗教学者・倫理学者
東京大学文学部名誉教授〕
〔※6 親鸞仏教センターのホームページにはこう紹介されています。

“親鸞仏教センターは、2001年首都・東京において時代の苦悩と
親鸞聖人の思想との接点を探り、現代人に真宗を語りかけるための
新しい視点とことばを見いだそうと設立された、真宗大谷派
(京都・東本願寺)の研究交流施設です〕

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2010/04/10

比較対照『歎異抄をひらく』【5】「ただ信心を要とす」の「信心」とは 親鸞会.NET

前回( 歎異抄第一章の「往生」は「新しい生活」のこと?? 親鸞会.NET)
http://www.shinrankai.net/2010/04/tannisyo-17.htm
》)
に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。

《原文》

弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず、ただ信心を要とすと知るべし (『歎異抄』一章)

『初めての歎異抄』山崎龍明著の意訳

阿弥陀仏の本願は、年齢とか、人間の善し悪しにかかわらず、阿弥陀仏の真実に深くうなずくことが最も大切です。


『歎異抄をひらく』高森先生著の意訳

弥陀の救いには、老いも若きも善人も悪人も、一切差別はない。ただ「仏願に疑心あることなし」の信心を肝要と知らねばならぬ。

弥陀の救いには一切の差別はありません。
老人も若者も、世間でいう善人も悪人も区別なく、なんの隔てもなく救う弥陀の本願ですが、「ただ信心を要とすと知るべし」とクギをさされ、「信心一つの救い」が鮮明にされています。
『歎異抄』二章には「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」とあるので、「ただ念仏さえ称えれば救われるのだ」と誤解している人がほとんどです。しかし、全十八章の収まる第一章には、「ただ信心を要とすと知るべし」信心一つで救われると明言されています。このお言葉は、『歎異抄』全体を通じて数ある誤解を正す、限りなく重い聖人の発言といっても決して過言ではありません。

ところが、この大事なお言葉を、『歎異抄 その批判的考察』石田瑞麿著は、「言おうとしていることの焦点がぼけている」と述べ、苦言を呈しているのです。解説書を書くような人でも、理解の難しい所なのでしょう。

ここで肝要と確言される「信心」は、一般に使われている「信心」とは根本的に異なることを、『歎異抄をひらく』では、次のように詳説されています。

一般には、金が儲かる、病気が治る、息災延命、家内安全などのゴリヤクを、仏や神に祈念することを「信心」と言われている。
また、神仏を深く信じて「疑わないこと」と考えている人がほとんどだ。
しかし、よく考えると、疑う余地のまったくないことなら信ずることは不要になる。「夫は男だと信じている」と言う妻はないだろう。疑いようがないからである。
ひどい火傷をした人は、「火は熱いものだと信じている」とは言わない。熱かった体験をしたからだ。
疑いようのない明らかなことは「知っている」とは言うが、「信じている」とは言わない。「信じる」のは「疑いの心」があるときである。
難関の受験生は、試験は水もの、発表までハッキリしないから、「合格を信じている」という。「合格を知っている」とは言わない。”ひょっとしたら失敗するかも”の、疑心があるからであろう。
世間でいう信心も同様だ。ハッキリしない疑いの心を抑えつけ、信じ込もうとする信心である。だが親鸞聖人が肝要と言われる「信心」は、根本的に異質のものだ。どこが、どう違うのか。喩えなどで詳述しよう。
乱気流に突っ込んで激しく機体が振動し、しばしば機長のアナウンスが流れる。「大丈夫です。ご安心下さい」。それでも起きる不安や疑心は、無事着陸したときに消滅する。
「助ける」という約束に対する疑いは、「助かった時」に破れる。「与える」という約束の疑いは、「受け取った時」に無くなるように、”摂取不捨の利益(絶対の幸福)を与える”という弥陀の約束(本願)に対する疑いは、「摂取不捨の利益」を私が受け取ったときに晴れるのである。
この「弥陀の本願(誓願)に露チリほどの疑いもなくなった心」を、「信心」とか、「信楽」と聖人はおっしゃるのだ。 (『歎異抄をひらく』147ページ)

親鸞聖人の説かれる「信心」は、弥陀の本願にツユチリほどの疑いも無くなったことです。そのような、世間に全く無い信心を、聖人は何を根拠に教えられたのでしょうか。

親鸞聖人は決して、今まで誰も言わなかった珍しい法を説かれたのではありません。釈迦が説いた「本願成就文」の教え一つ、伝えられた方でなのです。

その本願成就文を聖人は「一実円満の真教・真宗これなり」と言われ、大宇宙唯一の完全無欠の教えであり、真実の宗教だと喝破されています。

聖人九十年の教えは、この本願成就文以外にはありません。畢生の大著『教行信証』は、本願成就文四十字を六巻に開かれた解説書です。
つまり聖人が教えられた「信心」とは、本願成就文に「聞其名号信心歓喜」と説かれている信心なのです。

ここで「聞其名号」と言われる「聞」とは、「信心」と同じ意味だと、聖人はこうおっしゃっています。

「『聞其名号』というは、本願の名号をきくとのたまえるなり。(中略)『きく』というは、信心をあらわす御法なり」 (『一念多念証文』)

また、この「聞」を分かりやすく、こうも詳説されています。

「『聞』と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。これを『聞』と曰うなり」
(『教行信証』)
「聞」イコール「信心」だから、『「信心」とは、阿弥陀仏の本願にツユチリほどの疑いも無くなったことだ』と聖人は明らかにされているのです。
このように聖人が明解された本願成就文の教説から、『歎異抄をひらく』は、一章の「信心」を「『仏願に疑心あることなし』の信心」と意訳されています。

なぜこのような意訳になるのか疑問に思っていた読者もあるでしょうが、本願成就文によって「信心」を解説されていることが分かるでしょう。

今日、当然あるべきそんな解説書は、悲しきかな皆無です。聖人は「疑心有ること無し」と、疑いが金輪際、無くなった「信心」を説かれているにもかかわらず、ある倫理学者は、この「信」は疑いを含むと自説を展開しています。衆生が本願を疑い無く信じることなど不可能だから、信と不信を絶えず揺れ動くのが当然だと、

『歎異抄論註』佐藤正英著は、次のように主張します。

〈信〉は〈不信〉を内包している。そしてそれは〈不信〉への絶えざる揺り戻しとして現れる。(中略)衆生たるわれわれはいずれ〈不信〉へと揺り戻されずにはいられない。〈信〉に静止することは衆生たる以上不可能である。(佐藤正英『歎異抄論註』)

我々煩悩具足の衆生には、弥陀の本願を信ずる心は微塵もない。だから、聖人の信心は弥陀から賜る「他力の信心」であることを、『歎異抄をひらく』では、次のように解説されています。

弥陀の本願に疑い晴れた心は、決して私たちがおこせる心ではない。この心が私たちにおきるのは、まったく弥陀より賜るからである。
ゆえに、「他力の信心」と言われる。「他力」とは「弥陀より頂く」ことをいう。

このように親鸞聖人の信心は、我々が「疑うまい」と努める「信心」とはまったく違い、”弥陀の本願に疑い晴れた心”を弥陀より賜る、まさに超世希有の「信心」であり、「信楽」とも言われるゆえんである。
(『歎異抄をひらく』150ページ) 本願に疑い晴れた心は、決して衆生がおこせる心ではないのですが、その点が曖昧な解説書がほとんどです。例えば『歎異抄 全講読』安良岡康作著では、衆生の中には、本願を「信じ得る人」がいて、そんな特別な人が救われるのだと、次のように説明されています。

親鸞は、「衆生」、その中でも、特に、「本願」を言葉として聞き、理解し、信じ得る人・人間が弥陀の本願により往生し得る道をここに説示しているのである (安良岡康作『歎異抄 全講読』)

本願に疑い晴れた心は、衆生が持ち合わせる心ではなく、弥陀から賜る信心だから、親鸞聖人の教えでは、「信心を獲る」「信心を獲得する」とは言われても、「信心する」とは絶対に言わないのです。
「信心する」では、信じようと自分が努力する「自力の信心」になってしまうからです。

ところが、信心すればさえ救われると、『誤解された歎異抄』梅原猛著では、不浄な解釈がなされています。

ただ信心が肝心なのです。信心さえすれば、どんな人でも阿弥陀さまは救ってくださるのです。
(梅原猛『誤解された歎異抄』)

他の解釈も似たり寄ったりで、現今『歎異抄』研究の第一人者と自他ともに認める、武蔵野大学教授の山崎龍明氏も、冒頭で引用したように、一章の「信心」を「阿弥陀仏の真実に深くうなずくこと」と解釈しています。
『現代語 歎異抄』親鸞仏教センター著も同様で、「如来の本願に目覚めるこころ」と訳されています。これでは全く、他力信心になりません。

蓮如上人は

「信心という二字をばまことの心と読めるなり、まことの心と読む上は凡夫自力の迷心に非ず全く仏心なり」

とおっしゃって、「他力の信心」は迷った人間の心ではなく、弥陀から賜る仏心だと明らかにされています。
我々がうなずいたり、目覚めたりする「凡夫自力の迷心」とは次元が違うのです。

親鸞聖人が九十年のご生涯、ただ一つ教えられた「他力の信心」が、「うなずく」とか「目覚める」程度に説明されていては、解説書は氾濫すれど『歎異抄』は依然、霧の中なのです。

親 鸞会.NET» » 『歎異抄』解説書の比較対照【1】《ただ念仏して》
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2010/04/07

『歎異抄』解説書の比較対照【4】歎異抄第一章の「往生」は「新しい生活」のこと?? (親鸞会.NET)

真宗大谷派 (京都・東本願寺)の研究交流施設である
親鸞仏教センター(※)の出した歎異抄の一章冒頭の解説を見ますと

「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、
往生をばとぐるなりと信じて」

の一節を、こう現代語訳されていました。

「人間の思慮を超えた阿弥陀仏の本願の大いなるはたらきに
まるごと救われて、新しい生活を獲得できると自覚して…」
「往生をばとぐる」を「新しい生活を獲得できる」
と訳されているのですが、一体、「新しい生活」とは
どんな“生活”なのでしょうか?

少なくとも「往生」を「新しい生活」と解釈して
いるのは初めて読みました。

死後の極楽浄土を認めない、お東さんらしい珍解釈ですが
ここで言われている「往生」は「浄土へ往くこと」では
ないのですか??
初めがこれでは、後は押して知るべしでしょう。
◆詳しくはコチラをお読みください◆

後生を問わぬ”『歎異抄』信仰”の破綻[大谷派住職の告白]|浄土真宗親鸞会公式サイト
親鸞会.NET≫ ≫ 『歎異抄』解説書の比較対照


※親鸞仏教センターのホームページにはこう紹介されています。

“親鸞仏教センターは、2001年首都・東京において時代の苦悩と
親鸞聖人の思想との接点を探り、現代人に真宗を語りかけるための
新しい視点とことばを見いだそうと設立された、真宗大谷派
(京都・東本願寺)の研究交流施設です。
 

親鸞会.NET» » 『歎異抄』解説書の比較対照【1】《ただ念仏して》
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2010/03/31

比較対照『歎異抄をひらく』【3】「急ぎ仏になりて」

前回(『歎異抄』解説書の比較対照《弥陀の本願まことにおわしまさば》)
http://www.shinrankai.net/2009/12/hikak-2.htm

に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。

(原文)
浄土の慈悲というは、念仏して急ぎ仏になりて、
大慈大悲心をもって思うがごとく衆生を利益するをいうべきなり。
(中略)しかれば念仏申すのみぞ、末徹りたる大慈悲心にて候べき

(『歎異抄』四章)

このお言葉をどう説明しているか、
『初めての歎異抄』山崎龍明(※)著の意訳から見てみましょう。

〔※山崎龍明(やまざきりゅみょう)日本の仏教学・真宗学者。
武蔵野女子学院中学校・高等学校宗教科教諭、本願寺教学本部講師、
龍谷大学文学部、駒澤大学仏教学部非常勤講師を経て、武蔵野女子大学
(現・武蔵野大学)文学部日本語・日本文学科教授となる。
のちに同大学仏教文化研究所所長を併任。世界宗教者平和会議(WCRP)
平和研究所副所長。東京都小平市の浄土真宗本願寺派法善寺住職、
同派布教使でもある。特に『歎異抄』が専門。 wikipediaより〕

阿弥陀仏の真実の誓いに導かれてこの人生を生き、迷いを超えて、
めざめの人生を歩むことをめざす他力の教えに生きる者は、
ただひたすら阿弥陀仏の教えを聞き、救われたことへの感謝の
こころから南無阿弥陀仏と称え、私の力ではなく、仏法力(真実力)
によってあらゆる人々に幸せの人生を生きてもらうことを念ずる
のです。(中略)したがって、阿弥陀仏の教えに信順し、念仏を
称えて仏に成り、その仏のはたらきのままに救うことしかできないのです

『歎異抄をひらく』高森先生著の意訳では、どう書かれているでしょうか?
浄土仏教で教える慈悲とは、はやく弥陀の本願に救われ念仏する身となり、
浄土で仏のさとりを開き、大慈悲心を持って思う存分人々を救うことをいうの
である。(中略)されば、弥陀の本願に救われ念仏する身になることのみが、
徹底した大慈悲心なのである

四章の「急ぎ仏になりて」を他の解説本では、文字どおり「急ぎ仏のさとりを開いて」
と解釈して、浄土の慈悲とは「早く仏のさとりを開いて、衆生済度すること」と
理解しています。
山崎龍明氏の解説は、こうです。
浄土門他力の教えでいう慈悲は、
一、念仏して早く仏に成って、大慈悲心のはたらきで思いどおりに衆生を
救うことです。
二、念仏申す(念仏に生きる)ことのみが、徹底した大慈悲心なのです。
私はこの「念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふ」という
言葉がなかなか理解できませんでした。(中略)私は、「いそぎ仏に
成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益する」と
いう世界は、やはり文字どおり「真実の浄土に生まれて直ちに仏となり
自在に苦悩の人々を救う」と理解すべきだろうと考えます。
(山崎龍明『初めての歎異抄』)

その他の解説もあげてみると、
『歎異抄 全講読』安良岡康作(※)著では、こう書かれてありました。

〔※安良岡 康作(やすらおか こうさく)国文学者。
東京学芸大学名誉教授。日本中世文学、国語教育専攻〕
浄土門における慈悲行とはいかなるものか。
それは、第一に、「念仏して、急ぎ仏に成」ることである。
言い換えれば、弥陀の他力に頼って、念仏の行者が、浄土に生れ変り、
成仏することである。鸞はこれを「往相」という。
第二には、その速やかに仏と成った力で以て、現世にもどり、
仏の持つ「大慈大悲心」、即ち、絶大なる慈悲心を以て、「思ふが如く、
衆生を利益する」ことである。親鸞はこれを「還相」と呼んでいる。
(安良岡康作『歎異抄 全講読』)

『誤解された歎異抄』梅原猛(※)著には、次のように書かれています。

〔※梅原 猛(うめはら たけし)哲学者。
京都市立芸術大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授。
京都市名誉市民。文化勲章受章者〕
浄土門の慈悲というのが、還相廻向ということを考えないと理解できないこと
である。念仏して真仏土浄土に往生し、そこで仏となるが、その仏となった
人間は、大乗仏教の利他の精神のゆえに、この世に帰ってくる。そして、
こうして仏になってこの世に帰ってくれば、思う存分衆生を救済することが
できるわけである。
こうして、菩薩としての念仏行者は、無限にこの世とあの世の間を往復して
人間を救うのである。こういう慈悲こそ、浄土門の慈悲であるというのである。
(梅原猛『誤解された歎異抄』)

ですが、もし「浄土の慈悲」が、急いで仏になって衆生済度することであれば、
仏になるのは死んで弥陀の浄土へ往ってからですから、早く死ななければ
「浄土の慈悲」はかなわないことになります。
これでは「死に急がせる」ようなものだと批判する人もあります。
『歎異抄 その批判的考察』石田瑞麿(※)著には、こう書かれてあります。

〔※石田瑞麿(いしだみずまろ)仏教学・日本仏教専攻。文学博士。
東京帝国大学文学部印度哲学梵文学科卒業。
その後、東京大学講師、東海大学教授)〕

「浄土ノ慈悲トイフハ」と述べられる文章には少しく抵抗を感じるものがある。
それは「念仏シテイソキ仏ニナリテ、……」とあることである。
念仏によってこの身のままで仏になるような即身成仏がここに意図されえないかぎり、
「イソキ仏ニナ」るには往生しか道はなく、しかも往生は死後のことである以上、
急ぎ死ぬことが念仏者にとって、慈悲という点からは、望ましいことになる。
いわば、念仏者は死に急ぐことによって、浄土の慈悲を達成できるかのような
表現になっているからである。
(石田瑞麿『歎異抄 その批判的考察』)

このように批判する石田氏は、親鸞聖人が死に急がれた根拠など他のお聖教にも
皆無だから、「念仏して急ぎ仏になりて」というのは唯円の「でっち上げた」
作文であり、「急ぎ」の一語は除くべきだと主張しています。

また『同上』には、

ここには、唯円の文章があると思う。
かれの作文がこんな、親鸞のほかのものには見られない表現をでっち上げたのである。
(中略)したがって、「浄土ノ慈悲トイフハ」で始まり「オモフカコトク衆生ヲ利益
スルヲイフヘキナリ」に終わる文章から「イソキ」の一語を取り除けば、親鸞の思想
とはずれたものではない。 (同上)

「急ぎ仏になりて」は、解説者を悩ませてきたところだということが、よく分かります。
なかには「急ぎ」とは時間的なことではなく、「凡夫のまま」という意味だと曲解する
人もいます。
親鸞仏教センターで、十数人の専門家が五年がかりで著した『現代語 歎異抄』では、
「念仏して、いそぎ仏になりて」を「本願他力のはたらきで、愚かな凡夫がそのまま仏
になること」と解説しているのです。
「仏のさとりを開くのは、浄土に生まれてのことである」と常に教導された親鸞聖人を、全く知らないようです。

また「念仏して急ぎ仏になりて」とは、「念仏」と「諸善」を比較して言われたのだ
という珍解釈まで登場しています。
「念仏して急ぎ仏になりて」は、「念仏して”早く”仏になって」ということですが、
これは「念仏によって、諸善よりも”早く”仏になって」という意味なのだと主張しています。

『歎異抄論註』佐藤正英(※)著では、こう書かれています。

〔※佐藤 正英(さとう まさひで)日本の宗教学者・倫理学者
東京大学文学部名誉教授)〕

「念仏していそぎ仏になりて」は、念仏を称えることによって少しもはやく〈絶対知〉
を得ての意である。(中略)念仏を称えることあるいは自力を捨てることが、
もろもろの善き行為に比べて、少しもはやく〈絶対知〉を得る方途なのである。
(佐藤正英『歎異抄論註』)

「急ぎ仏になりて」は、唯円の「でっち上げ」だとか、「凡夫のまま仏になって」
とか、「諸善より早く仏になって」など、各人各様の解釈がなされてきました。
解説者を悩ませた「急ぎ仏になりて」の真意が、
『歎異抄をひらく』では「急ぎ、仏になれる身になりて」の意であり、
「はやく弥陀の救いに値って」ということだと詳しく解説されています。
「急ぎ仏になりて」を「死に急いで」と理解するのは、明らかに誤りである。
なぜかといえば、誰もが死ねば仏になれるのではない。現在、弥陀の救いに値い、
“仏になれる身”になっている人のみが、浄土に生まれ、そこで仏のさとりを開く、
これが親鸞聖人畢生の教誡であるからだ。
ならば「急ぎ仏になりて」は、「急ぎ、仏になれる身になりて」であり、
「はやく弥陀の救いに値って」の意であることは明白だろう。
思う存分、大慈大悲心をもって衆生を救うのは、浄土で仏のさとりを開いてから
だが、今生で弥陀に救われ”仏になれる身”になれば、

如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし(恩徳讃)
阿弥陀如来の大恩と、その本願を伝え給うた恩師の厚恩は、身を粉に、骨砕きても
済みませぬ。微塵の報謝もできぬ懈怠なわが身に、ただ泣かされるばかりである。

止むにやまれぬ謝恩の熱火に燃やされて、「浄土の慈悲」の真似ごとでもせずに
おれなくなってくるのではなかろうか。
事実、二十九歳、仏になれる身(信心獲得)になられてからの聖人は、
「唯仏恩の深きことを念じて、人倫の嘲りを恥じず」
(教行信証)
と感泣せられ、目を見張る仏恩報謝の生き様には、
“衆生済度は死んでから”など、消極的、退嬰的信仰の片鱗をも見られない。

(『歎異抄をひらく』)

今生で弥陀に救われ「仏になれる身」になった一念から、「浄土の慈悲」の真似ごと
でもせずにおれなくなるのです。
一念の水際も、燃える「恩徳讃」も知らない人は、”衆生済度は死んでから”と決め込ん
でいます。
ですから四章の「急ぎ仏になりて」衆生済度するというお言葉も、
「急いで死んで仏になって」から人々を救う活躍としか読めないのでしょう。
しかし、「死に急いで仏になって衆生済度するのが浄土の慈悲」と言うこともできない
から、無理な講釈が始まるのです。
従来の書と比較すれば、『歎異抄をひらく』の鮮明さが特出していることに驚くこと
でしょう。

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2009/12/07

『歎異抄』解説書の比較対照【2】《弥陀の本願まことにおわしまさば》

前回(『歎異抄』解説書の比較対照《ただ念仏して》
http://www.shinrankai.net/2009/10/hikak.htm 親鸞会.NET)

に引き続き、『歎異抄』解説書の比較をしてみましょう。

◆「弥陀の本願まことにおわしまさば」の誤解◆

〔原文〕

弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。
仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。
(『歎異抄』二章)

このお言葉をどう説明しているか、

『初めての歎異抄』山崎龍明著の意訳から見てみましょう。
あらゆる人間を救おうという、阿弥陀仏の誓いが本物であるならば、
この教えを説かれた釈尊の教えが、嘘であろうはずがありません。
釈尊の教えがほんとうならば、中国・浄土教の大成者といわれる
善導大師(613~81)の説いた阿弥陀仏の教えが嘘であるわけがありません。

『歎異抄をひらく』高森顕徹先生著の意訳では、どう書かれているでしょう?

弥陀の本願がまことだから、唯その本願を説かれた、釈尊の教えにウソがあるはず
はない。
釈迦の説法がまことならば、そのまま説かれた、善導大師の御釈に偽りがあるはず
がなかろう。

『歎異抄』二章の「弥陀の本願まことにおわしまさば」を、
「本願が、まことであるとするならば」と領解する人が意外に多くあります。
山崎氏をはじめ、ほとんどの解説書がそのように解釈しています。

ですがこの章は、弥陀の誓願に疑いが生じた関東の同行が、
「直に本当のところをお聞きしたい」と、京都にまします聖人を命として、
決死の覚悟で訪ねた時におっしゃったお言葉である。
本願まことかどうかを聞きに来た人に、「まことであるとすれば」では何の解答にも
ならないから、倉田百三は「驚き入った非論理」と評している。

『法然と親鸞の信仰』倉田百三著の解説には、こう書かれています。

中学生にでも解るように、これは論理上には、証明にも何にもなっていない。
「弥陀の本願がまことにおわします」ことを証明しなければならない場合に、
「おわしまさば」という仮説を初めに持って来るとは驚き入った非論理である。
しかし此処が「信」の世界なのだ。

(倉田百三『法然と親鸞の信仰』)

「しかし此処が『信』の世界なのだ」と説明されても、はぐらかされた思いにしか
ならないでしょう。
ここは、なぜ聖人がこんな表現をされたのか、解説に苦心されてきた所です。
関東の同行の問いがあまりにも見当外れだったために、「本来、親鸞にはありえない」
仮定的表現で語られただけ、と理由づけする人もいます。

例えば、

『歎異抄 その批判的考察』石田瑞麿著では、こう解説されています。

「マコトニオハシマサハ」という仮定的表現は親鸞のどこをつっついたら出てくるのか、
考えてみてほしい。親鸞においては、「本願」が「マコト」であるかどうか疑問視され
たり、「マコト」と一応、仮定してみたりできる余地は本来、寸毫もない。
(中略)「弥陀ノ本願マコトニオハシマサハ」という仮定は、本来、親鸞にはありえない
ことがわかる。
それが、ここでこんな形で語られたのは、遠来の人たちの問いが余りにも見当はずれな
ものだったことによる。(石田瑞麿『歎異抄 その批判的考察』)
『歎異抄』だけは、相手に応じて、本来ありえない表現がなされたというのでは、
取ってつけたような解説です。
従来の解釈は訂正されるべきと主張する倫理学者もいますが、その説明は
「……であろう」という私見にすぎず、しかも文章は哲学的で理解しがたいものに
なっているのです。

『歎異抄論註』佐藤正英著の解説は、以下のとおりです。

「弥陀の本願まことにおはしまさば」の「ば」に、疑問あるいは仮説の意を含ませて
解したのでは文意が死んでしまう。
従来の解釈は訂されねばならない。(中略)だが、なぜ平叙文ではなく
「おはしまさば、……」あるいは「ならば、……」という仮定的な言い廻しが用いられ
ているのだろう。
親鸞は、阿弥陀仏の誓願が<真にして実なる>ものであることを己れの<知>において
捉えているわけではない。
<信>を抱いているにすぎない。

いいかえれば己れの<信>においてのみ阿弥陀仏の誓願は<真にして実なる>もの
として現前している。
その<信>の地平を明示せんがためであろう。
また、「草枕旅行く……」の歌と同様に、仮定的に語ることによって己れの<信>の
強固さを確かめ、詠いあげんがためであろう。
(佐藤正英『歎異抄論註』)

この『歎異抄論註』の著者は序文で、自分が試みたのは
「さまざまな読みかたのひとつ」と断っているから、自説の展開に躊躇はないのでしょう。
その序文では加えて、「『歎異抄』はわからないことが多い。異様なまでに多い」とも
告白しています。
そんな人から聞いて、何が分かるのでしょう。
解説者がこんな状態ならば、おびただしい研究書があっても、『歎異抄』は依然として
謎に包まれています。
その真意の解明は、聖人のお言葉によるしかありません。
第二章の「まことにおわしまさば」を「まことであるとするならば」と読むのは、
親鸞聖人の信心とかけ離れています。
「弥陀の本願まこと」が、常に聖人の原点だったからです。
それを『歎異抄をひらく』では、聖人のお言葉を根拠に、次のように教えられています。

■『歎異抄をひらく』189~191ページ

だが親鸞聖人には、弥陀の本願以外、この世にまことはなかったのだ。

誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法(教行信証)
まことだった、まことだった。弥陀の本願まことだった。

の大歓声や、

煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実ある
ことなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします
(歎異抄)

火宅のような不安な世界に住む、煩悩にまみれた人間の総ては、そらごと、たわごとで
あり、まことは一つもない。ただ弥陀の本願念仏のみがまことなのだ。

『歎異抄』の「念仏のみぞまこと」は、「弥陀の本願念仏のみぞまこと」の簡略である。聖人の「本願まことの信念」は明白であろう。
親鸞聖人の著作はどこも、「弥陀の本願まこと」の讃嘆で満ちている。
「弥陀の本願まこと」が、常に聖人の原点であったのだ。その聖人が、
仮定で「本願」を語られるはずがなかろう。
「弥陀の本願まことにおわしまさば」は、「弥陀の本願まことだから」の断定にほか
ならない。

冒頭で引用した山崎龍明氏は、「仮定」と読んだ理由を、ここは親鸞聖人が
「やや遠慮がち」におっしゃった所だと、苦しい解説をしている。
だが聖人自作のお聖教によれば、「断定」であることは明らかだ。
「遠慮がち」どころか、「弥陀の本願まことだった」と、幾ら言っても言い足り
ないのが他力信心なのである。
※参考

「弥陀の本願まことにおわしまさば」
マンガ:『歎異抄をひらく』の衝撃度 浄土真宗親鸞会公式HP
http://www.shinrankai.or.jp/b/tannisyou/hiraku-comic05.htm

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2009/10/28

『歎異抄』解説書の比較対照【1】《ただ念仏して》

高森顕徹先生著『歎異抄をひらく』が、聖人自作の『教行信証』や、覚如上人、蓮如上人のお言葉で、古今の間違いや曖昧さをどのように正され、『歎異抄』の真意をひらかれているか、比較してみたい。

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