2010/10/21

歎異抄九章に表れる懺悔と歓喜  『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点【15】

「念仏を称えても喜ぶ心がない」親鸞聖人の徹底した懴悔のお言葉を、喜べない感謝しらずの自分のレベルに合わせて歎異抄を読んだら大変です。次元が違うことを、自分の次元に合わせて理解すると、教えを捻じ曲げてしまいますから、よくよく気をつけねばなりません。

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2010/09/13

『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点【14】《親鸞聖人の教えは「二益法門」》

前回(《弥陀の本願まことにおわしまさば》 親鸞会.NET )に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。

原文

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり (『歎異抄』第一章)

山崎龍明著『初めての歎異抄』の意訳

すべての者を幸せに、そして、広大な世界に気づかせたいという思いで救いを誓った阿弥陀仏の本(誓)願に救われ、かならず自然の浄土にうまれることができると信じて、阿弥陀仏のみ名を称えようというこころがおこるとき、ただちに阿弥陀仏は、その光明(智慧)の中に摂め取って捨てないという利益が恵まれるのです。
高森先生著『歎異抄をひらく』の意訳

“すべての衆生を救う”という、阿弥陀如来の不思議な誓願に助けられ、疑いなく弥陀の浄土へ往く身となり、念仏称えようと思いたつ心のおこるとき、摂め取って捨てられぬ絶対の幸福に生かされるのである。
『歎異抄』一章冒頭の「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」には、弥陀の二度の救いが明示されています。

「弥陀の誓願不思議に助けられ」たとは、平生の一念に「摂取不捨の利益」に救われたことであり、「往生をば遂ぐる」とは、死んで弥陀の浄土へ往生することです。

現在の救いを「現益(げんやく)」(現世の利益)、死後の救いを「当益(とうやく)」(当来の利益)といいます。
弥陀の救いは、今生と死後と二度あるので、「現当二益(げんとうにやく)」といわれます。
その根拠は枚挙にいとまがありませんが、聖人は二度の救いに疑い晴れた大慶喜を『教行信証』に、こう記されています。

真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心を窮むるが故に、龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。
念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。 (『教行信証』)

「本当にそうだったなぁ!あの弥勒菩薩と、今、同格になれたのだ。
全く弥陀の誓願不思議によってのほかはない。
しかもだ。弥勒は56億7000万年後でなければ、
仏のさとりが得られぬというのに、親鸞は、今生終わると同時に
浄土へ往って、仏のさとりが得られるのだ。
こんな不思議な幸せが、どこにあろうか」

弥勒大士とは、仏のさとりにもっとも近い、51段目の「等覚」のさとりを得ている菩薩のことです。
弥陀に救われると、この世は弥勒と同等になり、死ぬと同時に「大般涅槃」(仏のさとり)を得ることができます。
これを『正信偈』には「成等覚証大涅槃」の一行で、この世は等覚に成り、死ねば大涅槃(仏のさとり)を証すると「現当二益」を明かされています。

蓮如上人も問答形式で、分かりやすく教えられています。

問うていわく、
「正定と滅度とは、一益と心得べきか、また二益と心得べきや」。
答えていわく、
「一念発起のかたは正定聚なり、これは穢土の益なり。つぎに滅度は浄土にて得べき益にてあるなりと心得べきなり。されば二益なりと思うべきものなり」 (『御文章』)

「弥陀の救いは一度でしょうか、二度でしょうか」

との問いに対して、

「弥陀の救いは平生の一念で、正定聚(等覚)になる。これは穢土(この世)の救いである。次に滅度(仏のさとり)は、死ぬと同時に浄土で得られる救いである。だから弥陀の救いは二度あるのだ」

と答えられています。

「現当二益」が親鸞聖人の教えだから、「二益」を説かなければ浄土真宗にはなりません。
ところが、どの『歎異抄』解説書を読んでも、二度の救いがハッキリしないのです。例えば先に引用した、

山崎龍明著『初めての歎異抄』は一章を要約して、

従来、浄土真宗の教えの三大特質は、次の三つにあると説かれています。
他力本願(本願他力)
悪人正機(悪人救済)
往生浄土(往生成仏)(中略)
第一条には、このような教えのすべてが凝縮されています。
と解説し、死後の往生浄土ばかりが強調されています。

それに対して
『歎異抄をひらく』では、平生の一念の救いが、次のように鮮明に教えられています。

まず、古今の人類が探求してやまぬ人生の目的を、「摂取不捨の利益にあずかる」弥陀の救いであると開示し、その達成は、「弥陀の誓願不思議に助けられ『念仏申さん』と思いたつ心のおこるとき」であると説く。
しかも救いは万人平等で、一切の差別がないと道破する。
もっと詳細に弥陀の救いの、時と内容を、『歎異抄』一章に聞いてみよう。
まず弥陀の救いの時は、
「念仏称えようと思いたつ心のおきたとき」
と、平生の一念であることが明言されている。
ではその救いとは、いかなるものか。
「摂取不捨の利益を得る」
と言葉は簡明だが、その内容は極めて深くて重い。(中略)
「摂取不捨」とは文字通り、”摂め取って捨てぬ”ことであり、「利益」とは”幸福”のことである。
“ガチッと一念で摂め取って永遠に捨てぬ不変の幸福”を、「摂取不捨の利益」といわれる。「絶対の幸福」と言ってもよかろう。

「弥陀の誓願不思議に助けられ」た、「『念仏申さん』と思いたつ心のおこる」一念で、「摂取不捨の利益」に救われます。
これは現在の救い(現益)ですが、「往生をば遂ぐる」のは死んでから(当益)です。

誓願不思議に助けられた平生の一念に、死後の往生に疑い晴れたことを、「往生をば遂ぐるなりと信じて」と言われています。
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせた」も、「往生をば遂ぐるなりと信じた」も、「念仏申さんと思いたつ心」「摂取不捨の利益」も、表現が異なるだけで、弥陀に救われた「一念」のことです。
同時に書いたり、言ったりはできないから、前後があるだけなのです。

ところが、

安良岡康作著『歎異抄 全講読』では、順序があるように解釈しています。

弥陀の誓願の絶対性のお助けをこうむることによって、「往生を遂げるのだ」と信ずるようになって(中略)浄土への往生を信ずる心に促されて、おのずから、この「念仏申さんと思ひ立つ心」が「起る」
他の解説書も、「絶対の幸福」に救い摂られる一念を明言しないので、「弥陀の誓願不思議に助けられ」たとは現在の救いか、死後の往生か、曖昧です。

例えば、

佐藤正英著『歎異抄論註』は、

不思議としての阿弥陀仏の誓願にたすけられて〈真にして実なる〉浄土に生れると信じ、進んで念仏を称えようとするとき、ただちに摂めとって捨てることのない阿弥陀仏の恵みにあずかる。
と意訳し、

梅原猛著『誤解された歎異抄』の意訳も、

阿弥陀さまの不可思議きわまる願いにたすけられてきっと極楽往生することができると信じて、念仏したいという気がわれらの心に芽ばえ始めるとき、そのときすぐに、かの阿弥陀仏は、この罪深いわれらを、あの輝かしき無限の光の中におさめとり、しっかりとわれらを離さないのであります。そのとき以来、われらの心は信心の喜びでいっぱいになり、われらはそこから無限の信仰の利益を受けるのであります。

となっています。
梅原氏の言うように、「阿弥陀さまの不可思議きわまる願いにたすけられてきっと極楽往生することができると信じて」いるだけなら、死んでみなければ、誓願に助けていただけるかどうか、ハッキリしないことになります。
きっと極楽往生できると信じて「念仏したいという気がわれらの心に芽ばえ始める」とき、弥陀は「輝かしき無限の光の中におさめとり、しっかりとわれらを離さない」と言うに至っては、「一念の救い」とかけ離れた、私釈と断ずるほかありません。

弥陀の本願を、釈迦が『大無量寿経』で解説された「願成就文」では「信心歓喜乃至一念」と、弥陀の救いは「一念」であると明言されています。
そのあとには「即得往生住不退転」と、平生の一念で正定聚不退転に救い摂られる「不体失往生」が教えられています。
現在ただ今、不体失往生できている人だけが、死んで浄土往生させていただけるのです。

このように弥陀の誓願には、現在救われる「不体失往生」と、死んで救われる、浄土に往生する「体失往生」の、二度の救いが誓われているのですが、「この世の往生」しか言わない『歎異抄』解説書もあります。

真宗大谷派(東本願寺)の教学研究所の所長・小川一乘氏が監修した、
延塚知道著『親鸞の説法「歎異抄」の世界』は、弥陀の救いは、この世だけのことだと主張しています。

第一章では、「弥陀の誓願不思議」の救いが、「往生をばとぐる」と言われ、「摂取不捨の利益」にあずかる、と説かれる。(中略)それらは二つのことが別々にあるのではなくて、本願成就の救いを別の角度から説いたものである。

東本願寺の立ち上げた「親鸞仏教センター」も、『現代語訳 歎異抄』で「弥陀の浄土へ生まれる」というのは「神話的な表現」だと冒涜し、一章の「往生をばとぐる」を、「新しい生活を獲得できる」と迷訳しています。

「現当二益」を説かねば、弥陀の救いにはならないし、聖人の教えにもなりません。
「二益」の教えで一貫し、一念の救いが詳説されている『歎異抄をひらく』が、いかに希有の書であるか、次回からも明らかにしたいと思います。

・・・・・・・・・・・

○龍華三会の暁─56億7000万年後に、弥勒が仏になって最初に説法する時
○横超の金剛心─阿弥陀仏より賜った金剛心
○本願成就文─阿弥陀如来の本願(お約束)の本意を、釈尊が明らかになされたもの
○正定聚─正しく仏になることに定まった人たち。さとりの51段目をいう
○不退転─後戻りしない。崩れない絶対の幸福をいう

*山崎龍明……元・西本願寺教学本部講師。
武蔵野大学教授。
専門は親鸞聖人、『歎異抄』

*安良岡康作……国文学者。
東京学芸大学名誉教授

*佐藤正英……東京大学名誉教授。
日本倫理思想史、倫理学の研究者

*梅原 猛……日本を代表する哲学者。
京都市立芸術大学名誉教授。
国際日本文化研究センター名誉教授

*延塚知道……大谷大学教授

*親鸞仏教センター……真宗大谷派の学者の集まり。
「浄土真宗」から「浄土」が抜けた教えになっている

・・・・・・・・・・・

東京学芸大学名誉教授

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★このような
悩み苦しみ オレはした
だから聞けたと
自慢体験

★依存症
体験談こそ いのち綱

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2010/08/13

『歎異抄』解説書の比較対照【13】 《弥陀の本願まことにおわしまさば》

前回(《『歎異抄』解説本を比較する意義》 親鸞会.NET )に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。
「弥陀の本願まことにおわしまさば」の真意

原文

弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。   (『歎異抄』二章)

梅原猛氏著『誤解された歎異抄』の意訳

もしも阿弥陀さまの衆生救済の願いが真実であるとすれば、そのことをあの『三部経』という経典で説いたお釈迦さまの説法が間違っているはずはありません。もしもこのような『三部経』におけるお釈迦さまの説法が間違っていなかったならば、それを正しく解釈した善導大師の注釈書が間違っているはずがありません。


高森顕徹先生著『歎異抄をひらく』の意訳

弥陀の本願がまことだから、唯その本願を説かれた、釈尊の教えにウソがあるはずはない。
釈迦の説法がまことならば、そのまま説かれた、善導大師の御釈に偽りがあるはずがなかろう。

『歎異抄』二章の「弥陀の本願まことにおわしまさば」を、「もしも本願が、まことであるとするならば」と領解する人が多くあります。
ですが、この章は、弥陀の誓願に疑いが生じた関東の同行が、「直に本当のところをお聞きしたい」と、京都にまします聖人を命として、決死の覚悟で訪ねた時に仰ったお言葉です。
弥陀の本願が「まことか、どうか」をお尋ねした同行に、聖人が「もし、まことであるならば」と仮定で語られたとすれば、何の解答にもなりません。なぜ、答えにならない答えをされたのか、解説者は説明に苦心してきました。
例えば

延塚知道氏著『親鸞の説法「歎異抄」の世界』は、この一節は
『歎異抄』は、『観経』の伝統の中から生まれてきた書物であることを伝えようとしていると解説しています。

釈尊が『観無量寿経』で説かれた「弥陀の本願」を、善導大師が『観無量寿経疏』で注釈され、それをそのまま法然上人、親鸞聖人が伝えられているという「伝統」を示すものだと言うのです。「本願まことか、どうか」を命懸けで聞きに来た同行に、聖人がそんな「伝統」を語られるはずがないでしょう。

また、山崎龍明氏著『初めての歎異抄』は、
「親鸞聖人はやや遠慮がちにいっています」と解説していますが、聖人が「本願まこと」を「遠慮がち」に語られることなど、考えられません。

仮定で語られることすら「本来、親鸞にはありえない」のだと、
石田瑞麿氏著『歎異抄 その批判的考察』は、こう批判します。

「マコトニオハシマサハ」という仮定的表現は親鸞のどこをつっついたら出てくるのか、考えてみてほしい。親鸞においては、「本願」が「マコト」であるかどうか疑問視されたり、「マコト」と一応、仮定してみたりできる余地は本来、寸毫もない。(中略)「弥陀ノ本願マコトニオハシマサハ」という仮定は、本来、親鸞にはありえないことがわかる。それが、ここでこんな形で語られたのは、遠来の人たちの問いが余りにも見当はずれなものだったことによる。

関東の同行の問いがあまりにも見当外れだったから、『歎異抄』だけは、本来ありえない表現がなされたというのでは、取って付けたような説明です。

「仮定」で解釈する従来の説は訂正されるべきと主張する倫理学者もいますが、
佐藤正英氏著『歎異抄論註』の解説は、

「弥陀の本願まことにおはしまさば」の「ば」に、疑問あるいは仮説の意を含ませて解したのでは文意が死んでしまう。従来の解釈は訂されねばならない。(中略)だが、なぜ平叙文ではなく「おはしまさば、……」あるいは「ならば、……」という仮定的な言い廻しが用いられているのだろう。親鸞は、阿弥陀仏の誓願が〈真にして実なる〉ものであることを己れの〈知〉において捉えているわけではない。〈信〉を抱いているにすぎない。いいかえれば己れの〈信〉においてのみ阿弥陀仏の誓願は〈真にして実なる〉ものとして現前している。その〈信〉の地平を明示せんがためであろう。

この説明は、「……であろう」という私見にすぎません。親鸞聖人は、「弥陀の本願まこと」を自分の知恵で“知っておられた”のではなく、「〈信〉を抱いているにすぎない」ことを明示されたのであろう、と推測するにとどまっています。肝心なのは、「弥陀の本願まこと」だと「〈信〉を抱いている」という、その「信」の意味です。これがご自分の心で信じ固めた「信念」にすぎないのか、阿弥陀仏から頂いた「他力の信心」なのか、最も大切なことが書かれていません。

安良岡康作氏著『歎異抄 全講読』も、この一節の「明言・確説は、話し手である親鸞の信念によって証得されたものである」と解説していますが、これでは聖人はご自分の心で信じ固めた「信念」を語られていることになります。

『歎異抄をひらく』では、「弥陀の本願まこと」と疑い晴れた心は、ひとえに弥陀から賜る「他力の信心」であると明言されています。

弥陀の本願に疑い晴れた心は、決して私たちがおこせる心ではない。この心が私たちにおきるのは、まったく弥陀より賜るからである。
ゆえに、「他力の信心」と言われる。「他力」とは「弥陀より頂く」ことをいう。
このように親鸞聖人の信心は、我々が「疑うまい」と努める「信心」とはまったく違い、“弥陀の本願に疑い晴れた心”を弥陀より賜る、まさに超世希有の「信心」であり、「信楽」とも言われるゆえんである。

そして『ひらく』では、「弥陀の本願まことにおわしまさば」は、「まことならば」と「仮定」で語られたのではなく、「弥陀の本願まことだから」という「断定」であると、根拠を挙げて明快な解説がなされています。

だが親鸞聖人には、弥陀の本願以外、この世にまことはなかったのだ。

誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法  (教行信証)
まことだった、まことだった。弥陀の本願まことだった。

の大歓声や、

煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします  (歎異抄)
火宅のような不安な世界に住む、煩悩にまみれた人間の総ては、そらごと、たわごとであり、まことは一つもない。ただ弥陀の本願念仏のみがまことなのだ。

『歎異抄』の「念仏のみぞまこと」は、「弥陀の本願念仏のみぞまこと」の簡略である。聖人の「本願まことの信念」は明白であろう。
親鸞聖人の著作はどこも、「弥陀の本願まこと」の讃嘆で満ちている。「弥陀の本願まこと」が、常に聖人の原点であったのだ。その聖人が、仮定で「本願」を語られるはずがなかろう。
「弥陀の本願まことにおわしまさば」は、「弥陀の本願まことだから」の断定にほかならない。

「弥陀の本願まこと」と、いくら言っても言い足りないのが他力信心なのです。
各人各様の推測や私見をどれだけ読んでも、「弥陀の本願まことにおわしまさば」の理解はおぼつかない。

 
*梅原 猛……日本を代表する哲学者。
京都市立芸術大学名誉教授。
国際日本文化研究センター名誉教授

*延塚知道……大谷大学教授

*山崎龍明……元・西本願寺教学本部講師。
武蔵野大学教授。専門は親鸞聖人、『歎異抄』

*石田瑞麿……元・東海大学教授。浄土教の研究に専心。著書多数

*佐藤正英……東京大学名誉教授。
日本倫理思想史、倫理学の研究者

*安良岡康作……国文学者。
東京学芸大学名誉教授

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2010/07/17

『歎異抄』解説書の比較対照【12】《『歎異抄』解説本を比較する意義》

前回(《弥陀の救いは平生の一念 親鸞会.NET》)
に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。

●『歎異抄』解説本を比較する意義

「まったく自見の覚悟をもって、他力の宗旨を乱ることなかれ。よって故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むる所、いささかこれを註す」
(『歎異抄』序)

〔意訳〕
決して勝手な判断によって、他力の真義を乱すことがあってはならない。このような願いから、かつて聖人の仰せになった、耳の底に残る忘れ得ぬお言葉を、わずかながらも記しておきたい。

『歎異抄』の著者は、後の人が断じて「自見」(自分の勝手な判断)によって教えを曲げることのないようにと、耳の底に残る親鸞聖人のお言葉を、泣く泣く書き記しました。
それから七百年たった今、聖人の願いもむなしく、『歎異抄』は「自見」や「私見」「主観」で奔放に解釈され、根拠のない無責任な解説がまかり通り、親鸞聖人の教えが大きく誤解されています。
異説を正すために書かれた『歎異抄』が、新たな異説・誤解を生んでいるのです。

親鸞聖人が直接、書かれたお言葉を示して、世間に流布した誤謬(あやまり)を正さねばなりません。

高森先生のご著書『歎異抄をひらく』が、聖人自作の『教行信証』や、覚如上人、蓮如上人のお言葉で、古今の間違いや曖昧さをどのように正し、『歎異抄』の真意をひらいているか、比較してみたいと思います。

●弥陀の救いは信心一つか、念仏か

『歎異抄をひらく』が世に出てから三カ月後、山崎龍明著『初めての歎異抄』という書が出ました。
これは平成18年のNHK番組「こころの時代 歎異抄を語る」のテキストをもとに出版した本です。
新たに書かれたものではありませんが、著者は武蔵野大学の教授で、現役の『歎異抄』研究者の中ではトップレベルと評されています。
その最新刊となれば、今の真宗界を代表する解説書といえるでしょう。

今日は、この本と『歎異抄をひらく』を比較しながら、『歎異抄』の特に誤解されやすい点を検討していきます。

●「ただ念仏して」の誤解

〔原文〕

親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と、よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり。 (『歎異抄』二章)

〔意訳・山崎龍明『初めての歎異抄』〕
この親鸞においては、「ただ念仏して、阿弥陀仏に救われて、広大な世界に生まれていくだけです」という法然聖人のお言葉を信じているだけで、ほかになにかの理由があるわけではありません。

〔意訳・高森先生『歎異抄をひらく』〕
親鸞はただ、「本願を信じ念仏して、弥陀に救われなされ」と教える、法然上人の仰せに順い信ずるほかに、何もないのだ。

『歎異抄』二章の「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」の「ただ」の誤解が甚だしい。
「ただ口で、南無阿弥陀仏と称えて」と理解して、「聖人は、ただ念仏を称えて救われたのだ」と思っている人が非常に多くあります。

山崎氏もそう解説していますが、”ただ念仏を称えて救われる”という一般的な解釈だけでは心配なのか、念仏より信心を重んずる別の解釈もあると、次のように言葉を濁しています。

(『初めての歎異抄』)
この「ただ念仏」という語は、一般的には文字どおり「ただ念仏」するということで、ここの「ただ」とは「念仏し」にかかる副詞です。

しかし、この「ただ」はあとの「信ずるほかに別の子細なきなり」の「信ずる」にかかると指摘する人もいます(前掲、佐藤正英『歎異抄論註』)。
親鸞聖人は念仏を称えることよりも、「信」ずることを中心にしたという立場からの指摘のようです。

他人事のような書き方ですが、山崎氏本人は「親鸞聖人は念仏を称えることよりも、『信』ずることを中心にしたという立場」ではないようです。
ですが聖人の教えは、「『信』ずることを中心にした」どころではありません。
“信心一つで救われる”というのが、一貫した聖人の教えであり、これ以外に九十年の生涯、教えられたことはなかったのです。
これを間違えたら、「ただ念仏して」はおろか親鸞聖人の教えすべてを誤解することになってしまいます。
その最も大事な教説の根拠を、『歎異抄をひらく』では繰り返し提示されているのです。

以下はその一部です。

(『歎異抄をひらく』150ページ)

「涅槃の真因は唯信心を以てす」(教行信証)

浄土往生の真の因は、ただ信心一つである。

「正定の因は唯信心なり」(正信偈)

仏になれる身になる因は、信心一つだ。

(『歎異抄をひらく』173ページ)

聖人の教えは一貫して、信心一つの救いだから、「唯信独達の法門」といわれることは、既に詳述した(150ページ)。
『歎異抄』では「ただ信心を要とす」(第一章)と明示し、蓮如上人の証文も多数にのぼる。
ほんの数例、『御文章』から挙げてみよう。

「往生浄土の為にはただ他力の信心一つばかりなり」
(二帖目五通)

浄土へ往くには、他力の信心一つで、ほかは無用である。

「信心一つにて、極楽に往生すべし」(二帖目七通)

信心一つで、極楽に往生するのだ。

「他力の信心一つを取るによりて、極楽にやすく
往生すべきことの、更に何の疑いもなし」
(二帖目十四通)

他力の信心一つ獲得すれば、極楽に往生することに何の疑いもないのである。

最も人口に膾炙されるのは、次の『御文章』だろう。

「聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候」(五帖目十通)

親鸞聖人の教えは”信心一つで助かる”という教示である。

蓮如上人は断言されている。

『歎異抄をひらく』では、”信心一つで助かる”という聖人のお言葉を根拠
に、「ただ念仏して」の「ただ」は、他力信心を表す「ただ」であると詳説
され、「ただ念仏さえ称えたら救われる」という世の迷妄を正されています。

そして次の「念仏して」は、救われた喜びから噴き上がる「報謝の念仏」になることも、根拠を挙げて説示されています。

「ただ」は一般的にはこういう意味、また別の指摘もあるという「私見」の羅列を、親鸞学徒は容認してはなりません。

モノサシとすべきは、親鸞聖人のお言葉なのです。

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2010/06/18

『歎異抄』解説書の比較対照【11】《弥陀の救いは平生の一念》

前回(《『弥陀の救い「無碍の一道」とは 親鸞会.NET》)
に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。

●弥陀の救いは平生の一念

《原文》

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり(『歎異抄』第一章)

延塚知道著『親鸞の説法「歎異抄」の世界』の意訳

阿弥陀如来の本願のはたらきによって大涅槃の真実に触れてたすけられたものは、自己の本来の世界である浄土(大涅槃の真実)へ往き生まれる道が決定されたと信じて、念仏申そうという心が湧き上がってくる。
その時、如来の大悲に迷いの身の全体が丸ごと摂め取られて、人生の全体がどう転んでも涅槃の真実に向かうのだと決定されて、退くことのない精神の大地を得るのである。


高森先生著『歎異抄をひらく』の意訳

“すべての衆生を救う”という、阿弥陀如来の不思議な誓願に助けられ、疑いなく弥陀の浄土へ往く身となり、念仏称えようと思いたつ心のおこるとき、摂め取って捨てられぬ絶対の幸福に生かされるのである。

『歎異抄』一章の冒頭では、「摂取不捨の利益」の弥陀の救いにあずかる時を、「念仏申さんと思いたつ心のおこるとき、すなわち」と言われています。
ここで親鸞聖人が「すなわち」と仰ったのは、弥陀に救われた「一念」を表す、限りなく重い「すなわち」です。
ですから「念仏申さんと思いたつ心のおこるとき」とは、「平生の一念」のことだと、『歎異抄をひらく』では次のように解説されています。

弥陀の救いの時は、
「念仏称えようと思いたつ心のおきたとき」
と、平生の一念であることが明言されている。 (『歎異抄をひらく』)

ところが、先に引用した延塚氏は、「すなわち」を「その時」と意訳しています。他の解説書も同様です。

石田瑞麿著『歎異抄 その批判的考察』の意訳では、

阿弥陀仏のお誓いの不思議なお力にお助けいただいて、極楽浄土に生まれることができるのだと信じて、念仏を称えようと思いたつ心がおこるとき、同時に、阿弥陀仏は、そのお光のなかにおさめとってお捨てにならない救いの恵みにゆだねさせになるのである。

と言い、

山崎龍明著『初めての歎異抄』では、

すべての者を幸せに、そして、広大な世界に気づかせたいという思いで救いを誓った阿弥陀仏の本(誓)願に救われ、かならず自然の浄土にうまれることができると信じて、阿弥陀仏のみ名を称えようというこころがおこるとき、ただちに阿弥陀仏は、その光明(智慧)の中に摂め取って捨てないという利益が恵まれるのです。

と意訳してあります。

「すなわち」を「その時」「同時に」「ただちに」とばかり意訳され、それ以上の解説は皆無です。
これでは、誰が、弥陀の救いは「一念」だと知りえるでしょうか。

弥陀の救いの「一念」を親鸞聖人は、分秒にかからぬ「時尅の極促」と説かれています。

「一念」とは、これ信楽開発の、時尅の極促をあらわす(『教行信証』)

「『一念』とは、弥陀に救われる、何億分の一秒よりも速い時をいう」

「一念の救い」は、弥陀にしかない救いであり、親鸞聖人が最も強調されることです。

覚如上人は「真宗の肝要、一念往生をもって、淵源とす」(口伝鈔)

とまで言われ、「一念往生」(一念の救い)こそが、仏教の「肝要」であり「淵源」だと喝破されているのです。
「肝要」も「淵源」も、仏教では唯一の大事であり、これ以上に重い言葉はありません。

ですから蓮如上人は『御文章』に60回以上も「一念」という言葉を記され、『御一代記聞書』には「たのむ一念の所肝要なり」と道破なされているのです。

親鸞聖人が、「一念」を「すなわち」と表現されているお言葉を挙げておきましょう。

本願を信受するは、前念命終なり。
即得往生は、後念即生なり

(『愚禿鈔』)

これは、聖人が弥陀の本願を解説されたものです。
こんな短いお言葉に、2ヶ所も「即(すなわち)」と言われています。
「即の教え」と親鸞聖人の教えがいわれるのも、うなずけます。
「本願を信受する」とは、「阿弥陀仏の本願まことだった」とツユチリほどの疑いも無くなった「一念」ですから、「聞即信」といわれます。
その「一念」を聖人は、仮に「前念」と「後念」に分けられて、前の命の死と後の命の生とを説かれたのが、「前念命終 後念即生」です。

親鸞聖人は「即(すなわち)」を『唯信鈔文意』に

「『即』はすなわちという、『すなわち』というは時をへだてず日をへだてぬをいうなり」

と、一念のことだと明示されています。
「即得往生」とは、本願を信受した、聞即信の一念で救われた(往生を得る)ことです。
このように親鸞聖人は、平生の心の臨終と誕生の「一念」を、「即(すなわち)」で表されます。

親鸞聖人のこの「即(すなわち)」を知らないから、『歎異抄』の「念仏申さんと思いたつ心のおこるとき、すなわち」を水際立った「平生の一念」と解説する書がないのです。

事実、親鸞仏教センター著『現代語歎異抄』でも

「本願に従おうというこころが湧き起こるとき」

と意訳し、

梅原猛著『誤解された歎異抄』では

「念仏したいという気がわれらの心に芽ばえ始めるとき」と意訳しています。

「湧き起こる」「芽ばえ始める」では、「念仏申さんと思いたつ心」が「一念の弥陀の救い」とは、全く分かりません。

一念の「念仏申さんと思いたつ心」がどんな心かを表明されたのが、一章冒頭の「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなりと信じて」です。
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて」とは、弥陀の誓願によって摂取不捨の利益に救い摂られ、誓願不思議を不思議と知らされたこと。
「往生をば遂ぐるなりと信じて」とは、”必ず浄土へ往ける”と、往生がハッキリした後生明るい心です。

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせた」も、
「往生をば遂ぐるなりと信じた」も、
「念仏申さんと思いたつ心」
「摂取不捨の利益」も、
表現が違うだけで、同じ心です。

同時に書いたり、言ったりはできないから、前後があるだけなのです。

安良岡康作著『歎異抄 全講読』は、

「浄土への往生を信ずる心に促されて、おのずから、この『念仏申さんと思ひ立つ心』が『起る』」

と解説しています。「往生をば遂ぐるなりと信じた」心に催されて、「念仏申さんと思いた

つ心」が起こるという主張です。

佐藤正英著『歎異抄論註』も、一章冒頭の言葉は、同じ「信心」を別の面から表したものではなかろうか、と推測するに止まります。

「弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて往生をばとぐるなりと信じて、念仏まふさんとおもひたつこころのおこるとき」

という文へもう一度戻ってみよう。ここでは、信じてそれから念仏を称えようとか、信じてのちにその

あとで念仏を称えようといったような、両者の間になんらかの間隙が入りうるような、たるんだ関係が語られているのではない。(中略)〈信〉を持つ

ことを別の面から語ったものではなかろうか。(佐藤正英『歎異抄論註』)

「念仏申さんと思いたつ心のおこるとき」は「平生の一念」だと明言される『歎異抄をひらく』は、他の解説書とは、根底から異なる書だと知らされます。

。。。。。。。

*石田瑞麿……元・東海大学教授。浄土教の研究に専心。著書多数

*山崎龍明……元・西本願寺教学本部講師。武蔵野大学教授。専門は親鸞聖人、
『歎異抄』。『本願寺新報』に教学の解説をしばし掲載している

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2010/06/17

『歎異抄』解説書の比較対照【10-2】《『弥陀の救い「無碍の一道」とは 親鸞会.NET》)

前回(『歎異抄』解説書の比較対照【10-1】《『弥陀の救い「無碍の一道」とは 親鸞会.NET》)
に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。

●「無碍の一道」は「念仏」だという誤解

煩悩にまみれた人間の生活は、常に碍りだらけで、「無碍」になることなど、想像もできません。そこで多くの論者が、「無碍」というのは、「弥陀に救われた人(念仏者)」のことではなく、「称える念仏」のことだと理解します。
彼らは「念仏者は無碍の一道なり」を、「”念仏は”無碍の一道なり」と読んで、次のように意訳します。

佐藤正英著『歎異抄論註』の意訳

念仏はなにものにも妨げられない絶対的な手だてである。

安良岡康作著『歎異抄 全講読』の意訳

念仏を申すことは、何ものもさまたげることのない、ただ一つの通路である。

「念仏」は何ものにも妨げられないと聞いても、理解できる人はないでしょう。

『歎異抄』七章では「念仏者」を、すぐ後で「信心の行者」と言い換えられているのですから、「念仏者」は当然、「弥陀に救われ念仏する者」の意味であることは明々白々です。

●救われて無くなる「碍り」とは

そこで問題は、弥陀に救われた人は、どんな「碍り」が無くなるのか、ということです。

『歎異抄』七章の終わりに「罪悪も業報を感ずることあたわず」とありますから、「念仏者は、罪悪感から解放される」「念仏すれば、悪の報いを受けずに済むのだろう」と思う人さえあるようです。

しかし、罪悪感から解放され、罪を犯しても平気な不道徳人間になったら、社会ではとても生きられません。まして、弥陀に救われたら、悪の報いを受けなくなると主張すれば、悪因悪果・自因自果の「因果の道理」を破壊することになります。

そこで、罪悪感が無くなるのでも、悪の報いが消えるのでもありませんが、業の報いを恐れなくなることが「無碍の一道」だという、苦渋の説明がなされるのです。

親鸞仏教センター著『現代語 歎異抄』の解説

念仏を信ずれば業の報いを恐れなくてよいといいたいのでしょう。罪悪感が不必要だと主張すると、倫理否定になるからね。(中略)倫理に苦しむこころからの解放を得るということでしょう。

「倫理」の「否定」ではなく「解放」だと言われても、意味不明でしょう。

梅原猛氏は全く別の解釈をし、「無碍の一道」とは、この世とあの世を自由に往復することだと言うのですが、これも根拠なき私見に過ぎません。

梅原猛著『誤解された歎異抄』の解説

念仏行者は、自由にこの世とあの世の間を往復する人間である。だからそれは、絶対自由の行者であり、天神・地祇も敬服し、魔界、外道も障礙することはない。

意味不明な解釈や想像があふれる根本原因は、仏教の究極の目的が分からないところにあります。

●仏教の究極の目的は「浄土往生」

「無碍の一道」を正しく理解するには、まず、仏教の究極の目的は、”浄土往生”であることを確認しておかなければなりません。

仏教は後生の一大事に始まり、その解決に終わる。後生の一大事を解決して、弥陀の浄土へ往生することが、仏法の究極の目的なのです。
(※後生の一大事について詳しく知られたい方は、コチラをお読みください。» » 後生の一大事について(1)  親鸞会.NET仏教講座)

弥陀に救われたとは、”いつ死んでも浄土往生間違いなし”の身に救い摂られたことです。この大安心を「無碍の一道」というのですから、「無碍」の「碍」とは、浄土往生のさわりです。

弥陀に救われた往生一定の大満足は、何ものも妨げることができないから「無碍の一道」と言われるのです。

石田瑞麿著『歎異抄 その批判的考察』では、「無碍」とは、悪業煩悩が往生の障りとならないことだと示唆しているものの、信心の行者は「過去の悪業の報いから解放される」と、誤解を招く表現をしています。

石田瑞麿著『歎異抄 その批判的考察』の解説

「罪悪モ業報ヲ感スルコトアタハス」ということは、「信心ノ行者」の「無碍ノ一道」を行く、そのすがたということができる。「信心ノ行者」はみずからかつて犯してきた過去の悪業の報いから解放されることができるわけである。

『歎異抄をひらく』では、「無碍の一道」を、次のように明解されている。

「無碍の一道」を正しく理解するには、まず、仏教の究極の目的は、”浄土往生”であることを確認しておかなければならないだろう。

ゆえに「碍りにならぬ(無碍)」といわれる碍りとは、”浄土往生の障り”のことである。

弥陀に救い摂られれば、たとえ如何なることで、どんな罪悪を犯しても、”必ず浄土へ往ける金剛心”には、まったく影響しないから、

罪悪も業報を感ずることあたわず(『歎異抄』第七章)

いかなる罪悪も、「必ず浄土へ往ける身になった」弥陀の救いの障りとはならない。

と言明し、「念仏者は無碍の一道なり」と公言されるのである。

ではなぜ、悪を犯しても往生の障りにならぬのか。

悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに(『歎異抄』第一章)

ひとたび弥陀の救いに値えば、どんな罪悪を犯しても、自分の罪の深さに怖れおののき、
浄土往生を危ぶむ不安や恐れは皆無となる。弥陀の本願に救われた往生一定の決定心を、
乱せるほどの悪はないからである。

何ものも崩せぬ、邪魔だてできぬ、不可称・不可説・不可思議の世界が信楽(信心)だから、「無碍の一道」と聖人は喝破されたのだ。

同時に「無碍の一道」の素晴らしさは、いかなる善行を、どんなに励んだ結果も及ばぬ、十方法界最第一の果報であるから、

「諸善も及ぶことなし」(第七章)
「念仏にまさるべき善なし」(第一章)
『歎異抄』の中でも特に知られる「無碍の一道」ですが、仏教の究極の目的は「浄土往生」という出発点を誤れば、正しい理解は望むべくもないでしょう。

と、『歎異抄』は宣言するのである。

。。。。。。

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山崎龍明

元・西本願寺教学本部講師
武蔵野大学教授
専門は親鸞聖人、『歎異抄』
『本願寺新報』に教学の解説をしばしば掲載している

佐藤正英

東京大学名誉教授
日本倫理思想史、倫理学の研究者

安良岡康作

国文学者
東京学芸大学名誉教授

親鸞仏教センター

真宗大谷派の学者の集まり
「浄土真宗」から「浄土」が抜けた教えになっている

梅原 猛

日本を代表する哲学者
京都市立芸術大学名誉教授
国際日本文化研究センター名誉教授
『聖徳太子』『仏教の思想』などの著書多数

石田瑞麿

元・東海大学教授
浄土教の研究に専心
著書多数

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2010/06/14

『歎異抄』解説書の比較対照【10-1】《『弥陀の救い「無碍の一道」とは 親鸞会.NET》)

前回(『歎異抄』解説書の比較対照《『霧に包まれる「摂取不捨の利益」  親鸞会.NET》)
に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。

『歎異抄』に新たな異変

『歎異抄をひらく』(平成20年3月発刊)が世に出て2年以上たちます。
日本の三大古文に数えられる『歎異抄』の解説書は、年に10冊は新刊が出ていたのに、『ひらく』が世に出て以来、その流れがパッタリ止まってしまいました。

それまで自由奔放に解釈されてきた『歎異抄』でしたが、『歎異抄をひらく』は従来の書とは一線を画します。『教行信証』など親鸞聖人のお聖教を根拠に、聖人のお言葉で『歎異抄』の真意を解説されているからです。そこには私見は一切、混じっていません。

真宗十派が、かつてしたことのない解釈が『歎異抄をひらく』なのです。正統を自負する者は当然、『教行信証』を土俵に反論しなければなりません。それがどうしたことか、2年たっても何の反論もないのです。

真宗十派の沈黙と対照的に、『歎異抄ひらく』は仏教書の常識を破る、17万部のベストセラーになっています。真の正統はどちらか、大衆に日々夜々、浸透しつつあります。これを自称「正統派」が黙視できるはずがありません。必ずや反論、批判に出るでしょう。

案の定、真宗大谷派(東本願寺)が、新たな動きを見せました。「聖人七百五十回御遠忌記念出版」として、シリーズ『親鸞』全十巻を、4月から毎月1冊ずつ刊行するというのです。監修は、真宗大谷派・教学研究所の所長を務める小川一乘氏(前・大谷大学学長、74歳)。大谷派の教学のトップです。

このたび、第1回として『親鸞の説法──「歎異抄」の世界』が発売されました。著者は大谷大学教授の延塚知道氏、62歳。紹介には「『教行信証』を正確に読むために、『浄土論註』を当面の研究課題としている」とあります。

『歎異抄』解説は、「これは私の一解釈」と前置きした無責任なものばかりですが、今回の解説書は冒頭から『歎異抄』と『教行信証』は「まったく同質」と言い切り、しかも聖人のお言葉を多数、引用しています。『歎異抄をひらく』をかなり意識しているのでしょう。
従来なかったスタイルの解説書の登場は、一事件に終わるのか、地殻変動の前兆か。日本思想界の根底にある『歎異抄』の潮流に、何が起きているのでしょうか。
今回、出された、大谷派の『「歎異抄」の世界』の内容も含めて見てみましょう。

●「無碍」は執着の無くなったことか

《原文》

念仏者は無碍の一道なり。そのいわれ如何とならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなきゆえに、無碍の一道なり、と云々(『歎異抄』第七章)

延塚知道著『親鸞の説法「歎異抄」の世界』の意訳

本願の名号を称える者は、すべての束縛から解放された自由な道に立つことができる。その理由はなぜかと言えば、本願を信じる者には天の神や地の神が敬いひれ伏すからである。反対に、悪魔や外道も何の障りにもならない。また自分が犯した罪の一切を他力の信心が引き受けてくれるから、悩む必要はないし、善も誇る必要はない。他力の信念には善悪を超えた自由な道が開かれるのである。


高森先生著『歎異抄をひらく』の意訳

弥陀に救われ念仏する者は、一切が障りにならぬ幸福者である。
なぜならば、弥陀より信心を賜った者には、天地の神も敬って頭を下げ、悪魔や外道の輩も妨げることができなくなる。犯したどんな大罪も苦とはならず、いかに優れた善行の結果も及ばないから、絶対の幸福者である、
と聖人は仰せになりました。

七章冒頭の「念仏者は無碍の一道なり」は、よく知られ、種々に論じられているところです。特に「無碍の一道」は、弥陀に救われた世界を表す、『歎異抄』でも最重要の語句ですが、各人の勝手な解釈がなされてきました。
例えば、先に引用した延塚氏は「無碍の一道」を、「すべての束縛から解放された自由な道」「善悪を超えた自由な道」と意訳しています。これが弥陀の救いだというのです。

では、善悪を超え、善悪から解放された境地とは、いかなるものでしょうか。延塚氏によれば、《「善悪、好き嫌い、勝ち負け」にこだわる「執着」から解放されたことである。弥陀に救われたとは、「勝ち負けとか優越感と劣等感の間で苦しむこと」のない、「身も心も柔らかになって、何事も喜んで負けていけるような生き方」に転じたことだ》と主張しています。

もし、勝ち負けにこだわる「執着」が無くなれば、負けて苦しむこともなくなり、一切の苦しみから解放されるでしょう。ですが、「執着」は煩悩ですから、それは「煩悩」が無くなることにほかなりません。一体どこに、そんな煩悩を断じた人間がいるというのでしょうか。

『歎異抄』で、すべての人を「煩悩具足の凡夫」「煩悩熾盛の衆生」と言われているように、仏教では煩悩の塊が人間であり、煩悩以外に何もないと説かれています。ですから煩悩は死ぬまで、減りも無くなりもしないし、断ち切ることは絶対にできないのです。それを親鸞聖人は、次のように教えられています。

「凡夫」というは無明・煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、瞋り腹だち、そねみねたむ心多く間なくして、臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず
(『一念多念証文』)

人間というものは、欲や怒り、腹立つ心、ねたみそねみなどの、かたまりです。これらは死ぬまで、静まりもしなければ減りもしません。もちろん、断ち切れるものでは絶対にありません。

延塚氏は、弥陀の救いは「すべての束縛から解放された自由な道」だと繰り返していますが、自分は煩悩執着が無くなったつもりなのでしょうか。「執着がいけない。自分は執着していない」と力んでいるとしたら、その「こだわり」こそが他ならぬ執着です。「何事も喜んで負けていける」ような、腹を立てない人間が実在するでしょうか。もしいたら、煩悩の無くなった、人間ではない存在です。

ですが、そんな非現実的な世界が弥陀の救いだと主張するのは、東本願寺だけではありません。西本願寺住職の、武蔵野大学教授・山崎龍明氏の解説も同質です。

山崎龍明著『初めての歎異抄』の解説

苦しみは苦しみのままに、悲しみも悲しみのままに我が身にうけとめて生きていける世界が開かれます。そこから、これが私の人生であった、これでよかったという慶びの中に生きる自己の発見があります。
「無碍」を執着とか煩悩が無くなることだと理解すると、実現不可能な、観念の遊戯に終わってしまうのです。

《つづく》

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2010/05/22

『歎異抄』解説書の比較対照【9】『霧に包まれる「摂取不捨の利益」  親鸞会.NET

前回(『歎異抄』解説書の比較対照《『歎異抄』と「二種深信」》)
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に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。

《原文》

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて
「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益に
あずけしめたまうなり
(『歎異抄』第一章)

梅原猛著『誤解された歎異抄』の意訳

阿弥陀さまの不可思議きわまる願いにたすけられてきっと極楽往生することができると信じて、念仏したいという気がわれらの心に芽ばえ始めるとき、そのときすぐに、かの阿弥陀仏は、この罪深いわれらを、あの輝かしき無限の光の中におさめとり、しっかりとわれらを離さないのであります。そのとき以来、われらの心は信心の喜びでいっぱいになり、われらはそこから無限の信仰の利益を受けるのであります。

高森先生著『歎異抄をひらく』の意訳

〝すべての衆生を救う〟という、阿弥陀如来の不思議な誓願に助けられ、疑いなく弥陀の浄土へ往く身となり、念仏称えようと思いたつ心のおこるとき、摂め取って捨てられぬ絶対の幸福に生かされるのである。

「弥陀の誓願」と聞くと、「死んだら極楽に生まれさせてくださるというお約束」程度に思っている人がほとんどです。万人のその誤解を正し、弥陀の救いは〝今〟であり、その救済は如何なるものかを明示し、人間の真の生きる道をひらかれたのが親鸞聖人です。
聖人の教えを漢字四字で「平生業成」といわれます。「平生」とは「現在」のこと。人生の目的を「業」という字であらわし、完成の「成」と合わせて「業成」といわれます。「平生業成」とは、人生の目的が現在に完成するということです。人は何のために生まれてきたのか。何のために生きているのか。なぜ苦しくとも、生きなければならないのか。
親鸞聖人は、人生の目的を次のように喝破されています。

生死の苦海ほとりなし
久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ
乗せてかならずわたしける
(『高僧和讃』)

「苦しみの波の果てしない海に、永らくさまよい続けてきた私たちを、弥陀の誓願の船だけが、必ず乗せて渡してくださるのだ」
微塵劫のあいだ生死を繰り返し、苦しみ続けてきた私たちが救われる道は、弥陀の誓願ただ一つです。真実の道は一本キリだから「弥陀弘誓の船のみぞ」と仰り、弥陀の救いにあうことこそ、真の生きる目的だと明示されているのです。

弥陀の救いの時と内容

『歎異抄』全十八章の収まる第一章は、親鸞聖人の教えの肝要を略説する極めて重要な内容を持ちます。一章ではまず、弥陀の救いの時は、
「念仏称えようと思いたつ心のおきたとき」
と、平生の一念であることが明言されています。
ではその救いとは、いかなるものか。
「摂取不捨の利益を得る」
と言葉は簡明ですが、その内容は極めて深くて重い。
「摂取不捨の利益」とは何か。最大の関心事なのですが、なぜか不明瞭なままで甘んじられているようです。
以下に挙げる解説書はいずれも、「摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」の意訳があるだけで、それ以上の解説はありません。

山崎龍明著『初めての歎異抄』の意訳
阿弥陀仏は、その光明(智慧)の中に摂め取って捨てないという利益が恵まれるのです。

石田瑞麿著『歎異抄 その批判的考察』の意訳
阿弥陀仏は、そのお光のなかにおさめとってお捨てにならない救いの恵みにゆだねさせになるのである。

佐藤正英著『歎異抄論註』の意訳
摂めとって捨てることのない阿弥陀仏の恵みにあずかる。

私たちが最も知りたいのは、弥陀の光明に摂め取られたらどうなるのか、救いに恵まれる前と後とで、どこが変わるのかです。その肝心なことが、これらの意訳では一向に分かりません。次の安良岡康作著『歎異抄 全講読』の解説も、「摂取不捨」という仏語の出典に言及するにとどまっています。

「摂取」は、仏語で、仏が慈悲心によって、一切の衆生を受け入れて、救済し給うの意。「不捨」は、お捨てにならない。『観無量寿経』に、「一一光明、遍照十方世界、念仏衆生、摂取不捨」とあるのに由る。
(安良岡康作『歎異抄 全講読』)

親鸞仏教センター著『現代語 歎異抄』に至っては、憶測と想像の羅列です。

B▼「阿弥陀の摂めとって捨てない利益」というのは、得られたあとに感ずるものでしょう。「こんなに素晴らしい世界だったんだ」という感覚です。(中略)
A▼「生活に揺るぎのない不動の精神が与えられる」はどうでしょうか?(中略)
C▼「摂取不捨」は、譬喩としては、向こうから守られてあるという感じかな。
(親鸞仏教センター『現代語 歎異抄』)

「摂取不捨の利益」とは、「凄い弥陀の救い」のことですが、「凄い救い」とはいかなるものでしょうか。「救われる」前と後とは、どこが、どう変わるのでしょうか。
その違いが鮮明にならねば、依然として『歎異抄』は深い霧に包まれてしまうでしょう。

「摂取不捨の利益」とは

「摂取不捨」とは文字どおり、〝摂め取って捨てぬ〟ことであり、「利益」とは〝幸福〟のことです。
〝ガチッと一念で摂め取って永遠に捨てぬ不変の幸福〟を、「摂取不捨の利益」といわれます。「絶対の幸福」と言ってもいいでしょう。人生の目的は、時間をかけて徐々に完成するのではありません。人生の目的が果たされるのは「一念」です。一念で弥陀に救い摂られた、永遠の幸福とは、どんな世界でしょうか。

『歎異抄をひらく』では、いちばん聞きたい「摂取不捨の利益」を、次のように詳説されています。

生きる目的は幸福だとパスカルも言う。自殺するのも楽を願ってのことであり、すべて人の営みは、幸せの外にはありえない。
だが、私たちの追い求める喜びは、有為転変、やがては苦しみや悲しみに変質し、崩壊、烏有に帰することさえある。
結婚の喜びや、マイホームの満足は、どれだけ続くだろう。配偶者がいつ病や事故で倒れたり、惚れた腫れたは当座のうち、破鏡の憂き目にあうかも知れぬ。
夫を亡くして苦しむ妻、妻を失って悲しむ夫、子供に裏切られ激怒する親、最愛の人との離別や死別。世に愁嘆の声は満ちている。
生涯かけて築いた家も、一夜のうちに灰燼に帰し、昨日まで団欒の家庭も、交通事故や災害で、「まさか、こんなことになろうとは……」
天を仰いで茫然自失。辛い涙で溢れているのが現実だ。
瓢箪の川流れのように、今日あって明日なき幸福は、薄氷を踏む不安がつきまとう。たとえしばらく続いても、死刑前夜の晩餐会で、総くずれの終末は、悲しいけれども迫っている。

まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず。されば死出の山路のすえ、三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ (御文章)
病にかかれば妻子が介抱してくれよう。財産さえあれば、衣食住の心配は要らぬだろうと、日頃、あて力にしている妻子や財宝も、いざ死ぬときには何ひとつ頼りになるものはない。一切の装飾は剥ぎ取られ、独り行く死出の旅路は丸裸、一体、どこへゆくのだろうか。

蓮如上人、乱打の警鐘である。
ふっと死の影が頭をよぎるとき、一切の喜びが空しさを深め、〝なぜ生きる〟と問わずにおれなくなる。
〝死の巌頭にも変わらぬ「摂取不捨の利益」こそが人生の目的〟
親鸞聖人のお言葉が、真実性をおびて響いてくるのではなかろうか。
風前の灯火のような幸せ求めて、今日も人はあくせく苦しんでいる。なんとか摂取不捨の利益の厳存を伝えなければならない。
(『歎異抄をひらく』)

日本の歴史上、最も成功した秀吉も、臨終には「難波のことも夢のまた夢」と寂しくこの世を去っています。死んでいく時に、何が光になるでしょうか。名誉が残るといっても、千年、万年後には影も形もありません。そんな儚い幸福で、「人間に生まれてよかった」の生命の歓喜が得られるでしょうか。
「摂取不捨の利益」に生かされ、人界受生の本懐を果たされた聖人の法悦を、『歎異抄をひらく』では次のように書かれています。
ひとたび弥陀より摂取不捨の利益を賜れば、何時でもどこでも満足一杯、喜び一杯、人生本懐の醍醐味が賞味できるのだ。
親鸞聖人の、その歓喜の証言を聞いてみよう。

誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法 (教行信証)
まことだった、まことだった! 摂取不捨の利益、本当だった! 弥陀の真言ウソではなかった!

永久の闇より救われて苦悩渦巻く人生が、そのまま絶対の幸福に転じた聖人の、驚きと慶喜の絶叫なのだ。この摂取不捨の妙法を詳説されたのが親鸞聖人なのである。
(『歎異抄をひらく』)

どの解説書も曖昧だった「摂取不捨の利益」こそ、古今の人類が探求してやまぬ「人生の目的」です。『歎異抄』の愛読者は多いですが、〝摂取不捨の利益にあずかること〟が人生の目的と知る人は少ないのではないでしょうか。
山に入って山が見えないのかもしれません。

梅原 猛

日本を代表する哲学者
京都市立芸術大学名誉教授
国際日本文化研究センター名誉教授
『聖徳太子』『仏教の思想』などの著書多数
山崎龍明

元・西本願寺教学本部講師
武蔵野大学教授
専門は親鸞聖人、『歎異抄』
『本願寺新報』に教学の解説をしばしば掲載している

石田瑞麿

元・東海大学教授
浄土教の研究に専心
著書多数
佐藤正英……東京大学名誉教授

日本倫理思想史、倫理学の研究者

安良岡康作

国文学者。
東京学芸大学名誉教授

親鸞仏教センター

真宗大谷派の学者の集まり。「浄土真宗」から「浄土」が抜けた教えになっている

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2010/05/12

『歎異抄』解説書の比較対照【8】『歎異抄』と「二種深信」 親鸞会.NET

前回(なぜ東大教授も誤読したのか 親鸞会.NET)に引き続き
http://www.shinrankai.net/2010/04/tannisyo-19.htm
『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。

(原文)

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり
(『歎異抄』第一章)

山崎龍明著『初めての歎異抄』の意訳

すべての者を幸せに、そして、広大な世界に気づかせたいという思いで救いを誓った阿弥陀仏の本(誓)願に救われ、かならず自然の浄土にうまれることができると信じて、阿弥陀仏のみ名を称えようというこころがおこるとき、ただちに阿弥陀仏は、その光明(智慧)の中に摂め取って捨てないという利益が恵まれるのです。

高森先生著『歎異抄をひらく』の意訳
“すべての衆生を救う”という、阿弥陀如来の不思議な誓願に助けられ、疑いなく弥陀の浄土へ往く身となり、念仏称えようと思いたつ心のおこるとき、摂め取って捨てられぬ絶対の幸福に生かされるのである。

第一章冒頭の「往生をば遂ぐるなりと信じて」の「信じて」を、ほとんどの解説書が、そのまま「信じて」と現代語訳しています。例えば梅原猛著『誤解された歎異抄』は「きっと極楽往生することができると信じて」と訳し、安良岡康作著『歎異抄 全講読』は「『浄土に往って生れることを果たすのだ』と信じて」と意訳しています。
だが『歎異抄をひらく』では「信じて」は使われず、「疑いなく弥陀の浄土へ往く身となり」と明らかに一線を画する。それは、聖人の「信じて」は、常識的な「信じて」と根本的に異なるからです。

「信ずる」のは疑心があるから

世間では、「信ずる」とは「疑わないこと」だと思われています。この誤った常識を正さなければ、『歎異抄』は冒頭から読めません。
「信ずる」とは、「恐らく間違いないだろう」と思うことであり、そこには疑いが残っています。もし疑う余地の全くないことであれば、「信ずる」とは言わず、「知っている」と言うからです。
例えば、天気予報で「明日は晴れ」と聞いた人は、「明日は晴れると信じている」と言います。未来については、確実なことは知りようがないから、信ずるほかはありません。しかし、現に雨が降っているのを見れば、「今は雨だと信じている」とは言わず、「雨だと知っている」と言います。信ずる必要がないからです。
火に触れた体験がなければ、”皆が言うから、多分火は熱いものなのだろう”と信ずるしかありませんが、火傷をした人は「火は熱いものと知っている」と断言します。
「信ずる」のは疑心があるからで、全く疑いの無いことは「知っている」と言います。聖人の「信じて」は、「真に知んぬ」と言われ、微塵の疑いも無く”まことだった”と知らされたことです。これを「深信」といいます。

聖人の「信心」は「二種深信」

弥陀に救われると、「機」と「法」の二つに疑い晴れるから、「機法二種深信」といわれます。「機の深信」とは、「堕ちるに間違いなし」の真実の自己(機)がハッキリすることであり、「法の深信」とは、「助かるに間違いなし」と弥陀の本願(法)に疑い晴れたことです。この二つが同時に立って相続するから、「機法二種一具の深信」といわれます。
このように機と法に疑い晴れた心は、決して私たちがおこせる心ではありません。この心が私たちにおきるのは、全く弥陀より賜るからです。なので、「他力の信心」と言われるのです。「他力」とは「弥陀より頂く」ことをいいます。
親鸞聖人の説かれる信心は、我々が「疑うまい」と努める「信心」とは全く違い、”機と法に疑い晴れた心”を弥陀より賜る、超世希有の「二種深信」です。
地獄一定と極楽一定が同時にハッキリする、不可称不可説不可思議の「二種深信」一つ解説されたのが、聖人畢生の大著『教行信証』です。

『歎異抄』を総括する第一章には、短い章にもかかわらず、「信」の文字が繰り返されています。
「往生をば遂ぐるなりと信じて」
「しかれば本願を信ぜんには」
「ただ信心を要とすと知るべし」
他宗教や世間で言う「信心」と字は同じでも、親鸞聖人が肝要と仰る「信心」は、全く次元の異なる「二種深信」だから、「二種深信」を知らずして『歎異抄』は毛頭、読めないことが分かるでしょう。

氾濫する勝手な解釈

ですが、『歎異抄』の「信じて」を、『教行信証』に説かれる二種深信で解説する書が、どこにあるでしょうか。
石田瑞麿著『歎異抄 その批判的考察』も、「『誓願不思議ニタスケラレ』た『信』も『念仏』も真実の信心であり、真実の念仏であろう」と推測するにとどまっています。
次に挙げる安良岡康作著『歎異抄 全講読』の解説では、他力より賜る信心なのか、自分で「信じるようになって」ということなのか、釈然としません。

「信じて」の語にこもる信心は、人間の努力・精進によって獲得されるのではなく、どこまでも、「弥陀の誓願の絶対性のお助けをこうむることによって、『往生を遂げるのだ』と信ずるようになって」という意味になるのである。
(安良岡康作『歎異抄 全講読』)

また、親鸞仏教センター著『現代語 歎異抄』は、「往生をば遂ぐるなりと信じて」を「新しい生活を獲得できると自覚して」と意訳しています。弥陀より賜る「二種深信」と、新しい生活が始まる「自覚」とでは、何の接点もありません。
佐藤正英著『歎異抄論註』は、「信」には「不信」(疑い)が含まれると、根拠なき自説を展開する。

〈信〉は〈不信〉を内包している。そしてそれは〈不信〉への絶えざる揺り戻しとして現れる。 (佐藤正英『歎異抄論註』)

『歎異抄』で最も大事な「信心」を、「二種深信」と似ても似つかぬ解説をする書ばかりです。『教行信証』と無縁な、私見を述べた『歎異抄』解説本に、親鸞学徒は用事はありません。
必要なのは、『教行信証』に立って『歎異抄』を解説した書です。
 

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2010/04/16

比較対照『歎異抄をひらく』【7】 なぜ東大教授も誤読したのか 親鸞会.NET

前回(『歎異抄』解説書の比較対照《急ぎ仏になりて》)
http://www.shinrankai.net/2009/12/hikak-2.htm
に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。

《原文》

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり
(『歎異抄』第一章)

『誤解された歎異抄』梅原猛著の意訳

阿弥陀さまの不可思議きわまる願いにたすけられてきっと極楽往生することができると信じて、念仏したいという気がわれらの心に芽ばえ始めるとき、そのときすぐに、かの阿弥陀仏は、この罪深いわれらを、あの輝かしき無限の光の中におさめとり、しっかりとわれらを離さないのであります。そのとき以来、われらの心は信心の喜びでいっぱいになり、われらはそこから無限の信仰の利益を受けるのであります。


『歎異抄をひらく』高森顕徹先生著の意訳

“すべての衆生を救う”という、阿弥陀如来の不思議な誓願に助けられ、疑いなく弥陀の浄土へ往く身となり、念仏称えようと思いたつ心のおこるとき、摂め取って捨てられぬ絶対の幸福に生かされるのである。
かつて親鸞研究の第一人者として、自他ともに認める東大教授が、この一節を誤読して、大きな問題を起こしたことがあります。

氏は、ここを「心から阿弥陀仏の救いを信じて念仏をとなえれば、ただ一度の念仏で極楽往生が約束される」と解釈し、高校の教科書『詳説日本史』にもそう記したのが発端でした。

「あれでよいのか」の告発意見が、毎日新聞の投書欄などに続出した。
親鸞聖人の教えは漢字四字で「信心為本」「唯信独達」と言われるように、信心一つで助かるという教えです。
弥陀の本願に疑い晴れた一念で、浄土往生間違いない身に救い摂られるのです。
東大教授が言うように、「ただ一度の念仏で救われる」のであれば、信心獲得した直後、一度も念仏を称えずに死んだ人は、極楽へは往けないことになります。

ですから、ある投書氏などはダイレクトに、

「弥陀の本願の『信』がこもった直後、一度の念仏も称えずに死んだ者は、往生が決定しなかったのか」と牙城に迫りました。

自他ともに認める親鸞研究の権威、どんな回答を寄せるか、大いに固唾をのませた教授の返答は、何ともそっけない落胆させるものでした。
「返事になるかどうか分かりませんが、『歎異抄』をよくよくお読みください。それがすベてです」

■救いは信心一つか念仏か

果たして『歎異抄』には、教授が言うように「念仏称えたら助かる」と書かれているのか、それとも「信心一つで助かる」と書かれているのか。

一章冒頭には、

「『念仏申さん』と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」(『歎異抄』第一章)

とあります。
「摂取不捨の利益にあずけしめたまう」とは、弥陀に救い摂られ極楽往生が決定したことです。それが、
「『念仏申さん』と思いたつ心のおこるとき」
と説かれています。
これでは極楽往生が決定するのは”念仏称える前”であることは、誰の目にも明白です。

教授の解釈をめぐって、新聞紙上にも活発な意見が多数掲載され、浄土真宗の学者たちも登場し、「某教授の説は誤り」「訂正さるべき」と痛烈な批判が公表されました。

それでも沈黙を守っていた教授は、間もなく自説を撤回し、「念仏を唱えようかなと思い立つ心の起こるとき、直ちに、弥陀のすくい取って捨てることない利益にあずからせてくださるのだ」と訂正。

問題の教科書も、”親鸞の教えは念仏で救われるのではなく、信心一つの救いである”と改訂されました。

こんな親鸞聖人の教義の、核心にかかわる誤りが、なぜ起きたのでしょう。

それは『歎異抄』の「『念仏申さん』と思いたつ心のおこるとき」を、「一度の念仏を称えたとき」と、勘違いしたところにあったのです。
「『念仏申さん』と思いたつ心のおこるとき」と、「念仏称えたとき」とは、明らかに前後があるのに、です。
東大教授・親鸞研究の大家でも、いかにも誤りやすいのが『歎異抄』ともいえましょう。

■典型的な『歎異抄』の誤解

多くの解説書が『歎異抄』一章を、東大教授と同様に、「念仏を称えたら助かる」と解釈している。冒頭に引用した梅原猛著『誤解された歎異抄』も、ここを念仏の救いを説かれた章と解説しています。

これは、親鸞の思想であると同時に法然の思想でもある。口称念仏の行はまことに易しい行であり、末代の凡夫でも可能である。(中略)知恵もなき徳もなき末代の凡夫は、念仏往生するより往生の道はない。
(梅原猛『誤解された歎異抄』)

『歎異抄 全講読』安良岡康作著も、人間の信心から発する念仏で救われると書いています。

弥陀の誓願に対する人間の信心がいかにして成立するか、また、それにもとづいて発する念仏によって、弥陀の摂取の利益に参加させ給うに至るかが、極めて緊張した、無駄のない文体で、力強く叙述されている
(安良岡康作『歎異抄 全講読』)

『歎異抄』には「念仏」が頻出するから、このような”念仏称えたら救われる”という誤解は後を絶ちません。

■弥陀の救いはいつか

「『念仏申さん』と思いたつ心のおこるとき」を、単純に「念仏称えたとき」と理解する人がほとんどですが、『歎異抄をひらく』では、これは「念仏称えたとき」ではなく、弥陀に救われた「一念」だと解説されています。

弥陀の救いの時は、「念仏称えようと思いたつ心のおきたとき」と、平生の一念であることが明言されている。(140ページ)

「『念仏申さん』と思いたつ心のおこるとき(一念)」と、「念仏称えたとき」とは、前後があるのだから、明確に区別されなければなりません。
その信の一念の水際を知らず、自力と他力の峻別ができないから、「念仏称えたとき救われる」と誤解していくのです。

『歎異抄論註』佐藤正英著などは、この二つを区別するどころか、一体化させるような解説をしています。

「念仏まふさんとおもひたつ」とは、それ故、往々誤解せられているような、たんに念仏を称えようという考えを起す、の意ではない。
念仏を称えようという考えを起し、進んで念仏を称える、の意である。
念仏を称える行為をそれ自身に内包しているところの言い廻しである。
(佐藤正英『歎異抄論註』)

このような、弥陀の救いが、ますます分からなくなる解説に対し、『歎異抄をひらく』では、「南無阿弥陀仏」の「な」も言わない前の、”称えよう”と思いたつ心の起きた一念に救い摂られると明言されています。

■「念仏申さん」と思いたつ心

次に問題になるのは、「念仏称えようと思いたつ心」とは、どんな心かということです。
“念仏称えよう”と思いたつ心のおきたとき、といっても、いろいろの場合が考えられます。

夜中に一人で、墓場の近くを歩いている時に称えようと思う念仏もあるでしょう。
無意識であっても、魔よけの心が働いているのかもしれません。
肉親の死にあって、悲しみに暮れて称える念仏もあろう。台本にあるから仕事心で称える俳優の念仏もあるだろう。”念仏称えようと思いたつ心”といっても、様々です。
科学的に分析すれば同じ涙でも、”うれし涙”やら”悲し涙””悔し涙”など、心はいろいろあるように、同じく南無阿弥陀仏と称えていても、称え心はまちまちです。

親鸞聖人は、念仏を称え心によって三とおりに分けられています。

弥陀が十九願で誓われ、それを釈迦が『観無量寿経』で解説された念仏を、聖人は「万行随一の念仏」と言われ、

二十願で誓われ『阿弥陀経』に説かれる念仏を「万行超過の念仏」、

十八願で誓われ、『大無量寿経』に説かれる念仏を「自然法爾の念仏」と教えられています。

これら三とおりの念仏を『歎異抄をひらく』では、平易に詳説されています。

万行随一の念仏――十九願――観無量寿経
万行超過の念仏――二十願――阿弥陀経
自然法爾の念仏――十八願――大無量寿経

■参考

【マンガ】念仏にも三とおりある(1/2)|浄土真宗親鸞会

※浄土真宗 親鸞会公式サイト|念仏を称えてさえいれば助かるのが浄土真宗ではないのか(三通りの念仏)

※浄土真宗親鸞会★朋ちゃんHappy diary♪ ≫ Blog Archive ≫ ★三通りの念仏 『顕正新聞』2月1日号に!!★

同じく念仏称えていても、「諸善よりも勝れているのが念仏」ぐらいに思って称えている念仏者(万行随一の念仏)もあれば、「諸善とはケタ違いに勝れた大善根が念仏だ」と、専ら称える念仏者(万行超過の念仏)もいる。
称え心を、もっとも重視された聖人は、これらの念仏者を総括して自力の念仏者と詳説される。
それとは違って、弥陀に救われた嬉しさに、称えずにおれない念仏者(自然法爾の念仏)を、他力の念仏者と聖人は判別されている。
聖人の念仏者とは、いつもその中の、他力の念仏者であり、弥陀に救われた信心獲得の人のことである。(234ページ)

■「念仏申さんと思いたつ心」=「他力の信心」

一章の「念仏申さんと思いたつ心」に戻ろう。これがどんな心かを表明されたのが、冒頭の「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなりと信じて」です。
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて」とは、”摂取不捨の利益(絶対の幸福)にあずかって、弥陀の誓願不思議だった”と知らされたこと。
「往生をば遂ぐるなりと信じて」とは、”必ず浄土へ往ける”と、往生が本決まりになった後生明るい心です。

この「信じて」は、世間で使う「明日は晴れると信じている」というような「信じる」とは、根本的に異なります。

「信知して」ということであり、ツユチリほどの疑いも無く「明らかに知らされたこと」である。”必ず浄土往生できる”とハッキリしたことを、「往生をば遂ぐるなりと信じて」と言われているのです。

言葉に前後があります、「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせた」も、「往生をば遂ぐるなりと信じた」も、「念仏申さんと思いたつ心」「摂取不捨の利益」も同じ心だが、同時に書いたり、言ったりはできないから、前後のできるのは仕方がないのです。

これらは弥陀より賜る心ですから、「摂取不捨の利益にあずけしめたまう」と言われています。弥陀よりあずけしめたもう心であるから、「他力の信心」といわれます。
「他力」とは、”弥陀より賜ること”。

「念仏申さんと思いたつ心」は、「他力の信心」にほかなりません。
「唯信独達」の「信」も、「念仏申さんと思いたつ心」であり、この心を弥陀から賜った一念に、摂取不捨の利益に生かされるのです。

しかし、「念仏申さんと思いたつ心」イコール「他力の信心」という解説は、皆無に等しい。反対に、この二つを別ものと考え、念仏称えようという心が無くても救われると解説する本さえあります。

『歎異抄 その批判的考察』石田瑞麿著は、

「念仏を称えようと思うことの有無にかかわらず、信心がえられたとき、摂取不捨の利益に与(あずか)る」と書いています。
これでは、「念仏申さんと思いたつ心のおこるとき、摂取不捨の利益にあずかる」と書かれた一章を否定することになるでしょう。

一章は冒頭から、勝手な解釈がまかり通っているから、『初めての歎異抄』山崎龍明著では、「念仏申さんと思いたつ心」を、真理への「うなずき」だと、無責任な自見を述べています。

「念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」とあるとおり、念仏を申して救われるのではなく、そのこころがおこるとき、すでに「救済」されていると示されます。
言葉をかえていえば、それは「真理」なるものへの「うなずき」が生じたとき、といってもよいかもしれません。ここに「信心」の重さが示されています。
(山崎龍明『初めての歎異抄』)

聖人の教えで最も重い「信心」が、かくも軽い感覚で解説されているのです。
まして、「往生をば遂ぐる」を「この世で新しい生活が始まる」と言い換え、仏法の究極の目的である「浄土往生」が抜けてしまった『現代語歎異抄』親鸞仏教センター著の意訳まで飛び出す始末です。

人間の思慮を超えた阿弥陀の本願の大いなるはたらきにまるごと救われて、新しい生活を獲得できると自覚して、本願に従おうというこころが湧き起こるとき、迷い多きこの身のままに、阿弥陀の無限なる慈悲に包まれて、不動の精神的大地が与えられるのである。
(親鸞仏教センター『現代語 歎異抄』)

肝要の「他力の信心」を表す「念仏申さんと思いたつ心」が、真理への「うなずき」とか、「本願に従おうというこころ」程度に訳されているのですから、後は推して知るべしでしょう。

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*梅原 猛……日本を代表する哲学者。
京都市立芸術大学名誉教授。
国際日本文化研究センター名誉教授。
『聖徳太子』『仏教の思想』などの著書多数

*安良岡康作…国文学者。
東京学芸大学名誉教授

*佐藤正英……東京大学名誉教授。
日本倫理思想史、倫理学の研究者

*石田瑞麿……元・東海大学教授。
浄土教の研究に専心。著書多数

*山崎龍明……元・西本願寺教学本部講師。
武蔵野大学教授。
専門は親鸞聖人、『歎異抄』。
『本願寺新報』に教学の解説をしばしば掲載している

*親鸞仏教センター……真宗大谷派の学者の集まり。
「浄土真宗」から「浄土」が抜けた教えになっている

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