2009/06/29

ただ釈尊だけが(親鸞会法話の感想)

【ただ釈尊だけが】谷口 崇さん

「人身受け難し」の聖語を通して、人間に生まれてよかったという喜びがないのは、それ一つ教えられた仏法が聞き難いからだと教えて頂きました。
政治や経済、科学や医学は、苦しい人生の海の泳ぎ方、丸太や板キレのすがり方をコーチしてくれるものでありますが、一時的な安心しか与えてくれません。
ずっと私を支えてくれるものではありません。
巷では『余命一ヶ月の花嫁』という映画が上映中と聞きますが、
実話が元になっていて、初め乳がんと宣告された女性が、苦渋の選択で
乳房を切除し、本人も周囲も「助かった助かった」と喜んでいたのも束の間、
今度は肺ガンに侵され、亡くなるという悲劇です。
私たちは日常的に助かったとよく言いますが、本質的には助かってなどいない
のだと知らされます。
死という大問題が確実な未来にある限り、何人も助からないのです。
ならば何故生きるのか。
多くの人は、死に対しては大いなるアキラメ主義で、せいぜい死ぬまでの間に、一本でも多く、より太い丸太を集めるのが良い人生で、それに失敗した人は負け組で、とにかく丸太だけを見ていてその先のことは見ないようにしているように私には感じられます。
しかし、秀吉然り、家康然り、天下人と言われる人でも、人間に生まれて良かったという喜びの声は聞かれません。
始皇帝もカエサルもチンギスハンもナポレオンも世界の地図を塗り替えるような回天の事業を成し遂げた英雄・豪傑でも、“よくぞ人間に生まれたものぞ”という生命の歓喜を遺して死んだ人を知りません。
ノーベル賞を受賞した科学者もまた然りです。
ただ釈尊だけが、生命の歓喜を明示され、親鸞聖人が身命を賭してその仏意を明らかにして下さいました。
誰も知り得ぬ真実をしらされた親鸞会会員の喜び、とても計り知ることはできません。

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2009/06/27

池袋で自殺しようとビルの屋上に立っている人を見ました

【池袋で自殺しようとビルの屋上に立っている人を見ました】田辺千尋さん

「人身受け難し 今已に受く
 仏法聞き難し 今已に聞く」
というお釈迦様のお言葉について聞かせて頂きましたが、
人間に生まれたことは、仏法を聞かせて頂いて初めて
喜べるのだと思いました。
高森顕徹先生の講演会の前日、池袋で自殺しようとビルの屋上に立っている人を見ました。
その人は「こんな苦しい人生、なぜ生きねばならないのか、死んだ方が
よっぽどマシじゃないか」と私に訴えかけているようでした。
私は体でこそ自殺しようとはしていませんが、本当に、心から人間に
生まれて良かったと思っているか、と自分に問い質さずにはおれません
でした。
“人間に生まれてきて良かった!”という心を抜きにして、生命の尊重を
説いたり、親を大切にしろと言っても、言葉だけが空回りしてしまうだけだ
と思いました。
命を無駄にしたり、自分の人生を破滅させたり、自殺する人は、仏法を
知らないからだと知らされました。
空と水しか見えない海に放り出された私たちは、とりあえず目の前の
丸太や板切れにすがるしかありません。
お釈迦様は、そんな丸太や板切れしか知らない私たちに
「一向専念無量寿仏」と、泳ぐ方向を示されて、この大船に乗ることこそが
人生の目的だとハッキリ仰っていると聞かせて頂きました。
誰も泳ぐ方角も目的も知らずに泳いでいる人ばかりの中、仏法聞かせて
頂いている私はなんと幸せ者なのか・・・と感動して涙が止まりません
でした。
「人身受け難し、今已に受く」
と言える身になるには、聴聞の一本道しかないと、またまた知らされました。

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2009/06/26

一つ歯車狂っていれば(親鸞会の法話の感想)

浄土真宗親鸞会で「人身受け難し」のお釈迦様の言葉を通しての法話がありました。
その感想です。

【一つ歯車狂っていれば】 田宮一志

受け難き人身、聞き難き仏法と知らされる程に、
なぜ今、この自分が仏縁に恵まれたのかと不思議な御縁を
心から喜ばずにおれません。
高校時代、本当に満足できる人生とは何かと、何度も悩みました。
本を読み、親や友人に尋ねましたが、そこから出てきた答えはどれも、
“どの丸太を選ぶか”以上のものは無く、
「人生とはそういうもの」
と自分を納得させ、必死に、より安心できそうな大きい丸太棒を
探し求めてきました。
必ず訪れる死を前にしたら、どんなものも明かりにならないことも
感じてはいました。
しかし、どうにもならない巨大な壁を、できるだけ見ないように
生きてきました。

仏縁を結ばせて頂いた今、世間中の人達が丸太や板切れに向かって
必死に泳いでいるのを見ると、その気持ちは痛い程よくわかります。
私も、どこかで一つ歯車が狂っていれば、同じだったと思います。
大船が判らない以上、それ以外に方法が無いからです。
泳ぐべき方角を知らされた親鸞会会員として、この喜び、ご縁の
ある方と分かち合いたいと思います。

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2009/06/26

親鸞会館で『人身受け難し』の法話

先日、親鸞会館で『人身受け難し』のお釈迦様のお言葉を通しての法話が
ありました。

『人身受け難し 今已に受く
 仏法聞き難し 今已に聞く』

人身とは、人間のことです。
「人身受け難し、今已に受く」
とは“生まれ難い人間に生まれることが出来てよかった”という喜びの
言葉です。
“よくぞ人間に生まれたものぞ”
の生命の大歓喜です。

人間に生まれてよかったの喜びは、生まれてきた目的がハッキリしてこそ
心から溢れ出てきます。
その人生の目的について親鸞聖人は教行信証の冒頭に次のように書かれています。

「難思の弘誓は、難度海を度する大船」
     (親鸞聖人『教行信証・総序』)

これは一体どういう意味なのでしょう。

 

「難度海(なんどかい)」とは、人生を「渡りにくい海」に例えたものです。

“人生の荒波”といわれるように、生きているといろんな波がやってきます。
病気、人間関係、失恋、リストラ、裏切り、などといった苦しみの波です。

しかもそこはちょうど空と水しか見えない海のようなもので、
どこに向かって泳げばいいのか、という方角が分かりません。

見えるのは、プカプカと波間に漂う丸太ん棒や板切れのようなものばかりで、
それはちょうど、“とりあえずの幸せ”“一時的な幸せ”を与えてくれるものと
いえるでしょう。

丸太や板切れにつかまれば、身体が浮き、楽になれるし、つかの間の安心は
得られます。
しかし波がくれば丸太はクルッと周り、しがみついていた人はまたも海に放り出され
潮水飲んで苦しまねばなりません。

悲しいことですが夫や妻、子供、金や財産、地位や名誉などはみな丸太ん棒や
板切れのような浮遊物で、押し寄せる波によって、引き裂かれたり、失ったり、裏切られたり
しては、おぼれ、傷つき、人は苦しみます。
最大の波は、老、病、死でしょう。
あまりの苦しみに溺死してしまった人も決して少なくありません。

そんな人たちに、懸命に泳ぎ方のコーチをしているのが、
政治、経済、科学、医学、芸術文学、法律といったものです。

しかしこれらは、

 「どこに向かって泳ぐのか」
 「なぜ、生きねばならないのか」

肝心な泳ぐ方角、人生の目的を明らかにしているでしょうか。 

何のために生まれてきたのか、
何のために生きているのか、
なぜ苦しくとも生きねばならないのか、
だれも知りません。 

行く先を知らずに泳いでいる人は、やがて力尽きておぼれるだけです。
目的を知らずに生きている人は、死ぬために生きているようなものです。
死を待つだけの人生は苦しむだけの一生に終わります。

私たちは決して苦しむために生まれてきたのではありません。
生きているのでもありません。

すべての人の願いは、苦しみ悩みから解放されて、いかにこの難度海を、
明るく楽しく渡るかに尽きます。 
そんな私たちに、人生の目的を明示されたのが親鸞聖人であり、
その高らかな宣言が教行信証の最初の言葉なのです。

「難思の弘誓は、難度海を度する大船」

「難度海(人生)を明るく楽しく渡す大きな船があった!
 真実の仏法(難思の弘誓)こそがその大船なのだ」

だから真実の仏法(難思の弘誓)を聞くことが大切なのです。
仏教を聞いて人生の目的がハッキリすると

「仏法聞き難し、今已に聞く」
聞き難い仏法が聞けてよかった!

と言わずにおれなくなるのです。
そんな『人身受け難し』についての高森先生の講演会に参詣した
方の感想をいくつか紹介しましょう。

 

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2009/06/24

怖いのは新型インフルエンザ? 〜その根底にあるもの〜

■「最近、テレビをつけると、新型インフルエンザのニュースばっかりだよ」

■「渡航歴のない高校生が新型に感染していることが分かってからは特にね」

■「免疫がないのは怖いね。20世紀初めに、『スペインかぜ』が流行したのも、みんな免疫がなかったからだろ」

■「インフルエンザのパンデミック(世界的流行)ね」

■「記録にある限りでは、人類が遭遇した最初のインフルエンザの大流行らしい。感染者6億人、死者は4000万人ともいわれているから、当時の世界人口18億人の約3割が感染していたことになる」

■「免疫がないことからすると、今回の新型インフルエンザも同じよね。だから世界中が緊張状態になったんだけど、いろいろ調べるうちに、今のところ、毒性はそれほど強くないって分かってきたようね」

■「10日間くらい寝ていれば、治る場合が多いみたいだな。対策も少し緩やかになったんじゃないか?」

■「そうよね。ということは、新型インフルエンザが怖いんじゃないってことよね」

■「え?どういうこと?」

■「寝ていて治るなら、極端な話、風邪と同じじゃない」

■「そうだね」

■「怖いのは、『新型インフルエンザ』ではなくて『死』なのよ」

■「そうか……確かに言われてみれば」

■「死ぬことほど、イヤなことってないわ」

■「イヤなことなら、ほかにもあるよ。地球温暖化とかテロとか、ガンになるとか……」

■「それも同じことでしょ」

■「え?」

■「地球温暖化がイヤだ。テロが怖い。ガンにはなりたくない、というのも、結局、死が怖いということだから」

■「……なるほど」
根底にあるもの
■「『死』という核心に触れるのは、あまりに恐ろしいので、それに衣を着せ、和らげたものと対面しようとしているんじゃないかしら」

■「そうだね。でもどんなに死を考えないように、明るく生きようと思っても必ずやってくるもんな。自分の死は」

■「完全に目を背けることなんて、できないでしょ」

■「自分の死と、一人で対面する時が必ず来るのか……」

■「その死の影に驚かれ、9歳で仏門に入られたのが浄土真宗の祖師・親鸞聖人なのよ」

■「親鸞聖人が仏法を求められた出発点は、そういうことだったんだね。とすると、聖人だけの問題じゃないな。死ぬのは、すべての人の100パーセントの未来。死なない人は一人もないんだから」

■「死んだらどうなるのか、未知の後生に入っていく不安の解決を求められたのよね」

■「僕たちも必ず死んでいかねばならない。それは今晩かもしれない。だけど行く先がハッキリしていないとすれば、すごく不安だね」

■「100パーセントの未来が真っ暗だったら、今も暗くならざるをえないわ。未来と現在は切り離せないもの」

■「え?未来と現在は切り離せない?」

■「だって1週間後に大手術を受けることになったら、今から心が暗くなるでしょ。確実な未来、後生が真っ暗がりな状態で、心からの安心も満足も得られるはずがない」

■「その後生暗い心を、仏教で無明の闇というんだね」

■「その無明の闇こそが、苦悩の根元だと親鸞聖人は教えられているの」

■「親鸞聖人が、その解決をされたのは29歳の時だった。法然上人から、阿弥陀如来の本願を聞かれて、後生明るい心に救い摂られたんだね」
解決の道 明らかに
■「そして聖人は、苦しみの根元である無明の闇を破ってくださる弥陀の本願を、90歳でお亡くなりになるまで叫び続けていかれたのね」

■「いろんなご苦労されたんだよね」

■「あまりにも深いことだから、誰もすぐには分からなかったのよ。今で言えば、カルトとかマインドコントロールなんていう非難もあったでしょうね」

■「そんな誤解や非難と闘いながら、苦しみ悩みの元凶と、それを解決する道を、明らかにしてくださった。その親鸞聖人がお生まれになったことをお祝いして、勤められるご法筵が、降誕会なのか」

■「そうね。本当の幸せになるために、親鸞聖人のみ教えを、しっかり聞かせていただきましょう」

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2009/06/16

【映像】会場のいちばん後ろからでもバッチリ見える大映像(その1)

親鸞会講座皆さん、お元気でしたか? 親鸞会ネット案内役の法子です。今は親鸞会館の大講堂について紹介しています。
大型映像の設置で、講堂のどこに座っても、黒板に書かれた親鸞聖人のお言葉がハッキリ見えるようになっているのよ。

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2009/06/15

菩薩とは

 

 

■親鸞会仏教講座■

「菩薩」と聞いて何を思い浮かべるでしょうか?
“道端や、川べりで、見かける赤い前かけをした石の像”
と答える人は少なくないでしょう。。
雨に打たれ、風に吹かれ、雪が積もっても、
じっとそこに立ち尽くす。
寒くてかわいそうに、と冬には手作りの着物を着せ、
帽子をかぶせる人もありますね。
食事も取らず、トイレにも行かぬ、黙然と路傍にたたずむ
石像が“菩薩”と思っているようです。

しかし、そうではないのです。
まず言葉の意味から見てみましょう。

「菩薩」とは「菩提薩埵」の略です。

「菩提」とは、インドの古い言葉を漢字で表したもので、
「本当の幸せ」のこと。

「薩埵」は「求める人」のこと。

ですから「菩薩」とは、「菩提薩埵」“本当の幸せを求める人”という
意味なのです。

「いかなる人も己自身の幸運の建設者なり」
といったラテンの詩人もいましたが、
〝幸せになりたい〟と思わない人はいないでしょう。

ですが現実は、
「コロンブスが幸福であったのは、彼がアメリカを発見した時ではなく、
 それを発見しつつあった時である」
のドストエフスキーの言葉が象徴するように、
つかんだと思った瞬間、幸福はするすると逃げてしまいます。
一時的な安心、満足はあっても、心から
「人間に生まれてよかった」
の喜びを感得しているでしょうか。
老い、病、死という壁にぶち当たり、行く先しれない
人生のたそがれに呆然とするとき、
「一体、本当の幸福はどこに?」
と人知れずつぶやく、そんな未来が見えてはこないでしょうか?
幸せになりたくて、様々なものを追い求めます。

一体、何を得れば心からの満足が得られるのか。
すべての人が一番知りたい、まことの幸せを教えられたのが、
釈尊であります。

お釈迦さまは、

「人身受け難し、今已に受く」

と仰有り、仏教を聞き抜けば

「人間に生まれてきたのは、これ一つのためだった!」

と、生命の歓喜輝くと教えられました。
仏教に明示されている“まことの幸せ”を『菩提』といい、
求める人を薩埵というので、

菩提薩埵(菩薩)は、“本当の幸せを説く真実の仏教を聞き求める人”
のことなのです。

観音、勢至、弥勒や地蔵なども菩薩といわれますが、それら特別な方だけを
「菩薩」というのではないのです。
“幸せになりたい”と今、真実の仏教を求めているならば、あなたもまた
「菩薩」なのです。
うれしいことには喜ぶし、悲しいときは涙する。
食事も取れば、トイレにも行く、風呂にも入る。
老若男女を問わず、国籍も貧富も問わない。

本当の幸せに向かって進む人は、みな「菩薩」なのです。

 

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2009/06/09

60億円の宝くじが当たったブラジリアの翁

ブラジルに住む法友から、首都・ブラジリアの写真が届きました。

ブラジリアは、ブラジル内陸部の荒野の開拓のため、1960年、リオ・デ・ジャネイロからに代わって、首都になった計画都市です。
世界でも稀にみる歴史の浅い首都ですが、ジェット機の翼を広げた形に建設された町並みは、世界遺産になっているそうです。

その写真が添付されていたメールには、こんな話題が記されていました。

  *   *

ブラジリアで、60億円の宝くじが当たったおじいさんがあるんですよ。
今も健在ですが、その人自身は、当たっても質素な生活をしています。
別に宝くじで当たらねばならないような人ではなかったんですね。

ところが、息子たちが、いろいろと口実をつけては、そのおじいさんから、お金をもらって、贅沢三昧している。
仕事をやめて、全く働かなくなってしまったのです。
「馬鹿息子たちだ」とあざ笑われているんですよ。

  *   *

物の有る人も無い人も、苦しんでいるのに変わりはない、「有無同然」とおっしゃった仏説のまことをここでも知らされました。

(E)

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親鸞会講座

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