2012/02/23
親鸞聖人の人間観とは? 『歎異抄をひらく』と他の『解説書』の相違点 第24回
親鸞聖人の人間観から『歎異抄』を拝読しなければ、大変な誤解を生んでしまいます。親鸞聖人の人間観は、阿弥陀仏が見られた人間のすがたです。親鸞会では、常の弥陀の本願を原点に、親鸞聖人の教えをお伝えしています。
続きを読む »2012/02/23
親鸞聖人の人間観から『歎異抄』を拝読しなければ、大変な誤解を生んでしまいます。親鸞聖人の人間観は、阿弥陀仏が見られた人間のすがたです。親鸞会では、常の弥陀の本願を原点に、親鸞聖人の教えをお伝えしています。
続きを読む »2012/01/25
親鸞聖人の「いそぎ仏になりて」の一文から、「衆生済度は死んでから」と誤解した歎異抄解説本が多いようです。『歎異抄をひらく』には、「はやく弥陀の本願に救われ念仏する身となり、浄土で仏のさとりを開き、大慈悲心を持って思う存分人々を救うことをいうのである」と明記されています。仏教は生きている時が勝負なのです
続きを読む »2011/09/24
「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」は、日本の思想史の中でも最も有名な一節といわれます。ところが、この親鸞聖人のお言葉の誤解が甚だしいのです。親鸞会は、その誤解をただし、本当の「悪人正機」の意味をお伝えしています。
続きを読む »2011/05/05
親鸞聖人の「善も悪も全く知らぬ」というお言葉を文字どおり、「何もわからない」と解説した本が多く驚きます。これは他力信心の表明であることを知らねばなりません。歎異抄には、このように誤解しやすい言葉が多いので、親鸞聖人の主著『教行信証』をもとに解説せねばならないのです。
続きを読む »2011/02/14
「おのおの十余ヶ国の境を越えて、身命を顧みずして訪ね来らしめたまう御志、ひとえに往生極楽の道を問い聞かんがためなり」の『歎異抄』のお言葉は、後生の一大事がわからなければ、意味がわからないでしょう。そこから誤解・曲解が生み出されています。親鸞会は、後生の一大事の解決1つを求める集まりなのです。
続きを読む »2010/12/15
仏教といえば、追善供養を教えたものと、多くの人が思っています。ですから、親鸞聖人が追善供養を否定されたと聞けば驚くでしょう。世間の常識で歎異抄を読むと必ず誤解が生じますから、本当の親鸞聖人の教えをよく知らねばなりません。
続きを読む »2010/11/18
「総じてもって存知せざるなり」という歎異抄の言葉を、文字どおり「全く知らぬ」と受け取って、「念仏は浄土に生まれる因やら、地獄に堕つる業やら、親鸞聖人も、まるで分かっておられなかったのだ」と誤解する学者が少なくありません。念仏(弥陀の本願念仏)より他に道なし、と断言された親鸞聖人の教えを知らないのだろうか?
続きを読む »2010/10/21
「念仏を称えても喜ぶ心がない」親鸞聖人の徹底した懴悔のお言葉を、喜べない感謝しらずの自分のレベルに合わせて歎異抄を読んだら大変です。次元が違うことを、自分の次元に合わせて理解すると、教えを捻じ曲げてしまいますから、よくよく気をつけねばなりません。
続きを読む »2010/09/13
前回(《弥陀の本願まことにおわしまさば》 親鸞会.NET )に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。
原文
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり (『歎異抄』第一章)
山崎龍明著『初めての歎異抄』の意訳
すべての者を幸せに、そして、広大な世界に気づかせたいという思いで救いを誓った阿弥陀仏の本(誓)願に救われ、かならず自然の浄土にうまれることができると信じて、阿弥陀仏のみ名を称えようというこころがおこるとき、ただちに阿弥陀仏は、その光明(智慧)の中に摂め取って捨てないという利益が恵まれるのです。
高森先生著『歎異抄をひらく』の意訳
“すべての衆生を救う”という、阿弥陀如来の不思議な誓願に助けられ、疑いなく弥陀の浄土へ往く身となり、念仏称えようと思いたつ心のおこるとき、摂め取って捨てられぬ絶対の幸福に生かされるのである。
『歎異抄』一章冒頭の「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」には、弥陀の二度の救いが明示されています。
「弥陀の誓願不思議に助けられ」たとは、平生の一念に「摂取不捨の利益」に救われたことであり、「往生をば遂ぐる」とは、死んで弥陀の浄土へ往生することです。
現在の救いを「現益(げんやく)」(現世の利益)、死後の救いを「当益(とうやく)」(当来の利益)といいます。
弥陀の救いは、今生と死後と二度あるので、「現当二益(げんとうにやく)」といわれます。
その根拠は枚挙にいとまがありませんが、聖人は二度の救いに疑い晴れた大慶喜を『教行信証』に、こう記されています。
真に知んぬ。弥勒大士は、等覚の金剛心を窮むるが故に、龍華三会の暁、当に無上覚位を極むべし。
念仏の衆生は、横超の金剛心を窮むるが故に、臨終一念の夕、大般涅槃を超証す。 (『教行信証』)
「本当にそうだったなぁ!あの弥勒菩薩と、今、同格になれたのだ。
全く弥陀の誓願不思議によってのほかはない。
しかもだ。弥勒は56億7000万年後でなければ、
仏のさとりが得られぬというのに、親鸞は、今生終わると同時に
浄土へ往って、仏のさとりが得られるのだ。
こんな不思議な幸せが、どこにあろうか」
弥勒大士とは、仏のさとりにもっとも近い、51段目の「等覚」のさとりを得ている菩薩のことです。
弥陀に救われると、この世は弥勒と同等になり、死ぬと同時に「大般涅槃」(仏のさとり)を得ることができます。
これを『正信偈』には「成等覚証大涅槃」の一行で、この世は等覚に成り、死ねば大涅槃(仏のさとり)を証すると「現当二益」を明かされています。
蓮如上人も問答形式で、分かりやすく教えられています。
問うていわく、
「正定と滅度とは、一益と心得べきか、また二益と心得べきや」。
答えていわく、
「一念発起のかたは正定聚なり、これは穢土の益なり。つぎに滅度は浄土にて得べき益にてあるなりと心得べきなり。されば二益なりと思うべきものなり」 (『御文章』)
「弥陀の救いは一度でしょうか、二度でしょうか」
との問いに対して、
「弥陀の救いは平生の一念で、正定聚(等覚)になる。これは穢土(この世)の救いである。次に滅度(仏のさとり)は、死ぬと同時に浄土で得られる救いである。だから弥陀の救いは二度あるのだ」
と答えられています。
「現当二益」が親鸞聖人の教えだから、「二益」を説かなければ浄土真宗にはなりません。
ところが、どの『歎異抄』解説書を読んでも、二度の救いがハッキリしないのです。例えば先に引用した、
山崎龍明著『初めての歎異抄』は一章を要約して、
従来、浄土真宗の教えの三大特質は、次の三つにあると説かれています。
他力本願(本願他力)
悪人正機(悪人救済)
往生浄土(往生成仏)(中略)
第一条には、このような教えのすべてが凝縮されています。
と解説し、死後の往生浄土ばかりが強調されています。
それに対して
『歎異抄をひらく』では、平生の一念の救いが、次のように鮮明に教えられています。
まず、古今の人類が探求してやまぬ人生の目的を、「摂取不捨の利益にあずかる」弥陀の救いであると開示し、その達成は、「弥陀の誓願不思議に助けられ『念仏申さん』と思いたつ心のおこるとき」であると説く。
しかも救いは万人平等で、一切の差別がないと道破する。
もっと詳細に弥陀の救いの、時と内容を、『歎異抄』一章に聞いてみよう。
まず弥陀の救いの時は、
「念仏称えようと思いたつ心のおきたとき」
と、平生の一念であることが明言されている。
ではその救いとは、いかなるものか。
「摂取不捨の利益を得る」
と言葉は簡明だが、その内容は極めて深くて重い。(中略)
「摂取不捨」とは文字通り、”摂め取って捨てぬ”ことであり、「利益」とは”幸福”のことである。
“ガチッと一念で摂め取って永遠に捨てぬ不変の幸福”を、「摂取不捨の利益」といわれる。「絶対の幸福」と言ってもよかろう。
「弥陀の誓願不思議に助けられ」た、「『念仏申さん』と思いたつ心のおこる」一念で、「摂取不捨の利益」に救われます。
これは現在の救い(現益)ですが、「往生をば遂ぐる」のは死んでから(当益)です。
誓願不思議に助けられた平生の一念に、死後の往生に疑い晴れたことを、「往生をば遂ぐるなりと信じて」と言われています。
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせた」も、「往生をば遂ぐるなりと信じた」も、「念仏申さんと思いたつ心」「摂取不捨の利益」も、表現が異なるだけで、弥陀に救われた「一念」のことです。
同時に書いたり、言ったりはできないから、前後があるだけなのです。
ところが、
安良岡康作著『歎異抄 全講読』では、順序があるように解釈しています。
弥陀の誓願の絶対性のお助けをこうむることによって、「往生を遂げるのだ」と信ずるようになって(中略)浄土への往生を信ずる心に促されて、おのずから、この「念仏申さんと思ひ立つ心」が「起る」
他の解説書も、「絶対の幸福」に救い摂られる一念を明言しないので、「弥陀の誓願不思議に助けられ」たとは現在の救いか、死後の往生か、曖昧です。
例えば、
佐藤正英著『歎異抄論註』は、
不思議としての阿弥陀仏の誓願にたすけられて〈真にして実なる〉浄土に生れると信じ、進んで念仏を称えようとするとき、ただちに摂めとって捨てることのない阿弥陀仏の恵みにあずかる。
と意訳し、
梅原猛著『誤解された歎異抄』の意訳も、
阿弥陀さまの不可思議きわまる願いにたすけられてきっと極楽往生することができると信じて、念仏したいという気がわれらの心に芽ばえ始めるとき、そのときすぐに、かの阿弥陀仏は、この罪深いわれらを、あの輝かしき無限の光の中におさめとり、しっかりとわれらを離さないのであります。そのとき以来、われらの心は信心の喜びでいっぱいになり、われらはそこから無限の信仰の利益を受けるのであります。
となっています。
梅原氏の言うように、「阿弥陀さまの不可思議きわまる願いにたすけられてきっと極楽往生することができると信じて」いるだけなら、死んでみなければ、誓願に助けていただけるかどうか、ハッキリしないことになります。
きっと極楽往生できると信じて「念仏したいという気がわれらの心に芽ばえ始める」とき、弥陀は「輝かしき無限の光の中におさめとり、しっかりとわれらを離さない」と言うに至っては、「一念の救い」とかけ離れた、私釈と断ずるほかありません。
弥陀の本願を、釈迦が『大無量寿経』で解説された「願成就文」では「信心歓喜乃至一念」と、弥陀の救いは「一念」であると明言されています。
そのあとには「即得往生住不退転」と、平生の一念で正定聚不退転に救い摂られる「不体失往生」が教えられています。
現在ただ今、不体失往生できている人だけが、死んで浄土往生させていただけるのです。
このように弥陀の誓願には、現在救われる「不体失往生」と、死んで救われる、浄土に往生する「体失往生」の、二度の救いが誓われているのですが、「この世の往生」しか言わない『歎異抄』解説書もあります。
真宗大谷派(東本願寺)の教学研究所の所長・小川一乘氏が監修した、
延塚知道著『親鸞の説法「歎異抄」の世界』は、弥陀の救いは、この世だけのことだと主張しています。
第一章では、「弥陀の誓願不思議」の救いが、「往生をばとぐる」と言われ、「摂取不捨の利益」にあずかる、と説かれる。(中略)それらは二つのことが別々にあるのではなくて、本願成就の救いを別の角度から説いたものである。
東本願寺の立ち上げた「親鸞仏教センター」も、『現代語訳 歎異抄』で「弥陀の浄土へ生まれる」というのは「神話的な表現」だと冒涜し、一章の「往生をばとぐる」を、「新しい生活を獲得できる」と迷訳しています。
「現当二益」を説かねば、弥陀の救いにはならないし、聖人の教えにもなりません。
「二益」の教えで一貫し、一念の救いが詳説されている『歎異抄をひらく』が、いかに希有の書であるか、次回からも明らかにしたいと思います。
・・・・・・・・・・・
○龍華三会の暁─56億7000万年後に、弥勒が仏になって最初に説法する時
○横超の金剛心─阿弥陀仏より賜った金剛心
○本願成就文─阿弥陀如来の本願(お約束)の本意を、釈尊が明らかになされたもの
○正定聚─正しく仏になることに定まった人たち。さとりの51段目をいう
○不退転─後戻りしない。崩れない絶対の幸福をいう
*山崎龍明……元・西本願寺教学本部講師。
武蔵野大学教授。
専門は親鸞聖人、『歎異抄』
*安良岡康作……国文学者。
東京学芸大学名誉教授
*佐藤正英……東京大学名誉教授。
日本倫理思想史、倫理学の研究者
*梅原 猛……日本を代表する哲学者。
京都市立芸術大学名誉教授。
国際日本文化研究センター名誉教授
*延塚知道……大谷大学教授
*親鸞仏教センター……真宗大谷派の学者の集まり。
「浄土真宗」から「浄土」が抜けた教えになっている
・・・・・・・・・・・
東京学芸大学名誉教授
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★このような
悩み苦しみ オレはした
だから聞けたと
自慢体験
★依存症
体験談こそ いのち綱
2010/08/13
前回(《『歎異抄』解説本を比較する意義》 親鸞会.NET )に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。
「弥陀の本願まことにおわしまさば」の真意
原文
弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。 (『歎異抄』二章)
梅原猛氏著『誤解された歎異抄』の意訳
もしも阿弥陀さまの衆生救済の願いが真実であるとすれば、そのことをあの『三部経』という経典で説いたお釈迦さまの説法が間違っているはずはありません。もしもこのような『三部経』におけるお釈迦さまの説法が間違っていなかったならば、それを正しく解釈した善導大師の注釈書が間違っているはずがありません。
↑
↓
高森顕徹先生著『歎異抄をひらく』の意訳
弥陀の本願がまことだから、唯その本願を説かれた、釈尊の教えにウソがあるはずはない。
釈迦の説法がまことならば、そのまま説かれた、善導大師の御釈に偽りがあるはずがなかろう。
『歎異抄』二章の「弥陀の本願まことにおわしまさば」を、「もしも本願が、まことであるとするならば」と領解する人が多くあります。
ですが、この章は、弥陀の誓願に疑いが生じた関東の同行が、「直に本当のところをお聞きしたい」と、京都にまします聖人を命として、決死の覚悟で訪ねた時に仰ったお言葉です。
弥陀の本願が「まことか、どうか」をお尋ねした同行に、聖人が「もし、まことであるならば」と仮定で語られたとすれば、何の解答にもなりません。なぜ、答えにならない答えをされたのか、解説者は説明に苦心してきました。
例えば
延塚知道氏著『親鸞の説法「歎異抄」の世界』は、この一節は
『歎異抄』は、『観経』の伝統の中から生まれてきた書物であることを伝えようとしていると解説しています。
釈尊が『観無量寿経』で説かれた「弥陀の本願」を、善導大師が『観無量寿経疏』で注釈され、それをそのまま法然上人、親鸞聖人が伝えられているという「伝統」を示すものだと言うのです。「本願まことか、どうか」を命懸けで聞きに来た同行に、聖人がそんな「伝統」を語られるはずがないでしょう。
また、山崎龍明氏著『初めての歎異抄』は、
「親鸞聖人はやや遠慮がちにいっています」と解説していますが、聖人が「本願まこと」を「遠慮がち」に語られることなど、考えられません。
仮定で語られることすら「本来、親鸞にはありえない」のだと、
石田瑞麿氏著『歎異抄 その批判的考察』は、こう批判します。
「マコトニオハシマサハ」という仮定的表現は親鸞のどこをつっついたら出てくるのか、考えてみてほしい。親鸞においては、「本願」が「マコト」であるかどうか疑問視されたり、「マコト」と一応、仮定してみたりできる余地は本来、寸毫もない。(中略)「弥陀ノ本願マコトニオハシマサハ」という仮定は、本来、親鸞にはありえないことがわかる。それが、ここでこんな形で語られたのは、遠来の人たちの問いが余りにも見当はずれなものだったことによる。
関東の同行の問いがあまりにも見当外れだったから、『歎異抄』だけは、本来ありえない表現がなされたというのでは、取って付けたような説明です。
「仮定」で解釈する従来の説は訂正されるべきと主張する倫理学者もいますが、
佐藤正英氏著『歎異抄論註』の解説は、
「弥陀の本願まことにおはしまさば」の「ば」に、疑問あるいは仮説の意を含ませて解したのでは文意が死んでしまう。従来の解釈は訂されねばならない。(中略)だが、なぜ平叙文ではなく「おはしまさば、……」あるいは「ならば、……」という仮定的な言い廻しが用いられているのだろう。親鸞は、阿弥陀仏の誓願が〈真にして実なる〉ものであることを己れの〈知〉において捉えているわけではない。〈信〉を抱いているにすぎない。いいかえれば己れの〈信〉においてのみ阿弥陀仏の誓願は〈真にして実なる〉ものとして現前している。その〈信〉の地平を明示せんがためであろう。
この説明は、「……であろう」という私見にすぎません。親鸞聖人は、「弥陀の本願まこと」を自分の知恵で“知っておられた”のではなく、「〈信〉を抱いているにすぎない」ことを明示されたのであろう、と推測するにとどまっています。肝心なのは、「弥陀の本願まこと」だと「〈信〉を抱いている」という、その「信」の意味です。これがご自分の心で信じ固めた「信念」にすぎないのか、阿弥陀仏から頂いた「他力の信心」なのか、最も大切なことが書かれていません。
安良岡康作氏著『歎異抄 全講読』も、この一節の「明言・確説は、話し手である親鸞の信念によって証得されたものである」と解説していますが、これでは聖人はご自分の心で信じ固めた「信念」を語られていることになります。
『歎異抄をひらく』では、「弥陀の本願まこと」と疑い晴れた心は、ひとえに弥陀から賜る「他力の信心」であると明言されています。
弥陀の本願に疑い晴れた心は、決して私たちがおこせる心ではない。この心が私たちにおきるのは、まったく弥陀より賜るからである。
ゆえに、「他力の信心」と言われる。「他力」とは「弥陀より頂く」ことをいう。
このように親鸞聖人の信心は、我々が「疑うまい」と努める「信心」とはまったく違い、“弥陀の本願に疑い晴れた心”を弥陀より賜る、まさに超世希有の「信心」であり、「信楽」とも言われるゆえんである。
そして『ひらく』では、「弥陀の本願まことにおわしまさば」は、「まことならば」と「仮定」で語られたのではなく、「弥陀の本願まことだから」という「断定」であると、根拠を挙げて明快な解説がなされています。
だが親鸞聖人には、弥陀の本願以外、この世にまことはなかったのだ。
誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法 (教行信証)
まことだった、まことだった。弥陀の本願まことだった。
の大歓声や、
煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします (歎異抄)
火宅のような不安な世界に住む、煩悩にまみれた人間の総ては、そらごと、たわごとであり、まことは一つもない。ただ弥陀の本願念仏のみがまことなのだ。
『歎異抄』の「念仏のみぞまこと」は、「弥陀の本願念仏のみぞまこと」の簡略である。聖人の「本願まことの信念」は明白であろう。
親鸞聖人の著作はどこも、「弥陀の本願まこと」の讃嘆で満ちている。「弥陀の本願まこと」が、常に聖人の原点であったのだ。その聖人が、仮定で「本願」を語られるはずがなかろう。
「弥陀の本願まことにおわしまさば」は、「弥陀の本願まことだから」の断定にほかならない。
「弥陀の本願まこと」と、いくら言っても言い足りないのが他力信心なのです。
各人各様の推測や私見をどれだけ読んでも、「弥陀の本願まことにおわしまさば」の理解はおぼつかない。
*梅原 猛……日本を代表する哲学者。
京都市立芸術大学名誉教授。
国際日本文化研究センター名誉教授
*延塚知道……大谷大学教授
*山崎龍明……元・西本願寺教学本部講師。
武蔵野大学教授。専門は親鸞聖人、『歎異抄』
*石田瑞麿……元・東海大学教授。浄土教の研究に専心。著書多数
*佐藤正英……東京大学名誉教授。
日本倫理思想史、倫理学の研究者
*安良岡康作……国文学者。
東京学芸大学名誉教授
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