2010/06/30

浄土真宗親鸞会は、新宗教というより伝統仏教  親鸞会.NET

「宗教は危ない」と言う人のほとんどは「新興宗教」「新宗教」を指して言っているようです。

「宗教は危ない」と言いながら
「うちは先祖代々○○宗だから、おろそかにしてはならない」

との言葉をしばしば耳にするからです。

では、新宗教と伝統宗教の違いは何でしょう?

「それは、設立した日付で決まる」

と大自信で言う人もあるのですが、そうでしょうか?

たとえ歴史は古くても、その団体が

「本尊は伝統的なものから、別のものに替えます」と

言いだしたり、

「開祖は、○○をするなと言われたけれど、これからは大いに○○をしましょう」

と方針を変更したら、それはもはや《新宗教と化した》と言っていいのではないでしょうか。

逆に、宗教法人の登録年月日は、新しくても

「教えに忠実に。開祖が教えられたとおりにお伝えしていこう」

としている集まりならば、それは伝統的な宗教になるでしょう。

浄土真宗親鸞会は

「親鸞聖人の教えを正確にお伝えする」

ことを唯一の目的としています。

親鸞会50周年フィナーレには、次の言葉が流れました。

「まず親鸞聖人のお言葉を明示して、その正しい御心を徹底していく。
浄土真宗と全人類の輝ける未来は、この一点にかかっていると言っても、
決して過言ではないのです」

浄土真宗の《本道》を決して見失ってはならないからです。

■参考:

浄土真宗 親鸞会・現代に生きる仏説|親鸞学徒の本道をゆく

親鸞学徒の本道の要諦|浄土真宗親鸞会

「新宗教辞典」まで出している井上順孝(いのうえのぶたか)
という 国学院大学教授が『人はなぜ新宗教に魅かれるのか?』
という本を出しました。

この中で、新宗教の特徴をこう書いています。

教えの面では、新宗教は難しい教学や宗学と呼ばれるものを
深めることを、さほど重視しないのが一般的である。(中略)
また教祖による独自の教えも多くつけ加えられていく。

(『人はなぜ新宗教に魅かれるのか?』p39)

そして、様々な新宗教を挙げ、説明している中で、
浄土真宗親鸞会は、新宗教というより「教団改革運動ないし再生運動」
と評してありました。

以下、その文面です。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

法華・日蓮系以外では密教系の教団もいくつかある。
それ以外の仏教系新宗教はきわめて少ない。

浄土系のうち、浄土真宗の系統では真田増丸(1877~1926)の
大日本仏教済世軍や、高森顕徹(1929生)による浄土真宗親鸞会
があり、これらを広い意味での新宗教と解釈することもできるが、
どちらかと言えば教団改革運動ないし再生運動として理解した方が
適切である。

(『人はなぜ新宗教に魅かれるのか?』p210)

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

親鸞聖人は生涯、御名号を本尊となされ、
蓮如上人は

「他流には、名号よりは絵像、絵像よりは木像というなり。
当流には、木像よりは絵像、絵像よりは名号というなり」
(御一代記聞書)

と教えておられます。ゆえに、浄土真宗親鸞会は『名号』を本尊とし、
皆さんにもお勧めしています。

しかし、寺の現実は、木像本尊ばかり。
明らかに親鸞聖人の教えに背いています。
それどころか、名号本尊の親鸞会に反対しているのです。
浄土真宗の憲法にあたる宗制にも『本尊は南無阿弥陀仏』とあるにも
かかわらずです。
親鸞聖人の教えに反している現状を、今後、どうするつもりなのでしょうか。

■参考

浄土真宗 親鸞会|根本に尊ぶべき御本尊 ~親鸞聖人の仰せどおりに~

「『親鸞閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし』と云々。
これすなわち、この肉身を軽んじて、仏法の信心を本とすべき由をあらわし
まします故なり。
これをもって思うに、いよいよ葬喪を一大事とすべきにあらず。
もっとも停止(ちょうじ)すべし」
(改邪鈔:がいじゃしょう)

「私が死ねば、屍を賀茂河に捨てて、魚に食べさせよ」と、
しばしば親鸞聖人がおっしゃったのは、なぜか。
それはセミの抜け殻のような肉体の後始末よりも、永遠の魂の解決
(信心決定)こそが、最も急がなければならないからです。
要の抜けた葬式などを大事とすべきではないのです。

この親鸞聖人のお言葉を無視し、葬式仏教、法事仏教と成り下がって
久しい寺は、今こそ、親鸞聖人の教えに立ち返るべきではないでしょうか。。

■参考

親鸞会.NET≫ ≫ 『親鸞閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし』

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2010/06/30

家族に伝えたい|親鸞会 顕正新聞

四国の妙好人(みょうこうにん)・庄松(しょうま)同行が、深夜、寺の門を叩き、「大変だ!大変だ!」と叫んだ。

「どうした庄松」

起こされた住職が尋ねると、

「オラ、疑いが起きてきたんだ。地獄は本当にあるのか?」

「今更、お前、何を言う」

「本当に地獄があるのなら、まず妻子に伝えにゃならんだろう。他人に勧めるばかりで家族に伝えていないじゃないか。無いものをあるように教えているからでないかと、疑いが起きてきたのじゃ」

と、辛辣に切り込んでいる。

袖触れ合うも多生の縁といわれる。ましてや家族となれば、よほど深い因縁があってのことだ。久遠劫より流転を重ね、今生、巡り遇わせていただいた阿弥陀仏の本願、往生極楽の道を、自分だけ喜び、家族を放っておけるものでなかろう。
「わが妻子ほど不便なることなし、それを勧化せぬは浅ましき事なり」

蓮如上人の大喝である。

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2010/06/18

『歎異抄』解説書の比較対照【11】《弥陀の救いは平生の一念》

前回(《『弥陀の救い「無碍の一道」とは 親鸞会.NET》)
に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。

●弥陀の救いは平生の一念

《原文》

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり(『歎異抄』第一章)

延塚知道著『親鸞の説法「歎異抄」の世界』の意訳

阿弥陀如来の本願のはたらきによって大涅槃の真実に触れてたすけられたものは、自己の本来の世界である浄土(大涅槃の真実)へ往き生まれる道が決定されたと信じて、念仏申そうという心が湧き上がってくる。
その時、如来の大悲に迷いの身の全体が丸ごと摂め取られて、人生の全体がどう転んでも涅槃の真実に向かうのだと決定されて、退くことのない精神の大地を得るのである。


高森先生著『歎異抄をひらく』の意訳

“すべての衆生を救う”という、阿弥陀如来の不思議な誓願に助けられ、疑いなく弥陀の浄土へ往く身となり、念仏称えようと思いたつ心のおこるとき、摂め取って捨てられぬ絶対の幸福に生かされるのである。

『歎異抄』一章の冒頭では、「摂取不捨の利益」の弥陀の救いにあずかる時を、「念仏申さんと思いたつ心のおこるとき、すなわち」と言われています。
ここで親鸞聖人が「すなわち」と仰ったのは、弥陀に救われた「一念」を表す、限りなく重い「すなわち」です。
ですから「念仏申さんと思いたつ心のおこるとき」とは、「平生の一念」のことだと、『歎異抄をひらく』では次のように解説されています。

弥陀の救いの時は、
「念仏称えようと思いたつ心のおきたとき」
と、平生の一念であることが明言されている。 (『歎異抄をひらく』)

ところが、先に引用した延塚氏は、「すなわち」を「その時」と意訳しています。他の解説書も同様です。

石田瑞麿著『歎異抄 その批判的考察』の意訳では、

阿弥陀仏のお誓いの不思議なお力にお助けいただいて、極楽浄土に生まれることができるのだと信じて、念仏を称えようと思いたつ心がおこるとき、同時に、阿弥陀仏は、そのお光のなかにおさめとってお捨てにならない救いの恵みにゆだねさせになるのである。

と言い、

山崎龍明著『初めての歎異抄』では、

すべての者を幸せに、そして、広大な世界に気づかせたいという思いで救いを誓った阿弥陀仏の本(誓)願に救われ、かならず自然の浄土にうまれることができると信じて、阿弥陀仏のみ名を称えようというこころがおこるとき、ただちに阿弥陀仏は、その光明(智慧)の中に摂め取って捨てないという利益が恵まれるのです。

と意訳してあります。

「すなわち」を「その時」「同時に」「ただちに」とばかり意訳され、それ以上の解説は皆無です。
これでは、誰が、弥陀の救いは「一念」だと知りえるでしょうか。

弥陀の救いの「一念」を親鸞聖人は、分秒にかからぬ「時尅の極促」と説かれています。

「一念」とは、これ信楽開発の、時尅の極促をあらわす(『教行信証』)

「『一念』とは、弥陀に救われる、何億分の一秒よりも速い時をいう」

「一念の救い」は、弥陀にしかない救いであり、親鸞聖人が最も強調されることです。

覚如上人は「真宗の肝要、一念往生をもって、淵源とす」(口伝鈔)

とまで言われ、「一念往生」(一念の救い)こそが、仏教の「肝要」であり「淵源」だと喝破されているのです。
「肝要」も「淵源」も、仏教では唯一の大事であり、これ以上に重い言葉はありません。

ですから蓮如上人は『御文章』に60回以上も「一念」という言葉を記され、『御一代記聞書』には「たのむ一念の所肝要なり」と道破なされているのです。

親鸞聖人が、「一念」を「すなわち」と表現されているお言葉を挙げておきましょう。

本願を信受するは、前念命終なり。
即得往生は、後念即生なり

(『愚禿鈔』)

これは、聖人が弥陀の本願を解説されたものです。
こんな短いお言葉に、2ヶ所も「即(すなわち)」と言われています。
「即の教え」と親鸞聖人の教えがいわれるのも、うなずけます。
「本願を信受する」とは、「阿弥陀仏の本願まことだった」とツユチリほどの疑いも無くなった「一念」ですから、「聞即信」といわれます。
その「一念」を聖人は、仮に「前念」と「後念」に分けられて、前の命の死と後の命の生とを説かれたのが、「前念命終 後念即生」です。

親鸞聖人は「即(すなわち)」を『唯信鈔文意』に

「『即』はすなわちという、『すなわち』というは時をへだてず日をへだてぬをいうなり」

と、一念のことだと明示されています。
「即得往生」とは、本願を信受した、聞即信の一念で救われた(往生を得る)ことです。
このように親鸞聖人は、平生の心の臨終と誕生の「一念」を、「即(すなわち)」で表されます。

親鸞聖人のこの「即(すなわち)」を知らないから、『歎異抄』の「念仏申さんと思いたつ心のおこるとき、すなわち」を水際立った「平生の一念」と解説する書がないのです。

事実、親鸞仏教センター著『現代語歎異抄』でも

「本願に従おうというこころが湧き起こるとき」

と意訳し、

梅原猛著『誤解された歎異抄』では

「念仏したいという気がわれらの心に芽ばえ始めるとき」と意訳しています。

「湧き起こる」「芽ばえ始める」では、「念仏申さんと思いたつ心」が「一念の弥陀の救い」とは、全く分かりません。

一念の「念仏申さんと思いたつ心」がどんな心かを表明されたのが、一章冒頭の「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなりと信じて」です。
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて」とは、弥陀の誓願によって摂取不捨の利益に救い摂られ、誓願不思議を不思議と知らされたこと。
「往生をば遂ぐるなりと信じて」とは、”必ず浄土へ往ける”と、往生がハッキリした後生明るい心です。

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせた」も、
「往生をば遂ぐるなりと信じた」も、
「念仏申さんと思いたつ心」
「摂取不捨の利益」も、
表現が違うだけで、同じ心です。

同時に書いたり、言ったりはできないから、前後があるだけなのです。

安良岡康作著『歎異抄 全講読』は、

「浄土への往生を信ずる心に促されて、おのずから、この『念仏申さんと思ひ立つ心』が『起る』」

と解説しています。「往生をば遂ぐるなりと信じた」心に催されて、「念仏申さんと思いた

つ心」が起こるという主張です。

佐藤正英著『歎異抄論註』も、一章冒頭の言葉は、同じ「信心」を別の面から表したものではなかろうか、と推測するに止まります。

「弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて往生をばとぐるなりと信じて、念仏まふさんとおもひたつこころのおこるとき」

という文へもう一度戻ってみよう。ここでは、信じてそれから念仏を称えようとか、信じてのちにその

あとで念仏を称えようといったような、両者の間になんらかの間隙が入りうるような、たるんだ関係が語られているのではない。(中略)〈信〉を持つ

ことを別の面から語ったものではなかろうか。(佐藤正英『歎異抄論註』)

「念仏申さんと思いたつ心のおこるとき」は「平生の一念」だと明言される『歎異抄をひらく』は、他の解説書とは、根底から異なる書だと知らされます。

。。。。。。。

*石田瑞麿……元・東海大学教授。浄土教の研究に専心。著書多数

*山崎龍明……元・西本願寺教学本部講師。武蔵野大学教授。専門は親鸞聖人、
『歎異抄』。『本願寺新報』に教学の解説をしばし掲載している

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2010/06/17

『歎異抄』解説書の比較対照【10-2】《『弥陀の救い「無碍の一道」とは 親鸞会.NET》)

前回(『歎異抄』解説書の比較対照【10-1】《『弥陀の救い「無碍の一道」とは 親鸞会.NET》)
に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。

●「無碍の一道」は「念仏」だという誤解

煩悩にまみれた人間の生活は、常に碍りだらけで、「無碍」になることなど、想像もできません。そこで多くの論者が、「無碍」というのは、「弥陀に救われた人(念仏者)」のことではなく、「称える念仏」のことだと理解します。
彼らは「念仏者は無碍の一道なり」を、「”念仏は”無碍の一道なり」と読んで、次のように意訳します。

佐藤正英著『歎異抄論註』の意訳

念仏はなにものにも妨げられない絶対的な手だてである。

安良岡康作著『歎異抄 全講読』の意訳

念仏を申すことは、何ものもさまたげることのない、ただ一つの通路である。

「念仏」は何ものにも妨げられないと聞いても、理解できる人はないでしょう。

『歎異抄』七章では「念仏者」を、すぐ後で「信心の行者」と言い換えられているのですから、「念仏者」は当然、「弥陀に救われ念仏する者」の意味であることは明々白々です。

●救われて無くなる「碍り」とは

そこで問題は、弥陀に救われた人は、どんな「碍り」が無くなるのか、ということです。

『歎異抄』七章の終わりに「罪悪も業報を感ずることあたわず」とありますから、「念仏者は、罪悪感から解放される」「念仏すれば、悪の報いを受けずに済むのだろう」と思う人さえあるようです。

しかし、罪悪感から解放され、罪を犯しても平気な不道徳人間になったら、社会ではとても生きられません。まして、弥陀に救われたら、悪の報いを受けなくなると主張すれば、悪因悪果・自因自果の「因果の道理」を破壊することになります。

そこで、罪悪感が無くなるのでも、悪の報いが消えるのでもありませんが、業の報いを恐れなくなることが「無碍の一道」だという、苦渋の説明がなされるのです。

親鸞仏教センター著『現代語 歎異抄』の解説

念仏を信ずれば業の報いを恐れなくてよいといいたいのでしょう。罪悪感が不必要だと主張すると、倫理否定になるからね。(中略)倫理に苦しむこころからの解放を得るということでしょう。

「倫理」の「否定」ではなく「解放」だと言われても、意味不明でしょう。

梅原猛氏は全く別の解釈をし、「無碍の一道」とは、この世とあの世を自由に往復することだと言うのですが、これも根拠なき私見に過ぎません。

梅原猛著『誤解された歎異抄』の解説

念仏行者は、自由にこの世とあの世の間を往復する人間である。だからそれは、絶対自由の行者であり、天神・地祇も敬服し、魔界、外道も障礙することはない。

意味不明な解釈や想像があふれる根本原因は、仏教の究極の目的が分からないところにあります。

●仏教の究極の目的は「浄土往生」

「無碍の一道」を正しく理解するには、まず、仏教の究極の目的は、”浄土往生”であることを確認しておかなければなりません。

仏教は後生の一大事に始まり、その解決に終わる。後生の一大事を解決して、弥陀の浄土へ往生することが、仏法の究極の目的なのです。
(※後生の一大事について詳しく知られたい方は、コチラをお読みください。» » 後生の一大事について(1)  親鸞会.NET仏教講座)

弥陀に救われたとは、”いつ死んでも浄土往生間違いなし”の身に救い摂られたことです。この大安心を「無碍の一道」というのですから、「無碍」の「碍」とは、浄土往生のさわりです。

弥陀に救われた往生一定の大満足は、何ものも妨げることができないから「無碍の一道」と言われるのです。

石田瑞麿著『歎異抄 その批判的考察』では、「無碍」とは、悪業煩悩が往生の障りとならないことだと示唆しているものの、信心の行者は「過去の悪業の報いから解放される」と、誤解を招く表現をしています。

石田瑞麿著『歎異抄 その批判的考察』の解説

「罪悪モ業報ヲ感スルコトアタハス」ということは、「信心ノ行者」の「無碍ノ一道」を行く、そのすがたということができる。「信心ノ行者」はみずからかつて犯してきた過去の悪業の報いから解放されることができるわけである。

『歎異抄をひらく』では、「無碍の一道」を、次のように明解されている。

「無碍の一道」を正しく理解するには、まず、仏教の究極の目的は、”浄土往生”であることを確認しておかなければならないだろう。

ゆえに「碍りにならぬ(無碍)」といわれる碍りとは、”浄土往生の障り”のことである。

弥陀に救い摂られれば、たとえ如何なることで、どんな罪悪を犯しても、”必ず浄土へ往ける金剛心”には、まったく影響しないから、

罪悪も業報を感ずることあたわず(『歎異抄』第七章)

いかなる罪悪も、「必ず浄土へ往ける身になった」弥陀の救いの障りとはならない。

と言明し、「念仏者は無碍の一道なり」と公言されるのである。

ではなぜ、悪を犯しても往生の障りにならぬのか。

悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに(『歎異抄』第一章)

ひとたび弥陀の救いに値えば、どんな罪悪を犯しても、自分の罪の深さに怖れおののき、
浄土往生を危ぶむ不安や恐れは皆無となる。弥陀の本願に救われた往生一定の決定心を、
乱せるほどの悪はないからである。

何ものも崩せぬ、邪魔だてできぬ、不可称・不可説・不可思議の世界が信楽(信心)だから、「無碍の一道」と聖人は喝破されたのだ。

同時に「無碍の一道」の素晴らしさは、いかなる善行を、どんなに励んだ結果も及ばぬ、十方法界最第一の果報であるから、

「諸善も及ぶことなし」(第七章)
「念仏にまさるべき善なし」(第一章)
『歎異抄』の中でも特に知られる「無碍の一道」ですが、仏教の究極の目的は「浄土往生」という出発点を誤れば、正しい理解は望むべくもないでしょう。

と、『歎異抄』は宣言するのである。

。。。。。。

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山崎龍明

元・西本願寺教学本部講師
武蔵野大学教授
専門は親鸞聖人、『歎異抄』
『本願寺新報』に教学の解説をしばしば掲載している

佐藤正英

東京大学名誉教授
日本倫理思想史、倫理学の研究者

安良岡康作

国文学者
東京学芸大学名誉教授

親鸞仏教センター

真宗大谷派の学者の集まり
「浄土真宗」から「浄土」が抜けた教えになっている

梅原 猛

日本を代表する哲学者
京都市立芸術大学名誉教授
国際日本文化研究センター名誉教授
『聖徳太子』『仏教の思想』などの著書多数

石田瑞麿

元・東海大学教授
浄土教の研究に専心
著書多数

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2010/06/14

『歎異抄』解説書の比較対照【10-1】《『弥陀の救い「無碍の一道」とは 親鸞会.NET》)

前回(『歎異抄』解説書の比較対照《『霧に包まれる「摂取不捨の利益」  親鸞会.NET》)
に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。

『歎異抄』に新たな異変

『歎異抄をひらく』(平成20年3月発刊)が世に出て2年以上たちます。
日本の三大古文に数えられる『歎異抄』の解説書は、年に10冊は新刊が出ていたのに、『ひらく』が世に出て以来、その流れがパッタリ止まってしまいました。

それまで自由奔放に解釈されてきた『歎異抄』でしたが、『歎異抄をひらく』は従来の書とは一線を画します。『教行信証』など親鸞聖人のお聖教を根拠に、聖人のお言葉で『歎異抄』の真意を解説されているからです。そこには私見は一切、混じっていません。

真宗十派が、かつてしたことのない解釈が『歎異抄をひらく』なのです。正統を自負する者は当然、『教行信証』を土俵に反論しなければなりません。それがどうしたことか、2年たっても何の反論もないのです。

真宗十派の沈黙と対照的に、『歎異抄ひらく』は仏教書の常識を破る、17万部のベストセラーになっています。真の正統はどちらか、大衆に日々夜々、浸透しつつあります。これを自称「正統派」が黙視できるはずがありません。必ずや反論、批判に出るでしょう。

案の定、真宗大谷派(東本願寺)が、新たな動きを見せました。「聖人七百五十回御遠忌記念出版」として、シリーズ『親鸞』全十巻を、4月から毎月1冊ずつ刊行するというのです。監修は、真宗大谷派・教学研究所の所長を務める小川一乘氏(前・大谷大学学長、74歳)。大谷派の教学のトップです。

このたび、第1回として『親鸞の説法──「歎異抄」の世界』が発売されました。著者は大谷大学教授の延塚知道氏、62歳。紹介には「『教行信証』を正確に読むために、『浄土論註』を当面の研究課題としている」とあります。

『歎異抄』解説は、「これは私の一解釈」と前置きした無責任なものばかりですが、今回の解説書は冒頭から『歎異抄』と『教行信証』は「まったく同質」と言い切り、しかも聖人のお言葉を多数、引用しています。『歎異抄をひらく』をかなり意識しているのでしょう。
従来なかったスタイルの解説書の登場は、一事件に終わるのか、地殻変動の前兆か。日本思想界の根底にある『歎異抄』の潮流に、何が起きているのでしょうか。
今回、出された、大谷派の『「歎異抄」の世界』の内容も含めて見てみましょう。

●「無碍」は執着の無くなったことか

《原文》

念仏者は無碍の一道なり。そのいわれ如何とならば、信心の行者には、天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善も及ぶことなきゆえに、無碍の一道なり、と云々(『歎異抄』第七章)

延塚知道著『親鸞の説法「歎異抄」の世界』の意訳

本願の名号を称える者は、すべての束縛から解放された自由な道に立つことができる。その理由はなぜかと言えば、本願を信じる者には天の神や地の神が敬いひれ伏すからである。反対に、悪魔や外道も何の障りにもならない。また自分が犯した罪の一切を他力の信心が引き受けてくれるから、悩む必要はないし、善も誇る必要はない。他力の信念には善悪を超えた自由な道が開かれるのである。


高森先生著『歎異抄をひらく』の意訳

弥陀に救われ念仏する者は、一切が障りにならぬ幸福者である。
なぜならば、弥陀より信心を賜った者には、天地の神も敬って頭を下げ、悪魔や外道の輩も妨げることができなくなる。犯したどんな大罪も苦とはならず、いかに優れた善行の結果も及ばないから、絶対の幸福者である、
と聖人は仰せになりました。

七章冒頭の「念仏者は無碍の一道なり」は、よく知られ、種々に論じられているところです。特に「無碍の一道」は、弥陀に救われた世界を表す、『歎異抄』でも最重要の語句ですが、各人の勝手な解釈がなされてきました。
例えば、先に引用した延塚氏は「無碍の一道」を、「すべての束縛から解放された自由な道」「善悪を超えた自由な道」と意訳しています。これが弥陀の救いだというのです。

では、善悪を超え、善悪から解放された境地とは、いかなるものでしょうか。延塚氏によれば、《「善悪、好き嫌い、勝ち負け」にこだわる「執着」から解放されたことである。弥陀に救われたとは、「勝ち負けとか優越感と劣等感の間で苦しむこと」のない、「身も心も柔らかになって、何事も喜んで負けていけるような生き方」に転じたことだ》と主張しています。

もし、勝ち負けにこだわる「執着」が無くなれば、負けて苦しむこともなくなり、一切の苦しみから解放されるでしょう。ですが、「執着」は煩悩ですから、それは「煩悩」が無くなることにほかなりません。一体どこに、そんな煩悩を断じた人間がいるというのでしょうか。

『歎異抄』で、すべての人を「煩悩具足の凡夫」「煩悩熾盛の衆生」と言われているように、仏教では煩悩の塊が人間であり、煩悩以外に何もないと説かれています。ですから煩悩は死ぬまで、減りも無くなりもしないし、断ち切ることは絶対にできないのです。それを親鸞聖人は、次のように教えられています。

「凡夫」というは無明・煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、瞋り腹だち、そねみねたむ心多く間なくして、臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず
(『一念多念証文』)

人間というものは、欲や怒り、腹立つ心、ねたみそねみなどの、かたまりです。これらは死ぬまで、静まりもしなければ減りもしません。もちろん、断ち切れるものでは絶対にありません。

延塚氏は、弥陀の救いは「すべての束縛から解放された自由な道」だと繰り返していますが、自分は煩悩執着が無くなったつもりなのでしょうか。「執着がいけない。自分は執着していない」と力んでいるとしたら、その「こだわり」こそが他ならぬ執着です。「何事も喜んで負けていける」ような、腹を立てない人間が実在するでしょうか。もしいたら、煩悩の無くなった、人間ではない存在です。

ですが、そんな非現実的な世界が弥陀の救いだと主張するのは、東本願寺だけではありません。西本願寺住職の、武蔵野大学教授・山崎龍明氏の解説も同質です。

山崎龍明著『初めての歎異抄』の解説

苦しみは苦しみのままに、悲しみも悲しみのままに我が身にうけとめて生きていける世界が開かれます。そこから、これが私の人生であった、これでよかったという慶びの中に生きる自己の発見があります。
「無碍」を執着とか煩悩が無くなることだと理解すると、実現不可能な、観念の遊戯に終わってしまうのです。

《つづく》

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2010/06/14

教えと体験  親鸞会.NET

教えと体験

「論より証拠」という言葉に、人間は弱い。目の前で、説明のつかない不可解な現象を見せつけられると、ありもしない力の存在でも簡単に信じ込んでしまう。

難病で、どの医者からも見放された人が、苦しい時の神だのみ、藁にもすがる必死さで新興宗教を信じた途端に治ったら、本人はもちろん家族も、「論より証拠だ。この神様のお力に間違いない」となるのも無理はない。
千人のうち一人でもそんな例があれば、新興宗教などは大々的に宣伝するから、「病気が治った」「奇跡が起きた」といった体験談で、それらの発行する機関紙の紙面は埋め尽くされている。

普段は理論派で聞こえた人でも、案外ころりと引っかかってしまう。だが、これらのゴリヤクは実は神の力などでは毛頭なく、人間の暗示や催眠現象で、いくらでも説明がつくのである。

だから怪しい証拠は、「証拠より論」で真相を見極めなければならないのだ。

浄土真宗にも、体験を売り物にする者たちがいる。
「泣いた」「笑った」「心が明るくなった」「念仏が噴き上がった」「風呂の中で躍った」などの体験談が信心決定の証拠として紙面を堂々と飾り、周りの者たちも「よかったよかった」「私たち一味やね」と喜ぶから、いよいよその気になって、これでもう大丈夫、と腰を落ち着ける。
その体験が、親鸞聖人の本当のみ教えと合致しているかどうかは、彼らにはどうでもいいのである。「救われたのが証拠」と頭から思い込み、自分の体験をつかんで離さない。教えを聞いても、自分の体験に合わせて聞いているから、真実の教えを受け付けなくなってしまうのだ。

しかも大概はその後、聞法する気がなくなり、仏縁を遠ざける。ましてや御恩報謝の活動など、さらさら見られない。そもそも布教しようにも、親鸞聖人のみ教えをまともに聞かされていないから、布教できないのである。
だから彼らが話しできるのは、自分の体験談ばかりだ。自分が苦労して求めて、その結果「ああなった」「こうなった」という自慢話になる。

こうなった 自慢ばなしに 花が咲く

苦労した 体験談が 自慢種

まるで独りよがりな、聞くに堪えない話のオンパレードでも、本人さんたちは「ご示談」と称してやっている。だが、どんな体験も、親鸞聖人の教えと合わなければ、そらごとたわごとなのだ。「あの人は救われた」と聞いて、すぐ飛びつくような心が、迷いの根本であると知らねばならぬ。

体験の真偽は、正しい教えの定規で決するのである。

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2010/06/10

自戒すべきこと      親鸞会.net

「まったく自見の覚悟をもって、他力の宗旨を乱ることなかれ」
(歎異抄・序)

〝決して勝手な判断によって、他力の真義を乱すことがあってはならない〟
親鸞聖人の教えを説かず、「オレはああなった」「こうなった」の体験談で人集めする邪義を、『歎異抄』は厳しく教誡する。
蓮師もまた五百年前、「珍しき法」に群がる体験乞食グループを『御文章』に重ねて指摘され、廻心懺悔を促された。だがいつの時代も、各別の体験談を自慢し、売り物にする輩が後を絶たない。原因は、何か。
〝オレがオレが〟と目立ちたい自己顕示欲、財施を得たい利益欲であろう。
聖人でさえ「名利の大山」と警戒されるのだから、自制できぬ者があるのもうなずける。
だが根本は、「真実信心が無い」からに違いない。まこと信心獲得した人に、
唯一救いたもうた弥陀の本願を、己の名利でネジ曲げることなど、あり得ぬだろう。
常に正しい聖人の教えを聞法し、自戒せねばなるまい。

みえみえの 自己宣伝の 体験談

体験談 自己宣伝の ほかはなし

 

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2010/06/10

生きる目的がハッキリすれば すべての行為が意味を持つ3

真実知る者は幸い
こんなことを公言する哲学者は〝厭な奴〟と思われるだろうが、仏法を抜きにすれば、恐ろしく「正しい」のだ。

「どうせ死ぬのだよ……」

一見、華やかな生活の底にだれしもこんな虚無を抱えている。それに気づかぬよう、眼前の仕事にいそしみ、あえて日々を忙しくしているのかもしれぬ。だがそれは、根底で自己に嘘をついているのであり、最後破綻は避けられぬ。

何の虚勢もごまかしもなく、「人生には崇高な目的がある。その目的に向かう人生すべてに意味がある」。こう断言できる親鸞学徒の身の幸は、何にたとうべきだろう。

(親鸞会 発行 顕正新聞 平成22年5月1日号)

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2010/06/10

生きる目的がハッキリすれば すべての行為が意味を持つ2

どうせ死ぬのに
だが、ほとんどの人はそんな凄い弥陀の救いを知らず、築くあとから崩れ去る、もろくもはかない幸せを人生の目的と信じている。

ある哲学者はその危うさを次のように書いている。
いかに懸命に生きても、いずれ死んでしまう。他人のために尽くしても、その人も死んでしまう。日本のため、世界のため、地球のために尽力しても、やがて人類も地球もなくなるのに、なぜ「いま」生きなければならないのか。
私が死ぬと周りの人々が悲しむから?でも、それも相対的なものである。そういう人々もまたじきに死んでゆくのだ。そして、この理屈は、誰も私の死を悲しまないとき、私は死んでもかまわないという結論を導く。
(中略)
まもなく地上には人間は誰ひとりいなくなる。それからしばらく経つと、地球は巨大な太陽に呑み込まれ、太陽系も崩壊し、銀河系も飛び散り、一雫も人類の記憶は残らなくなる。これが、われわれを待ち構えている未来の姿である。
(中略)
世の中のことはすべて、私にとって究極的にはどうでもいいのだ。(中略)みんな、どうせ消滅してしまうのだから。成熟するとは「どうせ死んでしまうのに、なぜ生きるのか」という問いを忘れることであるのに。
(『狂人三歩手前』中島義道)

(親鸞会 発行 顕正新聞 平成22年5月1日号)

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2010/06/10

生きる目的がハッキリすれば すべての行為が意味を持つ1

阿弥陀仏に救い摂られた喜びを親鸞聖人はこう叫ばれる。
「噫、弘誓(ぐぜい)の強縁(ごうえん)は多生(たしょう)にも値(もうあ)いがたく、真実の浄信(じょうしん)は億劫(おっこう)にも獲がたし。遇(たまたま)行信(ぎょうしん)を獲ば遠く宿縁を慶べ」(教行信証)

「噫!」という感嘆は、かつて体験したことのない驚きと喜びの、言葉にならぬ言葉である。「弘誓の強縁」とは、
〝何としても苦しみの根元を断ち切り、人生の目的を果たさせたい〟
という強烈な弥陀の誓願をいい、その誓いどおり、苦しみの根元が断ち切られ、人生の目的成就した歓喜の生命を、「真実の浄信」と言われている。

それはもう、100年や200年求めて得られる、ちっぽけな幸せではなかった、と知らされるから、「多生にもあえないことにあえた、億劫にも獲がたいことを獲た」と言われるのである。多生億劫の間求めても、得られぬものが得られたから、「噫!」と驚嘆されるのも当然であろう。

そして、しみじみ、どんな遠い過去からの弥陀のご配慮があったのやらと、「遇行信を獲ば遠く宿縁を慶べ」と感泣されている。

(親鸞会 発行 顕正新聞 平成22年5月1日号)

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