2010/11/30

歴史の視点・学徒の論点 異安心が次々復権 近代教学、真宗大谷派を牛耳る 金子大栄・曾我量深の邪説(後編)

「金子、曾我両教授の追放反対!」
真宗大谷派の宗門校である大谷大学の学生たちが昭和5年、前代未聞のストライキを起こした。珍しい教えを好む若者と、時流に迎合する学者の後押しを受け、いったんは大学を追われた金子大栄、曾我量深の両名が、十数年で教授に返り咲いている。
また、昭和26年には、かつて異安心と断罪された男が大谷派(東)の最高権力者の座に就いた。
真宗破壊の歴史の真相に迫る。

金子大栄は「実在の浄土は信じられぬ」と本に書き曾我量深は「法蔵菩薩は阿頼耶識である」と説いて、ともに異安心の烙印を押された。
大学を追放されたあと、金子大栄は宗教専門紙の『中外日報』の紙上で別の学僧と論争をしている。
相手となった多田鼎は、金子大栄と同じく清沢一派に属していたが、このころは、近代教学とは距離を置いていた人物である。彼は、こう批判を向ける。

多田鼎
「(金子大栄の説は)凡夫の智恵で分かる範囲内に真宗の教えを取り込もうとする無理があり、真宗を一種の哲学におとしめるもの、少なくとも真宗を聖道門の一部門たらしむるものである。決して凡愚往生の本義を全うするものではない。(中略)親鸞聖人の説かれた真実報土とは、阿弥陀如来の本願の真実が現成したまえる浄土のことであって、これをば単に凡智で有るとか無いとかいう観念の遊戯に畳み込もうとすることは、大いなる誤りである」

これに対して金子大栄は、次のように反論している。

金子大栄
「教法は飽くまでも尊重するのであるが、しかしそれには分からぬことが甚だ多いので、どうかしてそれを分かりたいということである。
しかし、どこまでも自分に理解できるようにしようとする私の態度を誤りとする者がある。それらの人の見解では、『教法の大部分は、我々の分かる分からぬを超えているものである。
それ故に、我々はそれが自分に理解できるかどうかを問わずに、ただ真宗の教法はこういうものであるということを知りさえすればよい。そしてそれが信の本となるのである。
それを強いて分かりたいとするから、自然、己心の見解が加わるようになる』というのである。
しかし、それは私が陥り易い誤りなのであって、私の学問が陥るのではない。
それ故に私の学説に対する批判はどうあっても、私は私の学問の理想に従って進まんと思うのである」

教えより自分の考えを上に置くのは、後生の一大事を解決し、浄土往生を果たすという仏教の究極の目的がスッポリ抜けているからであろう。
ただ、それをズバリ指摘できなかった伝統教学側も情けない。
当時をよく知る真宗大谷派幹部は、次のように発言している。

「(曾我量深の『法蔵菩薩は阿頼耶識である』という邪説について)どうも異安心臭いけれども、どこがどう正統安心と違うのか、だれも明確に指摘できなかった」

そんな伝統教学派が数に物を言わせて押し切っただけというのが、・金子大栄、曾我量深の異安心事件・の実情なので、本山から処分を受けたあとも、彼らには反省も転向もなかった。
京都に新たな私塾を開設し、青年や一般大衆を相手に近代教学の普及に努めた。元来、相当の学者である。
執筆や講演を精力的にこなし、金子大栄はラジオ番組にも出演する売れっ子ぶりだった。
昭和16年、かつて東京の真宗大学で清沢満之の腹心の部下だった男が大谷大学の学長になると、まず曾我量深を教授に復帰させ、翌17年には、金子を復帰させた。さらに両名には大谷派の学階最高の「講師」の位が贈られた。

時は太平洋戦争前夜。軍部が大学にも土足で乗り込み、出版界に検閲の嵐が吹く中、金子大栄も曾我量深も一層精力的に著作を発表し、真宗界にその名を不動のものとした。
一方、大谷大学では、まるで粛清のように、伝統教学の教授が次々に退職させられていった。

四百五十回忌に参詣者激減
近代教学が脚光浴びる

昭和24年、真宗大谷派は蓮如上人四百五十回忌法要を勤修する。戦後日本の復興を大谷派が引っ張る意気込みで、相当の資金をつぎ込んだが、参詣者は予想を大幅に下回り、後には多額の借金だけが残った。
この時、にわかに高まった宗門改革の声が、「時代の要請にこたえる教学の宣布」をスローガンに掲げる近代教学に追い風となった。
翌25年、それまで伝統教学派の独壇場だった宗議会に、近代教学派の議員が続々と当選した。
彼らは金子大栄や曾我を勉強会の講師に呼び、着々と・改革・の地慣らしを進めていったのである。

昭和26年、だれもが驚く事件が起きた。異安心事件を起こして弾劾された暁烏敏が、宗政トップの宗務総長になったのである。国政に例えれば首相である。

大谷派の空気がこれで一変した。
この後、清沢崇拝者が代々、宗務総長に就き、昭和31年、ついに近代教学が正式に真宗大谷派の教学として採択されるのである。
時の宗務総長が、「宗門各位に告ぐ」と発布した「宗門白書」には、こう明言している。
寺に青年の参詣が少なく、寺院経済が逼迫し、怪しげな新興宗教に門信徒を奪われている今の時代には、清沢先生の教学こそ、重大な意義をもつものである、と。
そして、伝統教学は「煩瑣な観念的学問となって閉息している真宗教学」であるとして、決別を宣言したのである。これを期に大谷派・東・は名実ともに近代教学一色となり、今日に至っている。
金子大栄と曾我量深の両名は、清沢満之が始めた近代教学を大成した功労者であるとして、昭和36年、大谷派から表彰されている。

◆     ◆

かくして明治以来わずか100年足らずで大教団が、指方立相の弥陀の浄土や後生を否定する集団になってしまった。今年出版した『親鸞の説法──「歎異抄」の世界』も、まさに清沢満之以来の近代教学に毒された書である。

親鸞学徒はあくまで、親鸞・蓮如両聖人の聖語をもって真実を聞き、伝えねばならない。

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昭和初期~中期
近代教学派の変遷


3年  金子大栄、大谷大学を辞任
5年  曾我量深、大谷大学を辞任
大谷大学の学生、総退学。責任
を執って教授23名が総辞職
(6年 満州事変)
16年  曾我量深、大谷大学に復帰し、
学階・講師を授与される
(太平洋戦争、始まる)
17年  金子大栄、大谷大学に復帰
19年  金子大栄、学階・講師を授与
される
24年  蓮如上人450回忌
26年  暁烏敏(当時74歳)、宗務総長に
31年  大谷派、近代教学を正式に採択
36年  親鸞聖人700回忌
金子大栄、曾我量深、教学の功労者として表彰される
曾我量深、大谷大学学長に
38年  金子大栄、宗務顧問に
解説

伝統教学はどこへ

伝統教学では、江戸時代以来、法主が信仰と教学の最高責任者として絶対的な権威を保っていた。
対する近代教学は、個々の自覚を重んじることから、封建性の打破と「民主化」を目指した。
宗派の運営をめぐる二派の対立は、昭和44年、権力闘争・財産争いとして表面化する。俗に「お東騒動」と呼ばれる。
永年、法廷での闘争を続けた揚げ句、伝統派は真宗大谷派を飛び出し、新たな団体を作ったため、大谷派は四つに分裂。財産をめぐる裁判は、今も続いている。
*『中外日報』……明治30年創刊の宗教専門の新聞。当時は日刊だった

*多田鼎……清沢満之の影響を受け、活動をともにする。後に真宗大学教授に。昭和16年、大谷派・講師

*清沢満之の腹心の部下だった男……関根仁応という者。昭和17年、大谷派・講師

*宗議会……宗派の予算や条令案を議決する最高機関。国政でいえば、国会にあたる

*暁烏敏の異安心事件については、こちらをお読みください。
↓↓↓
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*煩瑣……こまごまとして、煩わしいこと

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