2010/04/16

比較対照『歎異抄をひらく』【7】 なぜ東大教授も誤読したのか 親鸞会.NET

前回(『歎異抄』解説書の比較対照《急ぎ仏になりて》)
http://www.shinrankai.net/2009/12/hikak-2.htm
に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。

《原文》

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり
(『歎異抄』第一章)

『誤解された歎異抄』梅原猛著の意訳

阿弥陀さまの不可思議きわまる願いにたすけられてきっと極楽往生することができると信じて、念仏したいという気がわれらの心に芽ばえ始めるとき、そのときすぐに、かの阿弥陀仏は、この罪深いわれらを、あの輝かしき無限の光の中におさめとり、しっかりとわれらを離さないのであります。そのとき以来、われらの心は信心の喜びでいっぱいになり、われらはそこから無限の信仰の利益を受けるのであります。


『歎異抄をひらく』高森顕徹先生著の意訳

“すべての衆生を救う”という、阿弥陀如来の不思議な誓願に助けられ、疑いなく弥陀の浄土へ往く身となり、念仏称えようと思いたつ心のおこるとき、摂め取って捨てられぬ絶対の幸福に生かされるのである。
かつて親鸞研究の第一人者として、自他ともに認める東大教授が、この一節を誤読して、大きな問題を起こしたことがあります。

氏は、ここを「心から阿弥陀仏の救いを信じて念仏をとなえれば、ただ一度の念仏で極楽往生が約束される」と解釈し、高校の教科書『詳説日本史』にもそう記したのが発端でした。

「あれでよいのか」の告発意見が、毎日新聞の投書欄などに続出した。
親鸞聖人の教えは漢字四字で「信心為本」「唯信独達」と言われるように、信心一つで助かるという教えです。
弥陀の本願に疑い晴れた一念で、浄土往生間違いない身に救い摂られるのです。
東大教授が言うように、「ただ一度の念仏で救われる」のであれば、信心獲得した直後、一度も念仏を称えずに死んだ人は、極楽へは往けないことになります。

ですから、ある投書氏などはダイレクトに、

「弥陀の本願の『信』がこもった直後、一度の念仏も称えずに死んだ者は、往生が決定しなかったのか」と牙城に迫りました。

自他ともに認める親鸞研究の権威、どんな回答を寄せるか、大いに固唾をのませた教授の返答は、何ともそっけない落胆させるものでした。
「返事になるかどうか分かりませんが、『歎異抄』をよくよくお読みください。それがすベてです」

■救いは信心一つか念仏か

果たして『歎異抄』には、教授が言うように「念仏称えたら助かる」と書かれているのか、それとも「信心一つで助かる」と書かれているのか。

一章冒頭には、

「『念仏申さん』と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」(『歎異抄』第一章)

とあります。
「摂取不捨の利益にあずけしめたまう」とは、弥陀に救い摂られ極楽往生が決定したことです。それが、
「『念仏申さん』と思いたつ心のおこるとき」
と説かれています。
これでは極楽往生が決定するのは”念仏称える前”であることは、誰の目にも明白です。

教授の解釈をめぐって、新聞紙上にも活発な意見が多数掲載され、浄土真宗の学者たちも登場し、「某教授の説は誤り」「訂正さるべき」と痛烈な批判が公表されました。

それでも沈黙を守っていた教授は、間もなく自説を撤回し、「念仏を唱えようかなと思い立つ心の起こるとき、直ちに、弥陀のすくい取って捨てることない利益にあずからせてくださるのだ」と訂正。

問題の教科書も、”親鸞の教えは念仏で救われるのではなく、信心一つの救いである”と改訂されました。

こんな親鸞聖人の教義の、核心にかかわる誤りが、なぜ起きたのでしょう。

それは『歎異抄』の「『念仏申さん』と思いたつ心のおこるとき」を、「一度の念仏を称えたとき」と、勘違いしたところにあったのです。
「『念仏申さん』と思いたつ心のおこるとき」と、「念仏称えたとき」とは、明らかに前後があるのに、です。
東大教授・親鸞研究の大家でも、いかにも誤りやすいのが『歎異抄』ともいえましょう。

■典型的な『歎異抄』の誤解

多くの解説書が『歎異抄』一章を、東大教授と同様に、「念仏を称えたら助かる」と解釈している。冒頭に引用した梅原猛著『誤解された歎異抄』も、ここを念仏の救いを説かれた章と解説しています。

これは、親鸞の思想であると同時に法然の思想でもある。口称念仏の行はまことに易しい行であり、末代の凡夫でも可能である。(中略)知恵もなき徳もなき末代の凡夫は、念仏往生するより往生の道はない。
(梅原猛『誤解された歎異抄』)

『歎異抄 全講読』安良岡康作著も、人間の信心から発する念仏で救われると書いています。

弥陀の誓願に対する人間の信心がいかにして成立するか、また、それにもとづいて発する念仏によって、弥陀の摂取の利益に参加させ給うに至るかが、極めて緊張した、無駄のない文体で、力強く叙述されている
(安良岡康作『歎異抄 全講読』)

『歎異抄』には「念仏」が頻出するから、このような”念仏称えたら救われる”という誤解は後を絶ちません。

■弥陀の救いはいつか

「『念仏申さん』と思いたつ心のおこるとき」を、単純に「念仏称えたとき」と理解する人がほとんどですが、『歎異抄をひらく』では、これは「念仏称えたとき」ではなく、弥陀に救われた「一念」だと解説されています。

弥陀の救いの時は、「念仏称えようと思いたつ心のおきたとき」と、平生の一念であることが明言されている。(140ページ)

「『念仏申さん』と思いたつ心のおこるとき(一念)」と、「念仏称えたとき」とは、前後があるのだから、明確に区別されなければなりません。
その信の一念の水際を知らず、自力と他力の峻別ができないから、「念仏称えたとき救われる」と誤解していくのです。

『歎異抄論註』佐藤正英著などは、この二つを区別するどころか、一体化させるような解説をしています。

「念仏まふさんとおもひたつ」とは、それ故、往々誤解せられているような、たんに念仏を称えようという考えを起す、の意ではない。
念仏を称えようという考えを起し、進んで念仏を称える、の意である。
念仏を称える行為をそれ自身に内包しているところの言い廻しである。
(佐藤正英『歎異抄論註』)

このような、弥陀の救いが、ますます分からなくなる解説に対し、『歎異抄をひらく』では、「南無阿弥陀仏」の「な」も言わない前の、”称えよう”と思いたつ心の起きた一念に救い摂られると明言されています。

■「念仏申さん」と思いたつ心

次に問題になるのは、「念仏称えようと思いたつ心」とは、どんな心かということです。
“念仏称えよう”と思いたつ心のおきたとき、といっても、いろいろの場合が考えられます。

夜中に一人で、墓場の近くを歩いている時に称えようと思う念仏もあるでしょう。
無意識であっても、魔よけの心が働いているのかもしれません。
肉親の死にあって、悲しみに暮れて称える念仏もあろう。台本にあるから仕事心で称える俳優の念仏もあるだろう。”念仏称えようと思いたつ心”といっても、様々です。
科学的に分析すれば同じ涙でも、”うれし涙”やら”悲し涙””悔し涙”など、心はいろいろあるように、同じく南無阿弥陀仏と称えていても、称え心はまちまちです。

親鸞聖人は、念仏を称え心によって三とおりに分けられています。

弥陀が十九願で誓われ、それを釈迦が『観無量寿経』で解説された念仏を、聖人は「万行随一の念仏」と言われ、

二十願で誓われ『阿弥陀経』に説かれる念仏を「万行超過の念仏」、

十八願で誓われ、『大無量寿経』に説かれる念仏を「自然法爾の念仏」と教えられています。

これら三とおりの念仏を『歎異抄をひらく』では、平易に詳説されています。

万行随一の念仏――十九願――観無量寿経
万行超過の念仏――二十願――阿弥陀経
自然法爾の念仏――十八願――大無量寿経

■参考

【マンガ】念仏にも三とおりある(1/2)|浄土真宗親鸞会

※浄土真宗 親鸞会公式サイト|念仏を称えてさえいれば助かるのが浄土真宗ではないのか(三通りの念仏)

※浄土真宗親鸞会★朋ちゃんHappy diary♪ ≫ Blog Archive ≫ ★三通りの念仏 『顕正新聞』2月1日号に!!★

同じく念仏称えていても、「諸善よりも勝れているのが念仏」ぐらいに思って称えている念仏者(万行随一の念仏)もあれば、「諸善とはケタ違いに勝れた大善根が念仏だ」と、専ら称える念仏者(万行超過の念仏)もいる。
称え心を、もっとも重視された聖人は、これらの念仏者を総括して自力の念仏者と詳説される。
それとは違って、弥陀に救われた嬉しさに、称えずにおれない念仏者(自然法爾の念仏)を、他力の念仏者と聖人は判別されている。
聖人の念仏者とは、いつもその中の、他力の念仏者であり、弥陀に救われた信心獲得の人のことである。(234ページ)

■「念仏申さんと思いたつ心」=「他力の信心」

一章の「念仏申さんと思いたつ心」に戻ろう。これがどんな心かを表明されたのが、冒頭の「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなりと信じて」です。
「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて」とは、”摂取不捨の利益(絶対の幸福)にあずかって、弥陀の誓願不思議だった”と知らされたこと。
「往生をば遂ぐるなりと信じて」とは、”必ず浄土へ往ける”と、往生が本決まりになった後生明るい心です。

この「信じて」は、世間で使う「明日は晴れると信じている」というような「信じる」とは、根本的に異なります。

「信知して」ということであり、ツユチリほどの疑いも無く「明らかに知らされたこと」である。”必ず浄土往生できる”とハッキリしたことを、「往生をば遂ぐるなりと信じて」と言われているのです。

言葉に前後があります、「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせた」も、「往生をば遂ぐるなりと信じた」も、「念仏申さんと思いたつ心」「摂取不捨の利益」も同じ心だが、同時に書いたり、言ったりはできないから、前後のできるのは仕方がないのです。

これらは弥陀より賜る心ですから、「摂取不捨の利益にあずけしめたまう」と言われています。弥陀よりあずけしめたもう心であるから、「他力の信心」といわれます。
「他力」とは、”弥陀より賜ること”。

「念仏申さんと思いたつ心」は、「他力の信心」にほかなりません。
「唯信独達」の「信」も、「念仏申さんと思いたつ心」であり、この心を弥陀から賜った一念に、摂取不捨の利益に生かされるのです。

しかし、「念仏申さんと思いたつ心」イコール「他力の信心」という解説は、皆無に等しい。反対に、この二つを別ものと考え、念仏称えようという心が無くても救われると解説する本さえあります。

『歎異抄 その批判的考察』石田瑞麿著は、

「念仏を称えようと思うことの有無にかかわらず、信心がえられたとき、摂取不捨の利益に与(あずか)る」と書いています。
これでは、「念仏申さんと思いたつ心のおこるとき、摂取不捨の利益にあずかる」と書かれた一章を否定することになるでしょう。

一章は冒頭から、勝手な解釈がまかり通っているから、『初めての歎異抄』山崎龍明著では、「念仏申さんと思いたつ心」を、真理への「うなずき」だと、無責任な自見を述べています。

「念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」とあるとおり、念仏を申して救われるのではなく、そのこころがおこるとき、すでに「救済」されていると示されます。
言葉をかえていえば、それは「真理」なるものへの「うなずき」が生じたとき、といってもよいかもしれません。ここに「信心」の重さが示されています。
(山崎龍明『初めての歎異抄』)

聖人の教えで最も重い「信心」が、かくも軽い感覚で解説されているのです。
まして、「往生をば遂ぐる」を「この世で新しい生活が始まる」と言い換え、仏法の究極の目的である「浄土往生」が抜けてしまった『現代語歎異抄』親鸞仏教センター著の意訳まで飛び出す始末です。

人間の思慮を超えた阿弥陀の本願の大いなるはたらきにまるごと救われて、新しい生活を獲得できると自覚して、本願に従おうというこころが湧き起こるとき、迷い多きこの身のままに、阿弥陀の無限なる慈悲に包まれて、不動の精神的大地が与えられるのである。
(親鸞仏教センター『現代語 歎異抄』)

肝要の「他力の信心」を表す「念仏申さんと思いたつ心」が、真理への「うなずき」とか、「本願に従おうというこころ」程度に訳されているのですから、後は推して知るべしでしょう。

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*梅原 猛……日本を代表する哲学者。
京都市立芸術大学名誉教授。
国際日本文化研究センター名誉教授。
『聖徳太子』『仏教の思想』などの著書多数

*安良岡康作…国文学者。
東京学芸大学名誉教授

*佐藤正英……東京大学名誉教授。
日本倫理思想史、倫理学の研究者

*石田瑞麿……元・東海大学教授。
浄土教の研究に専心。著書多数

*山崎龍明……元・西本願寺教学本部講師。
武蔵野大学教授。
専門は親鸞聖人、『歎異抄』。
『本願寺新報』に教学の解説をしばしば掲載している

*親鸞仏教センター……真宗大谷派の学者の集まり。
「浄土真宗」から「浄土」が抜けた教えになっている

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2010/04/12

比較対照『歎異抄をひらく』【6】「他の善も要にあらず」の誤解で真宗凋落

前回(『歎異抄』解説書の比較対照《急ぎ仏になりて》)
http://www.shinrankai.net/2009/12/hikak-2.htm

に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。

<原文>

しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきがゆえに
(『歎異抄』一章)

『誤解された歎異抄』梅原猛(※1)著の意訳

それゆえ、この阿弥陀さまの本願を信ずるためには、他の善をなす必要は毛頭ありません。
ただ念仏すればいいのです。念仏以上の善はほかにありませんから。



『歎異抄をひらく』高森顕徹先生著の意訳
ゆえに弥陀の本願に救い摂られたならば、一切の善は無用となる。弥陀より賜った念仏以上の
善はないからだ。

この一節を、梅原氏のように”本願を信ずるには、諸善は必要ない”と理解する人が多くあります。
『歎異抄 全講読』安良岡康作(※2)著も、
「本願を信じようとするに当っては、ほかの善い行いも必要ではない」と、次のように解説しています。

初めての聞き手にとっては、耳を驚かす立言であったに違いない。
本願への信心には、いかなる善行も不要であるというのであるから。
読経も讃歎も礼拝も供養も写経も布施等も、不要な雑行として退けられる
(安良岡康作『歎異抄 全講読』)

『初めての歎異抄』山崎龍明(※3)著も、「善根は救いには無関係」と言っています。

『歎異抄』の第一条には、「しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらず」とあります。
つまり、阿弥陀仏の本願に生きる者は、他の一切の善根をおさめる必要がないというのです。
善根は救いには無関係だといっています。
(山崎龍明『初めての歎異抄』)

ここに、浄土真宗の堕落の原因があります。
「”本願に救われるには、善は一切いらない”と『歎異抄』に書いてあるじゃないか」と、
浄土真宗の者は積極的に善に向かおうとしません。

消極的、退嬰的な者ばかりで、ポジティブな人がいないのです。
善い種をまかなかったら、やってくるのは悪果ばかり。

「親鸞聖人の教えに善の勧めはない」と、とんでもない聞き誤りをしているから、
真宗の凋落は目に余る惨状です。

ですがそれは、聖人ご在世中からあった根深い謬見でもあります。
『歎異抄をひらく』では、聖人が悪を戒め善を勧められたお言葉を提示して、その誤解を正されています。

「弥陀の本願に救われるには、念仏以上の善はないのだから、念仏さえ称えていれば、
他の善はしなくてもよい。本願で助からぬ悪はないのだから、どんな悪も恐れることはないのだ」
と得手に聞き、平気で悪を犯す輩が、聖人ご在世からあったとみえて、「放逸無慚なるまじき」と、
しばしば忠告されている。

一、二を挙げておこう。

われ往生すべければとて、為まじきことをもし、思うまじきことをもおもい、言うまじきことをも
言いなどすることは、あるべくも候わず (末灯鈔)

「これで自分は、極楽へ往けるようになったのだから」と広言し、勝手気ままに、してはならないことを
したり、思うてはならぬことを思ったり、言ってはならぬことを言ったりするなど、決してあっては
ならないことだ。
煩悩具足の身なればとて、心にまかせて、身にも為まじきことをも許し、口にも言うまじきことをも許し、
意にも思うまじきことをも許して、いかにも心の儘にてあるべしと申しおうて候らんこそ、返す返す不便に
おぼえ候え。

酔もさめぬ先になお酒を勧め、毒も消えやらぬにいよいよ毒を勧めんがごとし。「薬あり、毒を好め」と
候らんことは、あるべくも候わずとこそ覚え候
(末灯鈔)

どうせ煩悩の塊だからと開き直って、思うにまかせて、やってはならぬ振る舞いをし、言ってはならぬ
ことを言い、思ってはならぬことを思っても、これは仕方のないこと、慎む必要はないのだ、と話し合って
いるようだが、はなはだ情けない限りである。
泥酔者に、なお酒を勧め、毒で苦しんでいる者に「薬がある、どんどん毒を飲め」と言う愚者が、どこにあろうか。

真意の理解される困難さと、聖人の悲憤の涙が伝わってくる。

(『歎異抄をひらく』155ページ)

では、「本願を信ぜんには」をどう理解すべきでしょうか。
種々に解釈されてきたが、『歎異抄 その批判的考察』石田瑞麿(※4)著は次のような
歯切れの悪い解説をしています。

「もしも信ぜられるならば、その場合には」といった意味に解されるのが、「信センニハ」の意味するところであろう。

(石田瑞麿『歎異抄 その批判的考察』)

『歎異抄論註』佐藤正英(※5)著も、同様に言葉を濁しています。

「信じているとすれば、それ以上には」の意に解すべきではなかろうか。 (佐藤正英『歎異抄論註』)

「であろう」「ではなかろうか」という憶測が氾濫する中、『歎異抄をひらく』では、「本願を信ぜんには」を
「弥陀の本願に救い摂られたならば」と、鮮明に意訳されています。
「本願を信ぜんには」とは、「本願を信じたならば」ということです。
弥陀の本願は、信ずる一念で救うお約束だから、「本願を信じたならば」とは「本願に救い摂られたならば」に
ほかなりません。

「本願を信ぜんには」が読めないから、続く「他の善も要にあらず」も”仕事も家族もすべて重要でなくなる
ことでしょう”とか、”世間を超越して仕事に専念することでしょう”などと誤解、曲解に満ちています。

『現代語 歎異抄』親鸞仏教センター(※6)著には列記されています。

A▼広げて考えれば、自分が大事にしている家族、健康、財産、地位、名声、仕事など、この世の
あらゆる価値が、肝心なことではなくなるということでしょう。(中略)
C▼この世を超越した視点をもって、この世の仕事に専念することでしょう。

(親鸞仏教センター(※6)『現代語 歎異抄』)

仏教の目的が浄土往生であることが、まるで抜けた、論外の解釈です。
『歎異抄をひらく』では、「他の善も要にあらず」を「一切の善は無用となる」と意訳されています。

これは”浄土往生には”無用ということです。
仏法は、百年足らずの泡の一生でなく、永遠の魂の解決が説かれるから、常に浄土往生が目的です。
弥陀に救われたら”往生には”一切の善は無用ということであって、この世の生活面に善が不要という
ことではありません。

信心決定の身になったら、何もしなくても財や物が集まり、人から尊敬されると思ったら大間違いです。
善をしなければ、人生の落伍者になるだけです。
大宇宙の功徳「南無阿弥陀仏」を丸もらいすれば、いつ死んでも往生間違いなしと大満足するから、
往生のためには善は一切無用となります。
それを「他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきがゆえに」とおっしゃっているのです。

この真義を、『歎異抄をひらく』では次のように詳解されています。

「他の善も要にあらず」(他の善は必要ない)とは、弥陀の本願を信じ救われた者は、弥陀より賜った
念仏で往生決定の大満足を獲ているから、「往生のために善をしようという心」は微塵もない、
ということである。

難病が特効薬で完治した人は、他に薬を求めようという心がないのと同じだ。他の薬に用事があるのは、
全快していないからであろう。

既に救い摂られた人に、救われるに必要な善などあろうはずがない。
善が欲しいのは、救われていない証である。

(『歎異抄をひらく』158ページ)

「カミソリ聖教」の異名を持つ『歎異抄』の中でも、とりわけ危険な誤解を生む一節だから、特に留意して
読まねばなりません。

《まとめ》

「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず」(『歎異抄』1章)

・他の『歎異抄解説書』

「本願を信ずるには(弥陀の本願に救われるには)善は一切いらないから、親鸞聖人の教えに善の勧めはない」
と聞き誤っている。
この『歎異抄』の誤解から「善をすすめぬ真宗」となり、今日の衰退をもたらした。

・『歎異抄をひらく』

「本願を信じたならば(弥陀の本願に救い摂られたならば)浄土往生のためには一切の善は無用となる」
と説かれている。

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〔※1 梅原 猛(うめはら たけし)哲学者。
京都市立芸術大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授。
京都市名誉市民。文化勲章受章者〕

〔※2 安良岡 康作(やすらおか こうさく)国文学者。
東京学芸大学名誉教授。日本中世文学、国語教育専攻〕

〔※3 山崎龍明(やまざき りゅうみょう)日本の仏教学・真宗学者。
武蔵野女子学院中学校・高等学校宗教科教諭、本願寺教学本部講師、
龍谷大学文学部、駒澤大学仏教学部非常勤講師を経て、武蔵野女子大学
(現・武蔵野大学)文学部日本語・日本文学科教授となる。
のちに同大学仏教文化研究所所長を併任。世界宗教者平和会議(WCRP)
平和研究所副所長。東京都小平市の浄土真宗本願寺派法善寺住職、
同派布教使でもある。特に『歎異抄』が専門。 wikipediaより〕

〔※4 石田瑞麿(いしだ みずまろ)仏教学・日本仏教専攻。文学博士。
東京帝国大学文学部印度哲学梵文学科卒業。
その後、東京大学講師、東海大学教授〕

〔※5 佐藤 正英(さとう まさひで)日本の宗教学者・倫理学者
東京大学文学部名誉教授〕
〔※6 親鸞仏教センターのホームページにはこう紹介されています。

“親鸞仏教センターは、2001年首都・東京において時代の苦悩と
親鸞聖人の思想との接点を探り、現代人に真宗を語りかけるための
新しい視点とことばを見いだそうと設立された、真宗大谷派
(京都・東本願寺)の研究交流施設です〕

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2010/04/10

比較対照『歎異抄をひらく』【5】「ただ信心を要とす」の「信心」とは 親鸞会.NET

前回( 歎異抄第一章の「往生」は「新しい生活」のこと?? 親鸞会.NET)
http://www.shinrankai.net/2010/04/tannisyo-17.htm
》)
に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。

《原文》

弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず、ただ信心を要とすと知るべし (『歎異抄』一章)

『初めての歎異抄』山崎龍明著の意訳

阿弥陀仏の本願は、年齢とか、人間の善し悪しにかかわらず、阿弥陀仏の真実に深くうなずくことが最も大切です。


『歎異抄をひらく』高森先生著の意訳

弥陀の救いには、老いも若きも善人も悪人も、一切差別はない。ただ「仏願に疑心あることなし」の信心を肝要と知らねばならぬ。

弥陀の救いには一切の差別はありません。
老人も若者も、世間でいう善人も悪人も区別なく、なんの隔てもなく救う弥陀の本願ですが、「ただ信心を要とすと知るべし」とクギをさされ、「信心一つの救い」が鮮明にされています。
『歎異抄』二章には「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」とあるので、「ただ念仏さえ称えれば救われるのだ」と誤解している人がほとんどです。しかし、全十八章の収まる第一章には、「ただ信心を要とすと知るべし」信心一つで救われると明言されています。このお言葉は、『歎異抄』全体を通じて数ある誤解を正す、限りなく重い聖人の発言といっても決して過言ではありません。

ところが、この大事なお言葉を、『歎異抄 その批判的考察』石田瑞麿著は、「言おうとしていることの焦点がぼけている」と述べ、苦言を呈しているのです。解説書を書くような人でも、理解の難しい所なのでしょう。

ここで肝要と確言される「信心」は、一般に使われている「信心」とは根本的に異なることを、『歎異抄をひらく』では、次のように詳説されています。

一般には、金が儲かる、病気が治る、息災延命、家内安全などのゴリヤクを、仏や神に祈念することを「信心」と言われている。
また、神仏を深く信じて「疑わないこと」と考えている人がほとんどだ。
しかし、よく考えると、疑う余地のまったくないことなら信ずることは不要になる。「夫は男だと信じている」と言う妻はないだろう。疑いようがないからである。
ひどい火傷をした人は、「火は熱いものだと信じている」とは言わない。熱かった体験をしたからだ。
疑いようのない明らかなことは「知っている」とは言うが、「信じている」とは言わない。「信じる」のは「疑いの心」があるときである。
難関の受験生は、試験は水もの、発表までハッキリしないから、「合格を信じている」という。「合格を知っている」とは言わない。”ひょっとしたら失敗するかも”の、疑心があるからであろう。
世間でいう信心も同様だ。ハッキリしない疑いの心を抑えつけ、信じ込もうとする信心である。だが親鸞聖人が肝要と言われる「信心」は、根本的に異質のものだ。どこが、どう違うのか。喩えなどで詳述しよう。
乱気流に突っ込んで激しく機体が振動し、しばしば機長のアナウンスが流れる。「大丈夫です。ご安心下さい」。それでも起きる不安や疑心は、無事着陸したときに消滅する。
「助ける」という約束に対する疑いは、「助かった時」に破れる。「与える」という約束の疑いは、「受け取った時」に無くなるように、”摂取不捨の利益(絶対の幸福)を与える”という弥陀の約束(本願)に対する疑いは、「摂取不捨の利益」を私が受け取ったときに晴れるのである。
この「弥陀の本願(誓願)に露チリほどの疑いもなくなった心」を、「信心」とか、「信楽」と聖人はおっしゃるのだ。 (『歎異抄をひらく』147ページ)

親鸞聖人の説かれる「信心」は、弥陀の本願にツユチリほどの疑いも無くなったことです。そのような、世間に全く無い信心を、聖人は何を根拠に教えられたのでしょうか。

親鸞聖人は決して、今まで誰も言わなかった珍しい法を説かれたのではありません。釈迦が説いた「本願成就文」の教え一つ、伝えられた方でなのです。

その本願成就文を聖人は「一実円満の真教・真宗これなり」と言われ、大宇宙唯一の完全無欠の教えであり、真実の宗教だと喝破されています。

聖人九十年の教えは、この本願成就文以外にはありません。畢生の大著『教行信証』は、本願成就文四十字を六巻に開かれた解説書です。
つまり聖人が教えられた「信心」とは、本願成就文に「聞其名号信心歓喜」と説かれている信心なのです。

ここで「聞其名号」と言われる「聞」とは、「信心」と同じ意味だと、聖人はこうおっしゃっています。

「『聞其名号』というは、本願の名号をきくとのたまえるなり。(中略)『きく』というは、信心をあらわす御法なり」 (『一念多念証文』)

また、この「聞」を分かりやすく、こうも詳説されています。

「『聞』と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。これを『聞』と曰うなり」
(『教行信証』)
「聞」イコール「信心」だから、『「信心」とは、阿弥陀仏の本願にツユチリほどの疑いも無くなったことだ』と聖人は明らかにされているのです。
このように聖人が明解された本願成就文の教説から、『歎異抄をひらく』は、一章の「信心」を「『仏願に疑心あることなし』の信心」と意訳されています。

なぜこのような意訳になるのか疑問に思っていた読者もあるでしょうが、本願成就文によって「信心」を解説されていることが分かるでしょう。

今日、当然あるべきそんな解説書は、悲しきかな皆無です。聖人は「疑心有ること無し」と、疑いが金輪際、無くなった「信心」を説かれているにもかかわらず、ある倫理学者は、この「信」は疑いを含むと自説を展開しています。衆生が本願を疑い無く信じることなど不可能だから、信と不信を絶えず揺れ動くのが当然だと、

『歎異抄論註』佐藤正英著は、次のように主張します。

〈信〉は〈不信〉を内包している。そしてそれは〈不信〉への絶えざる揺り戻しとして現れる。(中略)衆生たるわれわれはいずれ〈不信〉へと揺り戻されずにはいられない。〈信〉に静止することは衆生たる以上不可能である。(佐藤正英『歎異抄論註』)

我々煩悩具足の衆生には、弥陀の本願を信ずる心は微塵もない。だから、聖人の信心は弥陀から賜る「他力の信心」であることを、『歎異抄をひらく』では、次のように解説されています。

弥陀の本願に疑い晴れた心は、決して私たちがおこせる心ではない。この心が私たちにおきるのは、まったく弥陀より賜るからである。
ゆえに、「他力の信心」と言われる。「他力」とは「弥陀より頂く」ことをいう。

このように親鸞聖人の信心は、我々が「疑うまい」と努める「信心」とはまったく違い、”弥陀の本願に疑い晴れた心”を弥陀より賜る、まさに超世希有の「信心」であり、「信楽」とも言われるゆえんである。
(『歎異抄をひらく』150ページ) 本願に疑い晴れた心は、決して衆生がおこせる心ではないのですが、その点が曖昧な解説書がほとんどです。例えば『歎異抄 全講読』安良岡康作著では、衆生の中には、本願を「信じ得る人」がいて、そんな特別な人が救われるのだと、次のように説明されています。

親鸞は、「衆生」、その中でも、特に、「本願」を言葉として聞き、理解し、信じ得る人・人間が弥陀の本願により往生し得る道をここに説示しているのである (安良岡康作『歎異抄 全講読』)

本願に疑い晴れた心は、衆生が持ち合わせる心ではなく、弥陀から賜る信心だから、親鸞聖人の教えでは、「信心を獲る」「信心を獲得する」とは言われても、「信心する」とは絶対に言わないのです。
「信心する」では、信じようと自分が努力する「自力の信心」になってしまうからです。

ところが、信心すればさえ救われると、『誤解された歎異抄』梅原猛著では、不浄な解釈がなされています。

ただ信心が肝心なのです。信心さえすれば、どんな人でも阿弥陀さまは救ってくださるのです。
(梅原猛『誤解された歎異抄』)

他の解釈も似たり寄ったりで、現今『歎異抄』研究の第一人者と自他ともに認める、武蔵野大学教授の山崎龍明氏も、冒頭で引用したように、一章の「信心」を「阿弥陀仏の真実に深くうなずくこと」と解釈しています。
『現代語 歎異抄』親鸞仏教センター著も同様で、「如来の本願に目覚めるこころ」と訳されています。これでは全く、他力信心になりません。

蓮如上人は

「信心という二字をばまことの心と読めるなり、まことの心と読む上は凡夫自力の迷心に非ず全く仏心なり」

とおっしゃって、「他力の信心」は迷った人間の心ではなく、弥陀から賜る仏心だと明らかにされています。
我々がうなずいたり、目覚めたりする「凡夫自力の迷心」とは次元が違うのです。

親鸞聖人が九十年のご生涯、ただ一つ教えられた「他力の信心」が、「うなずく」とか「目覚める」程度に説明されていては、解説書は氾濫すれど『歎異抄』は依然、霧の中なのです。

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2010/04/07

『歎異抄』解説書の比較対照【4】歎異抄第一章の「往生」は「新しい生活」のこと?? (親鸞会.NET)

真宗大谷派 (京都・東本願寺)の研究交流施設である
親鸞仏教センター(※)の出した歎異抄の一章冒頭の解説を見ますと

「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、
往生をばとぐるなりと信じて」

の一節を、こう現代語訳されていました。

「人間の思慮を超えた阿弥陀仏の本願の大いなるはたらきに
まるごと救われて、新しい生活を獲得できると自覚して…」
「往生をばとぐる」を「新しい生活を獲得できる」
と訳されているのですが、一体、「新しい生活」とは
どんな“生活”なのでしょうか?

少なくとも「往生」を「新しい生活」と解釈して
いるのは初めて読みました。

死後の極楽浄土を認めない、お東さんらしい珍解釈ですが
ここで言われている「往生」は「浄土へ往くこと」では
ないのですか??
初めがこれでは、後は押して知るべしでしょう。
◆詳しくはコチラをお読みください◆

後生を問わぬ”『歎異抄』信仰”の破綻[大谷派住職の告白]|浄土真宗親鸞会公式サイト
親鸞会.NET≫ ≫ 『歎異抄』解説書の比較対照


※親鸞仏教センターのホームページにはこう紹介されています。

“親鸞仏教センターは、2001年首都・東京において時代の苦悩と
親鸞聖人の思想との接点を探り、現代人に真宗を語りかけるための
新しい視点とことばを見いだそうと設立された、真宗大谷派
(京都・東本願寺)の研究交流施設です。
 

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