2009/06/15

菩薩とは

 

 

■親鸞会仏教講座■

「菩薩」と聞いて何を思い浮かべるでしょうか?
“道端や、川べりで、見かける赤い前かけをした石の像”
と答える人は少なくないでしょう。。
雨に打たれ、風に吹かれ、雪が積もっても、
じっとそこに立ち尽くす。
寒くてかわいそうに、と冬には手作りの着物を着せ、
帽子をかぶせる人もありますね。
食事も取らず、トイレにも行かぬ、黙然と路傍にたたずむ
石像が“菩薩”と思っているようです。

しかし、そうではないのです。
まず言葉の意味から見てみましょう。

「菩薩」とは「菩提薩埵」の略です。

「菩提」とは、インドの古い言葉を漢字で表したもので、
「本当の幸せ」のこと。

「薩埵」は「求める人」のこと。

ですから「菩薩」とは、「菩提薩埵」“本当の幸せを求める人”という
意味なのです。

「いかなる人も己自身の幸運の建設者なり」
といったラテンの詩人もいましたが、
〝幸せになりたい〟と思わない人はいないでしょう。

ですが現実は、
「コロンブスが幸福であったのは、彼がアメリカを発見した時ではなく、
 それを発見しつつあった時である」
のドストエフスキーの言葉が象徴するように、
つかんだと思った瞬間、幸福はするすると逃げてしまいます。
一時的な安心、満足はあっても、心から
「人間に生まれてよかった」
の喜びを感得しているでしょうか。
老い、病、死という壁にぶち当たり、行く先しれない
人生のたそがれに呆然とするとき、
「一体、本当の幸福はどこに?」
と人知れずつぶやく、そんな未来が見えてはこないでしょうか?
幸せになりたくて、様々なものを追い求めます。

一体、何を得れば心からの満足が得られるのか。
すべての人が一番知りたい、まことの幸せを教えられたのが、
釈尊であります。

お釈迦さまは、

「人身受け難し、今已に受く」

と仰有り、仏教を聞き抜けば

「人間に生まれてきたのは、これ一つのためだった!」

と、生命の歓喜輝くと教えられました。
仏教に明示されている“まことの幸せ”を『菩提』といい、
求める人を薩埵というので、

菩提薩埵(菩薩)は、“本当の幸せを説く真実の仏教を聞き求める人”
のことなのです。

観音、勢至、弥勒や地蔵なども菩薩といわれますが、それら特別な方だけを
「菩薩」というのではないのです。
“幸せになりたい”と今、真実の仏教を求めているならば、あなたもまた
「菩薩」なのです。
うれしいことには喜ぶし、悲しいときは涙する。
食事も取れば、トイレにも行く、風呂にも入る。
老若男女を問わず、国籍も貧富も問わない。

本当の幸せに向かって進む人は、みな「菩薩」なのです。

 

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2009/05/25

仏とは(2)

(前回の続きです)
http://www.shinrankai.net/2009/05/hotoketoh.htm

仏とは、最高のさとりのことだとお話していました。

では何をさとるのかといえば、大宇宙の真理です。
真理といいましても、1+1=2といった数学的真理、
水は高きより低きに流れる科学的真理などありますが、
ここでいう真理とは、すべての人が本当の幸福になれる真理のことです。
「人生は苦なり」と言われますように、科学や医学は随分進歩いたしましたが、
人間の苦しみ悩みは少しも減ってはいません。
昔の電話は一家に一台、外出したら不便でした。今は一人一台、携帯電話を
持ち歩いています。
いつでもどこでも連絡できて便利になったと思う反面、ご承知のように、
携帯が新たな犯罪やいじめの温床にもなって規制や対策が迫られています。
子供が事件に巻き込まれはしないかと心配な親も多いでしょう。
「有れば有ることで苦しみ、無ければ無いことに苦しむ」
と仏教では説かれます。
金や物の有無に関係なく皆、苦しんでいるということです。
その解決の糸口さえ見つからぬまま、最もイヤな死へと向かっているのが、
すべての人ではないでしょうか。
そんなすべての人が、本当の幸福になれる道をさとられた方が、
仏さまなのです。

さとりを開くことを山登りに例えますと、一合目よりも二合目、
二合目よりも三合目と、登れば登るほど、見える景色は広がっていきます。
そして最後、頂上まで登り詰めた時、辺り一面を見渡すことができるよう
になるように、最高無上のさとりである仏覚まで到達した方だけが、
大宇宙の真理すべてを体得することができるのです。
この仏覚を開かれた方を、仏といわれるのであって、死人を仏というのは
大違いであると、お分かりでしょう。
今日まで、仏のさとりを開かれた方は、この地球上では、お釈迦さまただ
お一人です。
これを、

「釈迦の前に仏なし、
 釈迦の後に仏なし」

といわれます。
約二千六百年前、インドに現れられたお釈迦さまが、三十五歳十二月八日に
仏のさとりを開かれてから、八十歳二月十五日にお亡くなりになるまでの
四十五年間、仏として説いていかれたみ教えを、今日、仏教といわれるのです。
その仏教の真髄を明らかにされた方が、浄土真宗の祖師・親鸞聖人です。

 

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2009/05/19

仏とは

浄土真宗親鸞会の常訓は

「我ら親鸞学徒は
  更に珍らしき法をも弘めず
    親鸞聖人のみ教えを 
     我も信じ 
      人にも教え聞かしむるばかりなり」

で、ただ親鸞聖人の教え(浄土真宗)を正確にお伝えするばかり
なのです。
そして、親鸞聖人の教えといっても、

「更に親鸞珍らしき法をも弘めず
   如来の教法を
     我も信じ 
      人にも教え聞かしむるばかりなり」

と言われているように、如来(仏)の教法(教)、
すなわち仏教以外にはないのです。

さて、仏教とは「仏の教え」ということですが、
そもそも「仏」とはなんぞや??

「仏の身元を洗え!」
「これじゃあ、仏も浮かばれねえ」
「となりのお婆さん、とうとう仏になってしもうた」
「こんな綺麗な顔の仏さん、みたことないわ」

いずれも遺体を見ての言葉です。
時代劇でも現代でも、死んだ人のことを「仏」という人が
かなりありますよね。

葬式などでよく、亡くなった人を「仏さま」と言われています。
アカデミー賞受賞で話題の映画『おくりびと』で納棺師という職業が
一般にも知れ渡るようになりました。、
納棺師は東北地方に多いようですが、東北出身の知人が言うには、

「納棺師が仏さまをきれいに棺に入れて、葬式のあと、
 みんなで火葬場に行ってね、『この仏さまは骨格がしっかりしとる』とか
 言いながらお骨を拾って。
 のどぼとけが見つかると、『仏さまが出たぞー』と叫ぶんや……」。

と、やはり亡くなった人のことを仏、仏と言うようです。
しかも「のどぼとけ」まで。
このように、多くの日本人は漠然と、亡くなった人を「仏」だと思っています。
でも、死んだ人を仏さまというのは、何かおかしくないでしょうか?
仏教とは仏の教え、
もし死んだ人が仏なら、
仏教は死人の説いた教えということになってしまいます。
死んだ人が教えを説けるはずがありませんから、
仏=死人ではないことは明らかですよね。

では、仏教で仏とはどのようなことをいうのでしょう?

実は仏とは「最高のさとりを開かれた方」をいうのです。

一口に「さとり」といいましても、低いさとりから高いさとりまで、
五十二の位があり、これを「さとりの五十二位」といわれます。
ちょうど相撲取りでも、下はふんどしかつぎから、上は大関、横綱まで、
いろいろありますように、さとりにも、ピンからキリまで全部で五十二の位があり、
それぞれ名前がついていまるのです。
その最高のさとりの位を「仏のさとり」「仏覚」といいます。
これ以上のさとりはありませんから「無上覚」ともいわれます。
この最高無上の仏というさとりを開かれた方を
「仏」とか「仏さま」といわれるのです。

ちなみに、このさとりの位は、一段違えば人間と虫ほど境界の差がある、
といわれているのですね。
これは大変な違いです。
猫ちゃんと携帯で話しようと思って何度教えても、猫にはちょっと
難しいでしょう。
犬にパソコンの使い方を教える気にはなれないと思います。
人間とは、生きている知恵の世界が全く違うからです。
ましてや十段、十段、二十段と、修行によってさとりを開いていくことは
いかに難しいか。一例を挙げましょう。
選挙になると必ず登場するダルマさん。
あのモデルとなった達磨という人は、インドに生まれ、晩年中国へ渡り、
禅宗の祖となりました。
面壁九年といって、壁に向かって九年間、座禅に打ち込み、
手足が腐って切断したといわれています。
だからダルマさんには手足がない、あんな姿をしているのですね。
両目はギロッとにらんでいますが、怖い感じがしないのは、
こちらをにらんでいる目ではなく、自己の心を凝視しているからです。
しかし、そんな手足腐るほど厳しい修行をした達磨でも、
三十段ぐらいまでしかさとれなかった、といわれています。
また中国天台宗を実質的に開いた天台という人は、
「師は、いずれの位までさとられたのか」
と臨終に弟子の智朗に問われて、
「ただ五品弟子位(九段目)あるのみ」
と告白しています。
一宗一派を開いたほどの人でも、十段に至らなかったのです。
ましてや五十二段目の仏のさとりに達するのは、いかに大変なことか
分かるでしょう。

  《次回に続きます》

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