2010/01/28

特集:7つのポイント(3)体験至上主義の誤り

特集:7つのポイント(3)「体験至上主義」の誤り

おちいりやすい「体験至上主義」の誤りを知っておきましょう☆

浄土真宗 親鸞会 公式|「機相」「信相」の教導に驚く・体験話に迷わされた23年

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2010/01/22

擬似体験の温床

「更に親鸞珍らしき法をも弘めず、 
 如来の教法をわれも信じ
 人にも教え聞かしむるばかりなり」

が、聖人の常の仰せであり、
蓮如上人もまた
「当流に更に沙汰せざる珍しき法門を讃嘆し、
 同じく宗義に無き面白き名目なんどを使う人これ多し。
 以ての外の僻案なり。
 自今已後、固く停止すべきものなり」。

両聖人の戒められる「当流に更に沙汰せざる珍しき法門」
「宗義に無き面白き名目なんどを使う」とは、
各人各様の信仰体験談のことである。同じ体験など毛頭ないからだ。

「私が獲信した時はこうだった」
「ああだった」
「私はこのようにして信心決定した」。

これらの教えの抜けた体験至上主義者は、何時も何処の里にもあるものだ。
人はまた、そんな体験談を異常に好むものである。
そんな処は、寄ると触ると体験話がなされ、擬似体験の犠牲者を次々と
生み出す温床となっている。

だが善知識方は、
「いつ」
「どこで」
「どの知識のもとで」
「どのように」

獲信したなど、どこにも遺されてはいない。決して親鸞学徒の本道を踏み外してはなるまい。

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2010/01/15

仏法に持ち込んだ迷いごと

この「サプリメント」を4ヵ月食べたら、私はこんなに健康になった。
私はこの「薬」を3ヵ月飲んだら、医者から見放された頭痛がウソのように消えた。
この「医療機器」を6ヵ月使ったら、長い間苦しんだ私の腰痛が完治した。
こんな体験談が、新聞広告やテレビ番組などに氾濫している。大衆を飛びつかせるに、生々しい体験談を踊らせるに勝るはないからだ。体験談は生々しいほど良く、より多く聞かせ読ませることが、暗示を与え相乗効果を高める。
こんな火宅無常の世界の、そらごとたわごとの考えを、三世十方を貫く仏法に持ち込んだのが、体験至上主義の誤りの元である。
親鸞聖人も覚如上人、蓮如上人、歴代の善知識方が迷いごとを語られなかった理由は明白だろう。

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2010/01/14

体験至上主義

他力の信心は、阿弥陀仏から賜る唯一絶対の真実信心であるから、
各人各様の人間の三業(さんごう)で表せるようなものではない。
だから、浄土真宗の信心は、そんな機相(三業)では語られていないのである。

ところが、「私はああだった。こうなった」と信心を三業で語る者たちがいる。
体験至上主義ともいわれる彼らの生命線は、そんな体験談なのだ。

彼らに、体験談を話すな、書くなということは、親鸞学徒に、親鸞聖人の教えを説くな、教えるな、というのに等しい衝撃である。
生命を断たれることになるからだ。
これ以上の打撃は、他にあるまい。

体験談 ほかに売り物 さらになし

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2010/01/07

特集:7つのポイント(2)「諸行往生」の誤り

特集:7つのポイント(2)「諸行往生」の誤り

大切な内容です。
繰り返し学ばせていただきましょう☆

浄土真宗 親鸞会・現代に生きる仏説|諸行往生は本願にあらず

親鸞会.NET» » 平生業成の本願

親鸞会.NET» » 弥陀の願心を伝える「善をしなければ信仰は進みませんよ」

親鸞会.NET» » 「善をしてゆけば、そのうちに助かる」は誤り(信心の沙汰・親鸞会)

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2010/01/07

平生業成の本願

 

  
「善をしてゆけば、そのうち助かる」と聞き誤っている者がいる。
「今、助けるという平生業成の教えに反する」と、非難してくる者さえある。
だが親鸞会では常に「平生の一念に助ける」弥陀の本願ばかりが説かれている
のだ。
平生とは現在ただ今。
「今、助ける」本願が常に説き切られているのに、
「善の積み重ねで助かる」とか「そのうち助かる」と聞くのは、とんでもない
聞き誤りではないか。
『歎異抄をひらく』にも「弥陀の救いは『今』である」と明言されている。(p139)
言ってもいないことを言っていると的外れの非難は自損損他にしかなるまい。

如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。もし、多念をもって本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす
(『口伝鈔』)

一念往生、現生不退が阿弥陀仏の救いである。
釈尊も親鸞聖人も、ただこの阿弥陀仏の救いのみを伝えられている。
そのみ教えを「我も信じ、人にも教え聞かしむるばかり」が親鸞学徒だ。
そのうえでなお善を勧める理由を問うならば、それは阿弥陀さまの願心
だから、阿弥陀さまに聞かれるがよかろう。

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2010/01/05

特集:7つのポイント(1)親鸞学徒の本道

特集:親鸞学徒の本道

親鸞学徒の進むべき道は、。親鸞聖人のお言葉を示し、
その意味を懇切に伝える以外にありません。

以下、関連記事です。

繰り返し読ませていただきたいですね。

  
 
 
親鸞会.NET» » 親鸞聖人つねの仰せ
http://www.shinrankai.net/2010/01/7poin.htm

浄土真宗 親鸞会・現代に生きる仏説|親鸞学徒の本道をゆく
http://www.shinrankai.or.jp/b/gendai/20090101hondou.htm

輝く☆親鸞学徒の本道 - 浄土真宗 親鸞会 ★ 朋ちゃんHappy diary♪
http://blog.goo.ne.jp/tomotomota123/e/6de83c5eb452eee536dbe6605f93ee0e

更に珍しき法を弘めず|浄土真宗親鸞会・現代に生きる仏説
http://www.shinrankai.or.jp/b/gendai/20091010.htm

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2010/01/05

親鸞聖人つねの仰せ

「更に親鸞珍らしき法をも弘めず、
 如来の教法をわれも信じ、
 人にも教え聞かしむるばかりなり」 (御文章)

親鸞聖人ほど誹謗中傷・疑謗破滅の的であり続けられ波瀾万丈の方はなかった。その間上記の表明は、生涯を捧げる聖人の最適の表白に違いない。

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2009/11/10

弥陀の願心を伝える「善をしなければ信仰は進みませんよ」

「今日のテーマは、次のような質問にどう答えるか、です。

《三願転入を説き『善をしなければ、信仰は進みませんよ』といえば、
 みな『善が間に合う』と聞く。そんな間違いやすいことを話してはならないのでは》

 三願転入の教えから、『善をしなければ、信仰は進みませんよ』と話していたら
 『そんな間違いやすいことを言うもんじゃない』と言われた。
 そんな時どうしますか?」

「『三願転入が間違いやすいから説くな』と言うなら、親鸞聖人の教えを説くな、
 ということになります。三願転入が親鸞聖人の教えの根基ですからね」

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2009/08/07

お盆を弥陀の浄土で再開を果たす勝縁に

 お盆の季節――。

 親兄弟や愛児、恋人との悲しい別れを経験した人は、故人の在りし日を、しみじみと思い出すことでしょう。

「今ごろあの人は、どこでどうして」

「もう一度会いたい」

 つのる思いは簡単には消えません。

 大切な人の死を悼む気持ちは皆同じです。
 でも、死別はいつも私が残るとは限りません。親しい人の死に接した時、人はやがてわが身に訪れる死を予感し、底知れぬ不安と恐怖を感じます。

「もう再び会えないのだなあ、話もできないのだ」

と、故人のために流す悲しみの涙は、実は、

「自分もいつか必ず、再び帰ってはこられない遠い世界に、たった一人、旅立たねばならないのだなあ」

と、自分のために流す涙でもあるのでしょう。

 家族や友人の無常を、わが身に迫る一大事を見つめる勝縁とすることこそお盆に臨む大切な心掛けでしょう。

 生あるものは必ず死す、といわれるように、有史以前から幾億兆の人類で、死ななかった人は一人もありません。

 蓮如上人は、『御文章』に、

「上は大聖世尊より始めて、下は悪逆の提婆に至るまで、逃れ難きは無常なり」

とおっしゃっています。

 最も偉大なお釈迦さまも、その釈尊の名声をねたみ、命を付け狙った提婆も、死を免れることはできないのです。
 たとえ、宇宙に飛び出しても逃れることはできません。

 そのように死は100パーセント確実な未来と納得しても、とかく遠い先のことと思いがちです。

「死なんてまだまだ先の話。今から考えたってしょうがないよ」

と言う人もありましょうが、果たして、正しい人生観といえるでしょうか。

 タレントのビートたけしさんは、1994年のバイク事故で生死の境をさまよった時、「今までどうしてこんな生き方したんだろう」と猛省し、「人生観の訂正」をせざるをえなかったと告白しています。

「死というのは突如来る暴力なんだね。(中略)準備なんかしなくたっていいと言ってても、結局死というものには無理矢理対応させられるわけだよ。あまりにも一方的に向こうが勝手に来るわけだから。
 (中略)
 死というものの凄さというのは、自分の人生振り返って、何をしたとか何をしてないとかいうのは全然関係ない。そんなことはビタ一文かすんないんだよ」
(『たけしの死ぬための生き方』)

 精神科医であった頼藤和寛氏も、52歳でガンの宣告を受けた時の心境を、著書にこうつづっています。

「これまで平気で歩いてきた道が実は地雷原だったと教えられ、これから先はもっと危ないと注意されたようなものである。
 それでも時間の本性上、退くことはおろか立ち止まることもできない。無理矢理歩かされる。
 次の一歩が命取りなのか、あるいはずいぶん先のほうまで地雷に触れないまま進めるのか。いずれにせよ、生きて地雷原から抜け出ることだけはできない」
(『わたし、ガンです ある精神科医の耐病記』)

 次の一歩で爆発するかもしれない道を、だれもが歩いているのだと訴えています。死はまだまだ先の話ではない。今の問題だと知らされます。
 にもかかわらず、自分が死ぬとは思えないのは、“太陽と死は直視できない“といわれるように、己の死は、直視するにはあまりに過酷だからでしょう。しかし、幾ら目を背けていても解決にはなりません。

 一歩後生へと足を踏みだした時、魂は真っ暗な未来に驚きます。
 お釈迦さまは、これを後生の一大事と言われています。この一大事の解決一つを教えられたのが、真実の仏教なのです。

 釈尊は、一切経の結論として、『大無量寿経』に、

「一向専念無量寿仏(阿弥陀仏)」

と仰せになり、

“後生の一大事の解決は、大宇宙最高の仏である阿弥陀仏の本願力によるしかない。だから、阿弥陀仏一仏に向かい、阿弥陀仏だけを信じよ“

と明言されています。

 蓮如上人も、そのことを『御文章』に、

「これによりて、ただ深く願うべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり、信心決定して参るべきは安養の浄土なりと思うべきなり」

とおっしゃり、阿弥陀如来を信ずるよりほかに、後生の一大事を解決する道は決してないぞ、と明かされています。

 弥陀は、その誓願(お約束)に、

「死後のハッキリしない暗い心を一念で破り、“極楽浄土へ必ず往ける“大安心・大満足の身にしてみせる」

と誓われています。

 この阿弥陀仏の本願を信じ切れた時、この世は生きてよし、死んでよしの無上の幸福に生かされ、死後は、必ず弥陀の浄土へ往生しますから、後生の一大事は完全に解決いたします。
 しかも極楽の蓮台に仏として生まれれば、懐かしい人たちとも再会できるのです。

『阿弥陀経』には、「倶会一処」と説かれています。
弥陀の浄土は、ともに一処に会うことができる世界だからです。

 ただ、ここで、

「真実の信心をえたる人のみ本願の実報土(極楽浄土)によく入ると知るべし」(尊号真像銘文)

と、親鸞聖人が書いておられるように、浄土へ往けるのは、真実の信心、すなわち阿弥陀仏から賜る他力の信心をえている人のみであることをよく心得ていなければならないでしょう。

 蓮如上人も、

「一念の信心定まらん輩は、十人は十人ながら百人は百人ながら、みな浄土に往生すべき事更に疑なし」(御文章)

とおっしゃり、死後、浄土に往生できるのは、一念の信心(他力の信心)を獲得した人だけだぞ、と目釘を刺しておられます。

 かって、「一向専念無量寿仏」をあまりに強調されたため、法然、親鸞両聖人が、神信心の権力者の怒りを買い、流刑に遭われたことがありました。
 法然上人は南国・土佐へ。親鸞聖人は越後へ。旅立ちの前夜、

「お師匠さま。短い間ではございましたが、親鸞、多生の間にも、遇えぬ尊いご縁を頂きました」

と泣き悲しまれる聖人に、法然上人は優しく語りかけられます。

「親鸞よ。そなたは越後か。いずこに行こうと、ご縁のある方々に、弥陀の本願をお伝えしようぞ。くれぐれも達者でな」

「はい、お師匠さま。お師匠さまは南国・土佐へ。遠く離れて西・東。生きて再びお会いすることができましょうか」

 恩師との別れを惜しむ親鸞聖人は、一首の歌をしたためられます。

「会者定離 ありとはかねて 聞きしかど
  昨日今日とは 思わざりけり」

 法然上人は、次の返歌を贈られました。

「別れ路の さのみ嘆くな 法の友
  また遇う国の ありと思えば」

 たとえ今生で再会できなくてもしばしの別れ、嘆くな親鸞よ、再び会える世界(弥陀の浄土)があるのだからとの仰せです。

 ご臨末の近づかれた親鸞聖人も、浄土往生の確信から、

「この身は今は歳きわまりて候えば、定めて先立ちて往生し候わんずれば、浄土にて必ず必ず待ちまいらせ候べし」(末灯鈔)

“親鸞、いよいよ今生の終わりに近づいた。必ず浄土へ往って待っていようぞ。間違いなく来なさいよ“

と明言されています。“必ず浄土で待っているぞ“と、力強くも温かく、末代の私たちに語りかけてくださっているのです。

 真宗の盛んな村に、仏法熱心な夫婦がありました。平生から弥陀の本願を喜ぶ身になっていた夫は、いよいよ臨終が近づいた時、ともに苦楽を乗り越えてきた愛する妻に、こう告げました。

「おまえと一緒になれて、本当によかった。極楽の蓮台で、半座空けて待っているからな」

 妻の目に、熱いものが込み上げたといいます。

 縁あって同じ家に生まれ合わせた家族と、この世限りの縁では寂しい。
 お盆には、親子、夫婦そろって弥陀の本願を聞かせていただき、ともに弥陀の浄土で再会する未来永遠の家族とならせていただきたいものです。

(P)

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