2010/03/31

比較対照『歎異抄をひらく』【3】「急ぎ仏になりて」

前回(『歎異抄』解説書の比較対照《弥陀の本願まことにおわしまさば》)
http://www.shinrankai.net/2009/12/hikak-2.htm

に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。

(原文)
浄土の慈悲というは、念仏して急ぎ仏になりて、
大慈大悲心をもって思うがごとく衆生を利益するをいうべきなり。
(中略)しかれば念仏申すのみぞ、末徹りたる大慈悲心にて候べき

(『歎異抄』四章)

このお言葉をどう説明しているか、
『初めての歎異抄』山崎龍明(※)著の意訳から見てみましょう。

〔※山崎龍明(やまざきりゅみょう)日本の仏教学・真宗学者。
武蔵野女子学院中学校・高等学校宗教科教諭、本願寺教学本部講師、
龍谷大学文学部、駒澤大学仏教学部非常勤講師を経て、武蔵野女子大学
(現・武蔵野大学)文学部日本語・日本文学科教授となる。
のちに同大学仏教文化研究所所長を併任。世界宗教者平和会議(WCRP)
平和研究所副所長。東京都小平市の浄土真宗本願寺派法善寺住職、
同派布教使でもある。特に『歎異抄』が専門。 wikipediaより〕

阿弥陀仏の真実の誓いに導かれてこの人生を生き、迷いを超えて、
めざめの人生を歩むことをめざす他力の教えに生きる者は、
ただひたすら阿弥陀仏の教えを聞き、救われたことへの感謝の
こころから南無阿弥陀仏と称え、私の力ではなく、仏法力(真実力)
によってあらゆる人々に幸せの人生を生きてもらうことを念ずる
のです。(中略)したがって、阿弥陀仏の教えに信順し、念仏を
称えて仏に成り、その仏のはたらきのままに救うことしかできないのです

『歎異抄をひらく』高森先生著の意訳では、どう書かれているでしょうか?
浄土仏教で教える慈悲とは、はやく弥陀の本願に救われ念仏する身となり、
浄土で仏のさとりを開き、大慈悲心を持って思う存分人々を救うことをいうの
である。(中略)されば、弥陀の本願に救われ念仏する身になることのみが、
徹底した大慈悲心なのである

四章の「急ぎ仏になりて」を他の解説本では、文字どおり「急ぎ仏のさとりを開いて」
と解釈して、浄土の慈悲とは「早く仏のさとりを開いて、衆生済度すること」と
理解しています。
山崎龍明氏の解説は、こうです。
浄土門他力の教えでいう慈悲は、
一、念仏して早く仏に成って、大慈悲心のはたらきで思いどおりに衆生を
救うことです。
二、念仏申す(念仏に生きる)ことのみが、徹底した大慈悲心なのです。
私はこの「念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふ」という
言葉がなかなか理解できませんでした。(中略)私は、「いそぎ仏に
成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益する」と
いう世界は、やはり文字どおり「真実の浄土に生まれて直ちに仏となり
自在に苦悩の人々を救う」と理解すべきだろうと考えます。
(山崎龍明『初めての歎異抄』)

その他の解説もあげてみると、
『歎異抄 全講読』安良岡康作(※)著では、こう書かれてありました。

〔※安良岡 康作(やすらおか こうさく)国文学者。
東京学芸大学名誉教授。日本中世文学、国語教育専攻〕
浄土門における慈悲行とはいかなるものか。
それは、第一に、「念仏して、急ぎ仏に成」ることである。
言い換えれば、弥陀の他力に頼って、念仏の行者が、浄土に生れ変り、
成仏することである。鸞はこれを「往相」という。
第二には、その速やかに仏と成った力で以て、現世にもどり、
仏の持つ「大慈大悲心」、即ち、絶大なる慈悲心を以て、「思ふが如く、
衆生を利益する」ことである。親鸞はこれを「還相」と呼んでいる。
(安良岡康作『歎異抄 全講読』)

『誤解された歎異抄』梅原猛(※)著には、次のように書かれています。

〔※梅原 猛(うめはら たけし)哲学者。
京都市立芸術大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授。
京都市名誉市民。文化勲章受章者〕
浄土門の慈悲というのが、還相廻向ということを考えないと理解できないこと
である。念仏して真仏土浄土に往生し、そこで仏となるが、その仏となった
人間は、大乗仏教の利他の精神のゆえに、この世に帰ってくる。そして、
こうして仏になってこの世に帰ってくれば、思う存分衆生を救済することが
できるわけである。
こうして、菩薩としての念仏行者は、無限にこの世とあの世の間を往復して
人間を救うのである。こういう慈悲こそ、浄土門の慈悲であるというのである。
(梅原猛『誤解された歎異抄』)

ですが、もし「浄土の慈悲」が、急いで仏になって衆生済度することであれば、
仏になるのは死んで弥陀の浄土へ往ってからですから、早く死ななければ
「浄土の慈悲」はかなわないことになります。
これでは「死に急がせる」ようなものだと批判する人もあります。
『歎異抄 その批判的考察』石田瑞麿(※)著には、こう書かれてあります。

〔※石田瑞麿(いしだみずまろ)仏教学・日本仏教専攻。文学博士。
東京帝国大学文学部印度哲学梵文学科卒業。
その後、東京大学講師、東海大学教授)〕

「浄土ノ慈悲トイフハ」と述べられる文章には少しく抵抗を感じるものがある。
それは「念仏シテイソキ仏ニナリテ、……」とあることである。
念仏によってこの身のままで仏になるような即身成仏がここに意図されえないかぎり、
「イソキ仏ニナ」るには往生しか道はなく、しかも往生は死後のことである以上、
急ぎ死ぬことが念仏者にとって、慈悲という点からは、望ましいことになる。
いわば、念仏者は死に急ぐことによって、浄土の慈悲を達成できるかのような
表現になっているからである。
(石田瑞麿『歎異抄 その批判的考察』)

このように批判する石田氏は、親鸞聖人が死に急がれた根拠など他のお聖教にも
皆無だから、「念仏して急ぎ仏になりて」というのは唯円の「でっち上げた」
作文であり、「急ぎ」の一語は除くべきだと主張しています。

また『同上』には、

ここには、唯円の文章があると思う。
かれの作文がこんな、親鸞のほかのものには見られない表現をでっち上げたのである。
(中略)したがって、「浄土ノ慈悲トイフハ」で始まり「オモフカコトク衆生ヲ利益
スルヲイフヘキナリ」に終わる文章から「イソキ」の一語を取り除けば、親鸞の思想
とはずれたものではない。 (同上)

「急ぎ仏になりて」は、解説者を悩ませてきたところだということが、よく分かります。
なかには「急ぎ」とは時間的なことではなく、「凡夫のまま」という意味だと曲解する
人もいます。
親鸞仏教センターで、十数人の専門家が五年がかりで著した『現代語 歎異抄』では、
「念仏して、いそぎ仏になりて」を「本願他力のはたらきで、愚かな凡夫がそのまま仏
になること」と解説しているのです。
「仏のさとりを開くのは、浄土に生まれてのことである」と常に教導された親鸞聖人を、全く知らないようです。

また「念仏して急ぎ仏になりて」とは、「念仏」と「諸善」を比較して言われたのだ
という珍解釈まで登場しています。
「念仏して急ぎ仏になりて」は、「念仏して”早く”仏になって」ということですが、
これは「念仏によって、諸善よりも”早く”仏になって」という意味なのだと主張しています。

『歎異抄論註』佐藤正英(※)著では、こう書かれています。

〔※佐藤 正英(さとう まさひで)日本の宗教学者・倫理学者
東京大学文学部名誉教授)〕

「念仏していそぎ仏になりて」は、念仏を称えることによって少しもはやく〈絶対知〉
を得ての意である。(中略)念仏を称えることあるいは自力を捨てることが、
もろもろの善き行為に比べて、少しもはやく〈絶対知〉を得る方途なのである。
(佐藤正英『歎異抄論註』)

「急ぎ仏になりて」は、唯円の「でっち上げ」だとか、「凡夫のまま仏になって」
とか、「諸善より早く仏になって」など、各人各様の解釈がなされてきました。
解説者を悩ませた「急ぎ仏になりて」の真意が、
『歎異抄をひらく』では「急ぎ、仏になれる身になりて」の意であり、
「はやく弥陀の救いに値って」ということだと詳しく解説されています。
「急ぎ仏になりて」を「死に急いで」と理解するのは、明らかに誤りである。
なぜかといえば、誰もが死ねば仏になれるのではない。現在、弥陀の救いに値い、
“仏になれる身”になっている人のみが、浄土に生まれ、そこで仏のさとりを開く、
これが親鸞聖人畢生の教誡であるからだ。
ならば「急ぎ仏になりて」は、「急ぎ、仏になれる身になりて」であり、
「はやく弥陀の救いに値って」の意であることは明白だろう。
思う存分、大慈大悲心をもって衆生を救うのは、浄土で仏のさとりを開いてから
だが、今生で弥陀に救われ”仏になれる身”になれば、

如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし(恩徳讃)
阿弥陀如来の大恩と、その本願を伝え給うた恩師の厚恩は、身を粉に、骨砕きても
済みませぬ。微塵の報謝もできぬ懈怠なわが身に、ただ泣かされるばかりである。

止むにやまれぬ謝恩の熱火に燃やされて、「浄土の慈悲」の真似ごとでもせずに
おれなくなってくるのではなかろうか。
事実、二十九歳、仏になれる身(信心獲得)になられてからの聖人は、
「唯仏恩の深きことを念じて、人倫の嘲りを恥じず」
(教行信証)
と感泣せられ、目を見張る仏恩報謝の生き様には、
“衆生済度は死んでから”など、消極的、退嬰的信仰の片鱗をも見られない。

(『歎異抄をひらく』)

今生で弥陀に救われ「仏になれる身」になった一念から、「浄土の慈悲」の真似ごと
でもせずにおれなくなるのです。
一念の水際も、燃える「恩徳讃」も知らない人は、”衆生済度は死んでから”と決め込ん
でいます。
ですから四章の「急ぎ仏になりて」衆生済度するというお言葉も、
「急いで死んで仏になって」から人々を救う活躍としか読めないのでしょう。
しかし、「死に急いで仏になって衆生済度するのが浄土の慈悲」と言うこともできない
から、無理な講釈が始まるのです。
従来の書と比較すれば、『歎異抄をひらく』の鮮明さが特出していることに驚くこと
でしょう。

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2010/03/26

親鸞会 同朋の里に地中熱利用のF館完成 ~北國新聞にも紹介

親鸞会・同朋の里(富山県射水市)の中心施設となるF館(700名宿泊可)は、環境に配慮した「最先端のエコ館」として完成しました。

F館全体が、暑さ・寒さの外気の影響を受けにくい「魔法瓶」のような設計になっています。窓は高断熱の二重ガラスで、壁や床には断熱材が入れられています。

しかし、幾ら外気を遮断した構造でも、生き物は呼吸なしに生きられないように、建物にも換気が不可欠です。ところが換気をすると、今度は熱気や冷気が入ってきて、断熱効果が奪われてしまいます。

そこで導入されたのが、今、注目を浴びている「地中熱を利用した換気システム(※ジオパワーシステム)」です。

親鸞会の駐車場から親鸞会館に通じる地下道は、夏は涼しく冬は暖かく感じます。それは、地下5mの温度が、年間を通し約15℃に保たれているからです。この原理を利用し、外気を一度地下に通すことで、夏は外気温よりも涼しい空気、冬は温かい空気を館内に送り込むことができるのです。

F館の建設工事に携わった百味館・徳水館(親鸞会 同朋の里内の食堂と入浴施設)の館長は、

「真冬になると、親鸞会館は底冷えしますから、行事日前日から暖房を入れています。しかしF館なら、より短時間で館内が暖まるのです」

と語っています。

「地中熱」は昼夜問わず利用でき、天候・季節にも影響されません。雪深く、天候の変わりやすい北陸にぴったりのシステムです。

しかも、運転費用が少なく、従来のように冷暖房だけを使用した場合と、地中熱利用システムを兼用した場合との経費を比較すると、約2、3割の削減が見込まれます。

また、室内に入ってくる風は、自然の風ですから体にも優しいのです。

これらの利点を最大に生かし、富山県で初めて「地中熱利用の換気システム」を導入したのが同朋の里F館なのです。

時代の先端を行くエコ技術を駆使するのも、より快適な環境で、親鸞学徒が親鸞聖人の教えを語り合い、人生の目的を果たさせていただくほかに目的はありません。

※F館に導入された「ジオパワーシステム」は、季節を通じて安定した温度を保つ地中熱を、地下に埋めたアルミ製パイプを使って冷暖房に生かす仕組みです。親鸞会のF館に地中熱システムが導入されたことが、平成22年3月24日(水)の北國新聞朝刊でも紹介されました。

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2010/03/09

『親鸞閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし』  親鸞会.NET仏教講座

『親鸞閉眼せば賀茂河にいれて魚に与うべし』と云々。
これすなわち、この肉身を軽んじて、仏法の信心を本とすべき由をあらわしまします故なり。
これをもって思うに、いよいよ葬喪を一大事とすべきにあらず。
もっとも停止(ちょうじ)すべし」(改邪鈔:がいじゃしょう)
親鸞聖人は、

「魂の解決のできた者には、死骸はセミの抜け殻じゃ。
 何の用事もない。

 肉体の葬式や墓に力を入れるよりも、
 魂の葬式こそ、急がねばならぬことなのじゃ」

とおっしゃっています。

寿命が延びたといっても、100年そこそこです。

“悠々たるかな天壌”(果てしない歴史を持つ大宇宙)と比べたら、瞬きする間もありません。

滔々(とうとう)と流れる大河に、ポッと現れすぐに壊れる泡のようなものが肉体です。

しかし、そんな泡(肉体)が私ではありません。

過去、現在、未来を貫いて流れる永遠の生命が私であり、

この魂の葬式が果たされたならば、肉体の葬式は問題にならなくなります。

永遠の生命あることを知らず、肉体こそ私そのものと思い込んで、

遺体や遺骨を大事にする迷いの深い私たちに、親鸞聖人は、

「葬式は一大事ではないぞ。

 仏法の信心獲得(しんじんぎゃくとく)こそ急げ」

と、大事なのは“心”の葬式であることを教えてくださっているのです。

 

                                 親鸞会.NET

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2010/03/01

科学の進歩が真実に生かされていると 親鸞会海外ニュース

○親鸞会顕正新聞22年3月1日号より

大学生のJ君が1月末、親鸞会会員となりました。
 昨年11月、私が声をかけてから、J君は勉強会に続けて参加。親鸞会ロサンゼルス会館の親鸞会・テレビ座談会、親鸞会講師マーシュ・アリセのスカイプ会合も皆出席で、「三願転入を教えてください」「名号、信心、念仏の関係も知りたい」など教学的に深い質問をしてきます。高森顕徹先生から直接お聞きしたいと、日本行きの準備を進めているところです。
 昨年末にはS君が親鸞会会員となり、メキシコ人のM君、アメリカ人のB君も親鸞会・テレビ座談会で仏縁を深めています。海の内外のへだてなく、言葉の壁を超え、科学の進歩が真実に生かされていると実感しています。(アメリカ 親鸞会会員Sさん)

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