『歎異抄をひらく』に、「阿弥陀仏の本願の真骨頂」という言葉があります。
この「真骨頂」とはどういう意味か、とテレビ座談会で質問がありました。
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<原文>
弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず、
ただ信心を要とすと知るべし。
そのゆえは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を
助けんがための願にてまします。
<意訳>
弥陀の救いには、老いも若きも善人も悪人も、
一切差別はない。ただ「仏願に疑心あることなし」の信心を肝要と知らねばならぬ。
なぜ悪人でも、本願を信ずるひとつで救われるのかといえば、煩悩の激しい最も罪の
重い極悪人を助けるために建てられたのが、阿弥陀仏の本願の真骨頂だからである。
(『歎異抄をひらく』高森顕徹先生著 37ページ)
仏教の根幹は、因果の道理。
「善因善果 悪因悪果 自因自果」です。
この道理から出てくる結論は、「廃悪修善」。
従って、悪をやめ、善をする人を救うというのが十方諸仏の本願です。
ところが阿弥陀仏は、「善人よりも悪人」の本願を建てておられます。
そのことについて、山本さんの手紙には次のように書かれています。
三世十方の諸仏方が廃悪修善を勧められ、「善人になれば救う」という本願を建てて
おられる中で、阿弥陀仏だけが、諸仏に見捨てられた「悪人を助ける」という、
全く逆のお約束をしておられます。そして、そのお誓いどおりに救ってくださいます。
だから、弥陀は「本師本仏」と尊敬され、
弥陀の本願の「真骨頂」といわれるのだと教えていただきました。
人間社会でも、世間の常識を覆すことを誓い、それを実現させる人は、称賛の的に
なります。
十方の諸仏が逆立ちしてもできなかったことを
阿弥陀仏は誓われ、実現されるのですから、「諸仏の王」とか、「光明の中の極尊なり」
と口をそろえて褒めたたえられるのも、当然だと思います。まさに、「真骨頂」です。
ここで誤解してはならないのは、阿弥陀仏は決して、悪を勧めておられるのではない、
ということです。。
悪しかできない我々を、あわれみたまい、とても見捨てておけない、助けずにおれない
という大慈悲をおこされたのです。
私たちは、どんな悪を毎日造っているでしょうか。
お釈迦さまは、『大無量寿経』に、
「心常念悪 しんじょうねんあく
口常言悪 くじょうごんあく
身常行悪 しんじょうぎょうあく
曽無一善」 ぞうむいちぜん
と説かれました。
心も口も体も悪ばかり行って、いまだかつてまことの善は一つもない、
という意味です。
因果の道理を知らされ、悪を恐れて善に向かうと、悪のやまない、善のできない
自分が知らされます。
生き物を殺したり、ウソをついたり、分かっちゃいるけどやめられないのが
悲しいかな、私たちの姿です。
このように自分の罪悪を見つめることを、仏教の言葉で「罪悪観」といいます。
罪悪観で知らされる悪には、大小、浅深があります。「あの人よりは、マシだ」とか、
「私はまだまだだ」というのがそれです。
また、どれだけ自己の悪を見つめても、
“私はこれだけ反省している”
といううぬぼれがなくならないから、罪悪観は人それぞれです。
それに対して、阿弥陀仏がおっしゃる「悪人」は、「機の深信」です。
弥陀に救われて、ハッキリ知らされる、本当の自分の姿です。
これは、罪悪観の「悪人」とは、本質的に異なります。
罪悪観は相対的なものですから、幾ら深めても、機の深信にはなりません。
また、罪悪観は、この世7、80年の罪悪についてですが、弥陀に救われて知らされる
悪は、無始昿劫(果てしない過去)より造ってきた罪悪です。
善導大師はこれを、
「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫より已来常に没し常に流転して、
出離の縁有る事無し」
と言われています。
弥陀が十八願に、
「唯除五逆 誹謗正法」
と見抜かれた、「金輪際、助かる縁手掛かりのない者」と唯除された極悪人です。
その極悪人を、
「若不生者 不取正覚」
と、必ず助けると弥陀は誓っておられるのです。
「私の本当の姿は、極悪人でありました」
「煩悩熾盛〔ぼんのうしじょう〕(欲や怒りの煩悩が燃え盛っている)の衆生でありました」
とハッキリしたのが、無上仏(阿弥陀仏)が言われる「悪人」です。
どれだけ深く自己を見つめても、
「私は今までも、今も、これからも極悪人でありました」
とは毛頭思えないのが私たちです。
悪を悪とも思えない、しびれ切った心しかない全人類のそんな姿を「極悪人」とおっしゃったのです。
十方諸仏にはできない、無上仏ならではの救いを、親鸞聖人はご和讃でこう教え
られました。
「無明の闇を破するゆえ
智慧光仏となづけたり
一切諸仏三乗衆(いっさいしょぶつさんじょうしゅ)
ともに嘆誉(たんよ)したまえり」
(浄土和讃)
阿弥陀仏だけが無明の闇を破ってくださることに感銘を受けた北川さんの
手紙を紹介しましょう。
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「真骨頂」とは最大の特徴、特徴の中の特徴であり、阿弥陀仏でなければできない
こととお聞きしました。
それは、老少善悪の差別なく、すべての人の苦悩の元凶である無明の闇を破って
みせるという、とてつもないお約束です。
それは大宇宙でも本師本仏の弥陀しかできないことなので、地球上、最高の偉人
である釈迦も、こうべを垂れて合掌なされています。
先ごろ来日した米・オバマ大統領が、記念講演で話した意外な言葉が、
“Amida Buddha”(阿弥陀仏)でした。
オバマ大統領は子供のころ、母親に連れられて鎌倉を訪れたそうです。
通訳では単に「大仏」となっていましたが、英文を確認してみると、
「平和と静謐(せいひつ)の象徴である阿弥陀仏を見上げた」と確かに語っています。
ノーベル平和賞を受賞したオバマ大統領にも、弥陀の本願を伝えたい!胸から胸へ、
人種、民族の差別なく全人類が平等に救われる弥陀の本願をお伝えすれば、戦争を必要
としない、真の平和が訪れることでしょう。
9回にわたって、テレビ座談会の反響を紹介してきましたが、
まだまだ、ほんの一部にすぎません。
何より、直にテレビ座談会のご縁に遇えば、その素晴らしさが知らされる
ことと思います。
※お名前はプライバシーの関係で配慮しています。
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