2010/02/20

やっぱり”方角”が大事でしょ

 
毎朝ラジオ体操の終わりに、「今日も一日頑張りましょう!」と呼びかけられる。

しかし、どこへ向かってか分からず、ただ頑張るだけでは、真の幸福にはなれない。

「人生の目的を知らないで百日生きるより、
 出世の本懐に向かって一日生きるのが、はるかによい」(釈尊)

「どう生きる」ばかりに一生懸命で、
肝心の「なぜ生きる」を知らなければ、人生はむなしいものとなってしまう。

3つの事例を通してみてみよう。

 > 1. 黄金のトンネルからは辿り着けぬ ~海運王と言われた男の悲劇

 > 2.「私の人生は何なのか」の疑問 ~金メダルを幾つとっても満たされぬ心

 > 3.円周率 どこまで覚えれば…… ~ギネス挑戦の果ては?
 
 

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2010/02/20

1.黄金のトンネルからは辿り着けぬ

 
1975年、75歳で世を去った「海運王」アリストテレス・オナシスの遺産は1兆円といわれた。

睡眠3時間で猛烈に働き、20代後半には億万長者に。

「金は道徳よりも強い」

と豪語し、手段を選ばず事業を広げ、財産は小国以上だった。

そのオナシスが晩年にこう語っている。

「私の生涯は、黄金の絨緞を敷き詰めたトンネルの中を走ってきたようなものだ。

 トンネルの向こうには幸せがあると思い、出口を求めて走ったが、
 走れば走るほど、トンネルはまた長く延びていった。

 幸福とは、遠くに見える出口の明かりなのだろう。

 だが黄金のトンネルから、そこにはたどり着けないのかもしれない」
 
 

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2010/02/20

2.「私の人生は何なのか」の疑問

 
水泳界のスーパースター豪州のイアン・ソープ選手は絶頂期の24歳で突如、現役を退いた。

15歳の時、世界選手権400メートル自由形で史上最年少の世界チャンピオンに。

2度のオリンピックで計5個の金メダルを獲得、
世界大会では11回優勝、世界新記録は13回更新している。

称賛のただ中で、青年の胸に去来したものは何だったのか。

インタビューで語っている。

「『水泳がなければ、私の人生は何なのか』という疑問がわいた」(毎日新聞)

 
「何か他のことで自分の存在を証明すべきだ、と思い始めた。

 以前のように泳ぐことで心が満たされることはなくなってきた」(朝日新聞)
 
 

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2010/02/20

3.円周率 どこまで覚えれば……

 
円周率暗記でギネス挑戦を続ける山田太郎さん(仮名)。

通勤の往復3時間を利用し、ごろ合わせを映像化して覚えていく。

46歳でついに15151ケタの暗記に成功し世界記録に。

だがその翌月、わずかの差で抜かれる。

ますます闘志を燃やし、同じ年、2万ケタまで暗記した。

しかしその記録も翌年には破られる。

負けじと新たな方法で磨きをかけ、4万ケタの暗記に成功。

再びギネス認定書を手にすっかりご満悦。

だが、その大記録も数年後、抜かれてしまう。

70代となった彼は今も、上を目指し、日夜戦っている。

ちなみに円周率はスーパーコンピューターでは2兆5000億ケタ以上算出されている。
 
 

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2010/02/19

関係のないお聖教の言葉はない

「あわれあわれ、存命の中にみなみな信心決定あれかしと朝夕思いはんべり」
の悲願で貫かれているお聖教に、信心獲得に関係のないお言葉があるはずがない。
「一切の聖教というも、ただ南無阿弥陀仏の
六字を信ぜしめん(信心獲得)がためなり」
蓮如上人のお言葉である。

 

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2010/02/15

今年3度目の来日でした! 親鸞会海外ニュース

親鸞会顕正新聞より

今年3度目の来日でした!

ブラジル 親鸞会会員Mさん

 親鸞会・50周年に参詣してより、高森顕徹先生からじかにお聞きしたいとの思いが強まり、親鸞会・報恩講を含め、今年3度の来日を果たした。
 最近、「一たび地獄に入りて長苦を受くる時、始めて人中の善知識を憶う」のお言葉が何度も心に浮かぶという。
「臨終に後悔したくない。ブラジルでも親鸞会電話座談会でお聞きできましたが、どうしても親鸞会の会館で聴聞したくて」と語る。日本滞在中、海外の親鸞会会員との交流を深め、国境を超えた法の絆を喜んだ。

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2010/02/14

【特集】テレビ座談会の反響(9) 親鸞会.NET

『歎異抄をひらく』に、「阿弥陀仏の本願の真骨頂」という言葉があります。
この「真骨頂」とはどういう意味か、とテレビ座談会で質問がありました。


<原文>

弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず、
ただ信心を要とすと知るべし。
そのゆえは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を
助けんがための願にてまします。

<意訳>

弥陀の救いには、老いも若きも善人も悪人も、
一切差別はない。ただ「仏願に疑心あることなし」の信心を肝要と知らねばならぬ。
なぜ悪人でも、本願を信ずるひとつで救われるのかといえば、煩悩の激しい最も罪の
重い極悪人を助けるために建てられたのが、阿弥陀仏の本願の真骨頂だからである。

(『歎異抄をひらく』高森顕徹先生著 37ページ)

仏教の根幹は、因果の道理。
「善因善果 悪因悪果 自因自果」です。
この道理から出てくる結論は、「廃悪修善」。
従って、悪をやめ、善をする人を救うというのが十方諸仏の本願です。
ところが阿弥陀仏は、「善人よりも悪人」の本願を建てておられます。
そのことについて、山本さんの手紙には次のように書かれています。

三世十方の諸仏方が廃悪修善を勧められ、「善人になれば救う」という本願を建てて
おられる中で、阿弥陀仏だけが、諸仏に見捨てられた「悪人を助ける」という、
全く逆のお約束をしておられます。そして、そのお誓いどおりに救ってくださいます。
だから、弥陀は「本師本仏」と尊敬され、
弥陀の本願の「真骨頂」といわれるのだと教えていただきました。
人間社会でも、世間の常識を覆すことを誓い、それを実現させる人は、称賛の的に
なります。

十方の諸仏が逆立ちしてもできなかったことを
阿弥陀仏は誓われ、実現されるのですから、「諸仏の王」とか、「光明の中の極尊なり」
と口をそろえて褒めたたえられるのも、当然だと思います。まさに、「真骨頂」です。

ここで誤解してはならないのは、阿弥陀仏は決して、悪を勧めておられるのではない、
ということです。。
悪しかできない我々を、あわれみたまい、とても見捨てておけない、助けずにおれない
という大慈悲をおこされたのです。

私たちは、どんな悪を毎日造っているでしょうか。

お釈迦さまは、『大無量寿経』に、

「心常念悪  しんじょうねんあく
口常言悪  くじょうごんあく
身常行悪  しんじょうぎょうあく
曽無一善」 ぞうむいちぜん

と説かれました。
心も口も体も悪ばかり行って、いまだかつてまことの善は一つもない、
という意味です。

因果の道理を知らされ、悪を恐れて善に向かうと、悪のやまない、善のできない
自分が知らされます。

生き物を殺したり、ウソをついたり、分かっちゃいるけどやめられないのが
悲しいかな、私たちの姿です。
このように自分の罪悪を見つめることを、仏教の言葉で「罪悪観」といいます。
罪悪観で知らされる悪には、大小、浅深があります。「あの人よりは、マシだ」とか、
「私はまだまだだ」というのがそれです。
また、どれだけ自己の悪を見つめても、
“私はこれだけ反省している”
といううぬぼれがなくならないから、罪悪観は人それぞれです。

それに対して、阿弥陀仏がおっしゃる「悪人」は、「機の深信」です。
弥陀に救われて、ハッキリ知らされる、本当の自分の姿です。

これは、罪悪観の「悪人」とは、本質的に異なります。
罪悪観は相対的なものですから、幾ら深めても、機の深信にはなりません。

また、罪悪観は、この世7、80年の罪悪についてですが、弥陀に救われて知らされる
悪は、無始昿劫(果てしない過去)より造ってきた罪悪です。

善導大師はこれを、

「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫より已来常に没し常に流転して、
出離の縁有る事無し」

と言われています。

弥陀が十八願に、

「唯除五逆 誹謗正法」

と見抜かれた、「金輪際、助かる縁手掛かりのない者」と唯除された極悪人です。
その極悪人を、

「若不生者 不取正覚」

と、必ず助けると弥陀は誓っておられるのです。

「私の本当の姿は、極悪人でありました」
「煩悩熾盛〔ぼんのうしじょう〕(欲や怒りの煩悩が燃え盛っている)の衆生でありました」

とハッキリしたのが、無上仏(阿弥陀仏)が言われる「悪人」です。
どれだけ深く自己を見つめても、

「私は今までも、今も、これからも極悪人でありました」

とは毛頭思えないのが私たちです。
悪を悪とも思えない、しびれ切った心しかない全人類のそんな姿を「極悪人」とおっしゃったのです。

十方諸仏にはできない、無上仏ならではの救いを、親鸞聖人はご和讃でこう教え
られました。

「無明の闇を破するゆえ
智慧光仏となづけたり
一切諸仏三乗衆(いっさいしょぶつさんじょうしゅ)
ともに嘆誉(たんよ)したまえり」
(浄土和讃)

阿弥陀仏だけが無明の闇を破ってくださることに感銘を受けた北川さんの
手紙を紹介しましょう。

「真骨頂」とは最大の特徴、特徴の中の特徴であり、阿弥陀仏でなければできない
こととお聞きしました。
それは、老少善悪の差別なく、すべての人の苦悩の元凶である無明の闇を破って
みせるという、とてつもないお約束です。
それは大宇宙でも本師本仏の弥陀しかできないことなので、地球上、最高の偉人
である釈迦も、こうべを垂れて合掌なされています。

先ごろ来日した米・オバマ大統領が、記念講演で話した意外な言葉が、
“Amida Buddha”(阿弥陀仏)でした。
オバマ大統領は子供のころ、母親に連れられて鎌倉を訪れたそうです。
通訳では単に「大仏」となっていましたが、英文を確認してみると、
「平和と静謐(せいひつ)の象徴である阿弥陀仏を見上げた」と確かに語っています。
ノーベル平和賞を受賞したオバマ大統領にも、弥陀の本願を伝えたい!胸から胸へ、
人種、民族の差別なく全人類が平等に救われる弥陀の本願をお伝えすれば、戦争を必要
としない、真の平和が訪れることでしょう。

9回にわたって、テレビ座談会の反響を紹介してきましたが、
まだまだ、ほんの一部にすぎません。

何より、直にテレビ座談会のご縁に遇えば、その素晴らしさが知らされる
ことと思います。

※お名前はプライバシーの関係で配慮しています。

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2010/02/05

他力の世界もっと知りたい 親鸞会海外ニュース

親鸞会顕正新聞より

他力の世界もっと知りたい

アメリカ親鸞会会員 Fさん

「親鸞会ロサンゼルス会館で、何度も高森顕徹先生の親鸞会・講演会をビデオで聞かせていただき、親鸞聖人のお言葉に忠実に、注意深くお話しなさることに感動したんです」
 昨春、大学で声をかけられ、親鸞会で話を聞き始めたFさんはこう語る。
「親鸞会・報恩講で念仏に三とおりあるとお聞きしました。他力の世界をますます知りたくなりました」
 将来は「仏教とのご縁が少ないアメリカ人との懸け橋となる小説を書きたい」と夢を抱く。

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2010/02/04

【特集】テレビ座談会の反響(8) 親鸞会.NET

《親鸞会.NET» » 【特集】テレビ座談会の反響  親鸞会.net》

テレビ座談会で「八識(はっしき)」について学びました。

●「識」とは、「心」のこと。

⑴眼識(げんしき) 色や形を見分ける心。

⑵耳識(にしき)  音を聞き分ける心。

⑶鼻識(びしき)  匂いをかぎ分ける心。

⑷舌識(ぜっしき) 甘、辛、酸など味を分ける心。

⑸身識(しんしき) 寒・暖、痛・快などを感ずる心。

●これらを「前五識(ぜんごしき)」といわれます。

⑹意識(いしき)  前五識を統制し、記憶・判断・思考・命令する心。

⑺末那識(まなしき)執着する心。

⑻阿頼耶識(あらやしき)

三世を貫く永遠の生命。全ての業力をおさめている処だから、
蔵識ともいわれる。
「アラヤ」は「蔵」の意。

※阿頼耶識についてもう少し知られたい方は、コチラ

日ごろ、人間が求めている幸せは、仏教で説かれる「八識」のうち、
「眼・耳・鼻・舌・身」の「前五識」の楽しみです。
これは、どんな幸福感でしょうか。

東さんは高森顕徹先生への手紙にこう書いています。

政治、経済、科学、医学などはすべて、「眼識・耳識・鼻識・舌識・身識」を
喜ばせるためのものだと聞かせていただきました。

「見て、聞いて、嗅いで、食べて、触れて」、
肉体を楽しませる幸せは、やがてシャボン玉のように消えていきます。
きれいな人でも毎日見ていたら何も感じなくなったり、
美しい音楽もずっと聞き続けたら飽きが来るでしょう。

底の見えている楽しみを何とか継続させようと、
皆、努力しているのだと知らされました。

親鸞学徒が問題にするのは、滅びる肉体の楽しみではありません。
一瞬の人生で、「昿劫(こうごう)」「億劫(おっこう)」、何億兆年の魂の
解決をして、「人間に生まれてよかった」という生命の大歓喜を獲ることだと
分かりました。

東さんの言うように、ほとんどの人は、やがて色あせる「前五識」の楽しみを
求めているのではないでしょうか?

中には、「意識」の喜びを求めている人もあります。
金や物がなくても喜びを感ずる哲学者は、意識で楽しんでいる人の典型でしょう。
これも、仏教で教えられる幸福とは、異質の幸せです。

川西さんの手紙にはこう書かれています。

人間のすべての営みは、「前五識」の楽しみの追求であり、高尚な哲学・思想でも、せいぜい「意識」のレベルです。
また、執着を離れ、ひょうひょうとした言動で“高僧”と尊敬され、
生きざまの理想と憧憬される一休や良寛も、同じでしょう。

生命の大歓喜を得て、「恩徳讃」に生き抜かれた親鸞聖人とでは、
全く心の世界が異なることを、「意識」と「阿頼耶識」の違いから知らされました。

如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
骨を砕きても謝すべし  (恩徳讃)

「弥陀と師教の大恩は、身を粉に、骨砕きても足りませぬ。
微塵の報謝もならぬ懈怠なわが身に、寝ても覚めても泣かされる」

江戸時代の禅僧・良寛は、子供と隠れんぼをしていて、日が暮れて子供たちが帰って
しまっても、まだ隠れていたといいます。
愚直で淡々と、一見、欲を離れたかのような生きざまに、
「こんな生き方ができたらなあ」
とあこがれる人もあるでしょう。
しかし良寛に、人界受生の本懐を果たした喜びはあったか。私たちに何を残したか。
親鸞聖人や蓮如上人とは、全く境涯が違うことを学んでいきましょう。

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2010/02/01

【特集】テレビ座談会の反響(7) 親鸞会.NET

【特集】テレビ座談会の反響(6) 親鸞会.NET

山田さんのお手紙も紹介いたしましょう。

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親鸞聖人と、庄松など妙好人との信後の活躍の差は歴然としていますが、
七高僧なら同じではないかという思いがありました。
それが、“救われたら智恵や学問が同じになる”という迷いだと聞かせて
いただきました。

アニメ解説でも、“救われた人はたくさんいるはずなのに、善知識はなぜ、
数百年に一度しか現れないのか”という質問に、同様のことを教えていただいたと
思い出しました。

信心同異の諍論で、「法然上人の上足(高弟)といわれたお弟子でさえ誤った問題なのだ」
との言葉が、重く感じられてなりません。

同じになるのは、無上仏から賜る信心一つです。
智恵、学問、経験などは、因果の道理に順い、一人一人の努力で千差万別異なって
くるのは、信前信後決して変わりません。

仏教の至極「本願成就文」の説かれ方も、親鸞聖人以上の方はおられなかった。
公然と肉食妻帯なされて万人の救われる道を示されたのも、念仏を三通りに分けて
教えられたのも、聖人が最初です。

まさしく親鸞聖人こそ世界の光であることがよく知らされました。
そのうえで私は、“高森先生ほど、人生の目的を明示し、その達成を勧められた方はない”
と思わずにおれません。親鸞聖人の『教行信証』が残されていても、先生に教えて
いただかなければ、その真意は到底知りえませんでした。

稀有の知識との万劫にもない瞬間を生きる身の幸をかみしめ、光に向かって進みたいと
思います。

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※本願成就文についてはコチラをお読み下さい。
浄土真宗 親鸞会|現代に生きる仏説・仏教の至極(最も大切な御文)

「親鸞聖人ほど、人生の目的を明示し、その達成を勧められた方はない」

この【ほど】の二文字に、これだけの内容が収まっているのですね。
座談会で教えていただかねば、もう分からないことでした。

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