2009/10/24

門主の『愚の力』を読んで(自力・疑情・煩悩)

gj094 l 300x225 門主の『愚の力』を読んで(自力・疑情・煩悩)
 

西本願寺24代門主『愚の力』という本を出しました。

帯には

《「悪人」とは何か?
「自力と他力」とは?
そして「愚者」とは?
親鸞の教えの全てがここにある》


と書かれてあります。

この中で、「自力と他力」についてどう書かれているかに
注目してみました。

なぜなら、

○今の真宗においては、専ら自力をすてて
 他力に帰するをもって宗の極致とする。 (改邪鈔)


と言われるように、自力を捨てて、他力に帰する捨自帰他・しゃじきた)
こそが浄土真宗の教えだからです。
さて「愚の力」の中で『自力』という言葉が出てくるのは4箇所だけの
ようです。
【1】

よく知られている「自力と他力」や「悪人」という言葉も
誤解されやすいところがあります。
                          p30

これは、《誤解されやすい》というだけで、『自力』の説明が
書かれているところではありませんね。
【2】

「自力では到底、仏に成ることができない」 p86

ここでも『自力』自体の説明は書かれてないですね。
【3】

従来の仏教の自力聖道門でも、自分ひとりがさとってしまったら
満足して、おしまいということではありません。


                                p105
ここも「自力」という言葉は出てきますが、いわゆる聖道仏教の
ことですから、自力の説明がなされているところではありません。

 

【4】

自力と他力

聖道の慈悲を「自力」、浄土の慈悲を「他力」といってもいいのです

聖道の慈悲は、「ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり」(歎異抄)
ということです。
親が子を大事にするように、ご飯を食べさせ、辛いときは抱きしめ、
病気になったら看病する。
でも上手くいくこともあれば、いかないこともあります。 p181

やっとありました!
ここに一応、『自力』について書かれてあります。
ですから、この本で『自力』について書かれているのは、この一箇所の
ようです。

では『自力』とは何だと書かれているか、いま一度見てみましょう。
《聖道の慈悲を「自力」、浄土の慈悲を「他力」といってもいいのです》
                          
(『愚の力』p181)

ということは『自力』=『聖道の慈悲』ということですね。

では『自力』=『聖道の慈悲』とは何か?
《聖道の慈悲は、「ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり」(歎異抄)
ということです。
親が子を大事にするように、ご飯を食べさせ、辛いときは抱きしめ、
病気になったら看病する。
でも上手くいくこともあれば、いかないこともあります》 p181

えーっ、これが『自力』なのでしょうか?

《 親が子を大事にするように、ご飯を食べさせ、辛いときは抱きしめ、
  病気になったら看病する》


ことはとても大事なことだと思うのですが、これは親鸞聖人が《捨てよ》
といわれた『自力』だとすれば、看病しちゃいけないの??

そういう疑問を抱きつつ、先を読みますと

《慈悲に「聖道・浄土のかはりめあり」といいます。
「かはりめ」(違い)というのは、どちらかを選択するということでは
ありません。
どちらも慈悲であり、ただその行き着くところが違うのです》

と書かれてあり、どうも捨てねばならないものとは違うようです。
どうも、この本では捨てものといわれる『自力』について理解することが
出来ませんでした。

そしてあらたな関心が出てきました
この本には『苦悩の本』についてはハッキリ書かれてあったのです!
どう書かれてあるか、見てみましょう。
「苦の原因が、私たちの無知や欲望や執着、すなわち煩悩にある」 p166

「苦の原因を煩悩であると明らかにして」p168

「苦しみの原因が人間の欲望や煩悩にある」 p173
ズバリ書かれてますね、苦の原因は『煩悩』であると!
本当に『煩悩』が苦しみの本なのでしょうか?

 

正信偈には

『決するに、疑情をもって所止となす』

『疑情』一つが苦しみの根元と書かれてあります。
「決するに」「所止となす」は断言です。
和讃にも

『流転輪廻の際なきは、疑情のさわりにしくぞなき』

迷い苦しみの根元は『疑情』と書かれています。

 

『愚の力』では、『自力』『煩悩』『疑情』はどのような
関係と書いているのでしょう?
『疑情』について書かれていると思える箇所がありました。
「真剣に教えを究めた方は、阿弥陀如来を疑う、救いを疑うのが
 罪悪であると言います。
 それに比べれば、世俗の罪など何の問題にもならないと言った
 人もいました」
                                  p72


なるほど、「阿弥陀仏の本願を疑う心」を『疑情』といいます
から、この文章は疑情のことでしょうが、自分で断言するのが、
よほど嫌なのか「と言った人もいました」と、まるで他人事。
ところが、その後に、次のような文章があります。
「罪悪は私において根源的であり、取り除いたり直したりなど
 することができない
のです」 p74

うーん、ということは、『疑情』はなくならないということでしょうか?
どうも『自力』も『疑情』も死ぬまでなくならないようです、
この本によると。
結局、親鸞聖人の教えで最も重要と言ってもいい『自力』と『煩悩』と『疑情』の
違い、関係がまったく分かりませんでした。
なんとなく、同じ意味で扱われているような文調なのですが、違うの
でしょうか??

○今の真宗においては、専ら自力をすてて
 他力に帰するをもって宗の極致とする。 (改邪鈔)


と言われるように、非常に重要なところだけに、どう書かれているか、
大変注目していたのですが、
ただ大きな「?」が残ってしまいました。。。

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