2009/09/03

三木清(4)《歎異抄に魅せられた人々》

『教行信証』は思索(しさく)と体験とが渾然(こんぜん)として一体をなした
稀有(けう)の書である。
それはその根柢に深く抒情(じょじょう)を湛(たた)えた芸術作品でさえある。
実に親鸞のどの著述に接しても我々を先ず打つものは
その抒情の不思議な魅力であり、そしてこれは彼の豊かな体験の深みから
溢(あふ)れ出たものにほかならない。

しかしながら、親鸞の宗教をたんに「体験の宗教」と考えるのは誤りである。
宗教をたんに体験のことと考えることは、宗教を主観化してしまうことである。
宗教はたんなる体験の問題ではなく、真理の問題である。

(三木清『親鸞』)

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2009/09/02

三木清(3)《歎異抄に魅せられた人々》

『ぼくは親鸞の信仰によって死ぬだろう』と言った。

私はほんとうにびっくりした。
合理主義の理論家三木が、私の抵抗しつづけてきた、あの地獄極楽の浄土真宗の
信仰によって死ぬなんて!」

「三木清や戸坂潤が獄死したことを配給所にあった古新聞によって知った。

私には、獄中で念仏をとなえながら息を引きとる三木清の姿は想像しにくかった。
しかし、三木清は、たしかに親鸞の信仰によって死んだ。

彼は未完ではあるが、彼らしい見事な『親鸞』を書きのこして逝ったのである」

(本多顕彰『歎異抄入門』)

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2009/09/01

三木清(2)《歎異抄に魅せられた人々》

後には主として西洋哲学を研究するようになった関係からキリスト教の文献を読む
機会が多く、それにも十分に関心がもてるのであるが、私の落ち着いてゆくところは
結局浄土真宗であろうと思う。
高等学校時代に初めて見て特に深い感銘を受けたのは『歎異鈔』であった

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