2009/03/24
「なぜ生きる」の答えを知りたい
私は23年前、三人兄弟の末っ子として生まれました。
兄弟の中で特に両親からの愛情を受け、何不自由なく育ちました。
小さいころから運動はあまり好きではなかったのですが、バスケットボールだけは別でした。
中学校ではバスケ部に入り、ますますその魅力に引かれて中学3年の最後の大会ではついに
レギュラーになることができました。
ところがその大会で大きな後悔を残す結果となり、大好きなバスケでこんな悔いを残したまま終わりたくない、という思いから、高校でもバスケを続けました。
毎日練習に励み、みんなが帰ったあとも一人残って練習をすることもたびたびでした。
そんな部活に明け暮れる高校生活でしたが、いつからかこんなことを考えるようになりました。
「幸せというものは不幸と隣り合わせにあるのではないか?」
なぜなら家族や友人、恋人などは大事にすればするほど、それを失うことへの不安や失った時の悲しみが大きくなると思ったからです。
もし将来子供ができたとすれば、その子は自分にとっていちばん大事なものになるだろう。しかし、その子が自分より早く死んでしまうことがないとはいえないし、自分がどれだけその子を愛しても、自分を愛してくれるとは限らない。
その子が大事であればあるほど、また大事だからこそ失ったり、裏切られた時の悲しみは大きくなってしまう。
いちばん大切なものを手に入れたその時から、いちばんの不幸が隣り合わせになる。
もしこれが正しいなら、大事なものを求めることにどれだけの価値があるのだろうか。
そう考えるようになりました。
そして、いろいろ考えて出した結論は、自分の人生が幸せだったかどうかは死ぬまで決まらない、ということでした。
かりに、死ぬ直前まで幸せに思えたとしても、死ぬ時に、いちばん大事にしていたものに裏切られてしまえば、その人生はいちばん不幸なものとなってしまう。
考えれば考えるほど気持ちは暗くなり、不安も大きくなっていきました。
そしてこの不安が大きくなるにつれ、終わりがあるならなぜ始まるのか、いつか死ななければならないならなぜ生まれたのか、こんな人生なら、なぜ人間に生まれてこなければならなかったのか、という疑問が大きくなっていきました。
そんな思いを抱えながら時は流れ、受験生となった私は、センター試験まではがむしゃらに頑張れましたが、その後は燃え尽きたように無気力になってしまったのです。
勉強が手につかず、結果は不合格。浪人生活が始まりました。
予備校に通い、今度は志望の大学に合格することができました。
しかし、待っていたのは、毎日同じことの繰り返し。
大学に入学して3カ月たつころには、予備校時代に抱いていた目標も漠然となり、ただ時間だけが過ぎていきました。
そんな大学生活のある冬の日のこと、ふとしたことをきっかけに、親鸞聖人の教えを聞くようになったのです。
「あなたにとって生きる目的って何ですか?」
との問いに、私は、それまで目標としてきたことを答えようと思いましたが、答えに詰まりました。なぜなら、それは人生のその時、その時における自分の夢であり、目標であって、これ一つ果たしたら悔いなしと言える生きる目的ではない、と思ったからです。
「何のために生きているのか」
その「なぜ生きる」の答えを知りたい。
これが、私自身の仏教を聞く原動力です。
ハッキリと分かるところまで、続けて聞いていきたいと思います。
(新潟県 男性 学生)
(P)
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