2010/01/22
擬似体験の温床
「更に親鸞珍らしき法をも弘めず、
如来の教法をわれも信じ
人にも教え聞かしむるばかりなり」
が、聖人の常の仰せであり、
蓮如上人もまた
「当流に更に沙汰せざる珍しき法門を讃嘆し、
同じく宗義に無き面白き名目なんどを使う人これ多し。
以ての外の僻案なり。
自今已後、固く停止すべきものなり」。
両聖人の戒められる「当流に更に沙汰せざる珍しき法門」
「宗義に無き面白き名目なんどを使う」とは、
各人各様の信仰体験談のことである。同じ体験など毛頭ないからだ。
「私が獲信した時はこうだった」
「ああだった」
「私はこのようにして信心決定した」。
これらの教えの抜けた体験至上主義者は、何時も何処の里にもあるものだ。
人はまた、そんな体験談を異常に好むものである。
そんな処は、寄ると触ると体験話がなされ、擬似体験の犠牲者を次々と
生み出す温床となっている。
だが善知識方は、
「いつ」
「どこで」
「どの知識のもとで」
「どのように」
獲信したなど、どこにも遺されてはいない。決して親鸞学徒の本道を踏み外してはなるまい。
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