2009/12/15

「善をしてゆけば、そのうちに助かる」は誤り(信心の沙汰・親鸞会)

 
講師

今日は、次のような疑問について、話し合いたいと思います。

「善をしてゆけば、信仰が進んでゆく、そのうちに助かる、というのは、
『今、助ける』という平生業成の教えに反する、善慧房の教えではないか」
皆さんなら、どう答えますか。

 
学徒

「それは、だれが言っていることですか」と聞きます。
 
 
学徒

「三願転入の教え」から善を勧められますが、「善をすれば助かる」とは、親鸞聖人は
おっしゃっていませんし、親鸞会で「善をすれば助かる」なんて、聞いたことありません。
 
 
学徒

親鸞会がこのように話しているとでも思っているのでしょうか?
とんでもない聞き誤りですね。
 
 
学徒

阿弥陀仏は十九願で善を勧めておられますが、それは、善が救われる条件なのではなく、
本心を誓われた十八願の無条件の救済にあわせるための方便でしょう。
 
 
講師

善を勧めておられるのは、阿弥陀仏の御心です。
しかし、自分のやった善が間に合って助かるのではありません。
善慧房証空はここを間違えたのです。こういう誤りを、何といいますか。
 
 
学徒

「諸行往生」です。
 
 
講師

そうですね。「諸行」とは、善。
私たちのやった善で救われるのでは決してありません。
ところがこの人は、善が勧められるのを聞いて、親鸞会が「善によって助かる」と言っていると
誤解しているのです。
「諸行往生は親鸞聖人の教えではありませんよ」と話している親鸞会に、
「善慧房の教えじゃないか」と言っているのですから、大変な誤解ですね。
 
 
学徒

自分の聞き誤りを根拠にして、親鸞会を非難しているのですから、
あきれたものですね。
 
 
学徒

最近、あちこちでそんな非難がありますよ。
 
 
学徒

いつの世も「よく聞くこともまた難し」ですから。
それにしても、あまりにトンチンカン。
 
 
講師

では、阿弥陀仏が善を勧めておられる御心を、親鸞聖人はどのように教えられていますか。
 
 
学徒

「方便」と言われています。
 
 
講師

そうですね。
「矛盾か、仏意は」という言葉があります。

「修善の絶対できぬ逆謗の屍が十方衆生と見ぬいて、
 十八願を建立なされた阿弥陀仏が、
 その真実の十八願に入れるために、
 なぜ十方衆生に修善を勧められる十九願を建立なされたのか。
 矛盾か、仏意は」

十八願へ転入させるためのご方便として、阿弥陀仏が十九願で善を勧められているのです。
 
 
学徒

「今、助ける」という平生業成の誓いは、十八願のことです。
その世界に出させるための善の勧めだと知らないから、
この人は、善を勧めることが間違いだと思っているのだと思います。

学徒

「平生業成だから、方便なんかなくても、すぐに助けてもらえる」
というような気持ちだから、出てくる非難ではないでしょうか。

学徒

「三願転入」の否定ですね。十八願だけでいいと思っているのでしょう。
全く阿弥陀仏の願心が分かってないんです。

学徒

三願ともに「十方衆生」と誓われているのですからね。

学徒

自分は、十九、二十願は関係ないとでも思っているのでしょうか。

学徒

方便を通らずして、誰一人、真実へは入れませんよね。
仮(け)よりしか真に入れず、従仮入真(じゅうけにゅうしん)ですよ。

   *          *           *

「蓮如上人仰せられ候、『方便を悪しということは有る間敷なり。
 方便を以って真実を顕わす廃立の義、よくよく知るべし。
 弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をば獲ることなる』由、
 仰せられ候と云々」

                蓮如上人『御一代記聞書』177

   *          *           *

 

◆救われるのはいつか◆

学徒

「そのうちに助かる」というところも、おかしいと思います。

学徒

「善をしなければ信仰は進みませんよ」と教えていただきますので、
「善をしていけば信仰が進み、やがて助かるようになる」
と聞き誤りやすいのだと思います。
善をするには時間がかかるし、
「やっぱり今すぐには助からない。平生業成ではないじゃないか」
という誤解ではないでしょうか。

講師

そうですね。「そのうちに助かる」は、弥陀の本願ではありません。
では、無上仏(阿弥陀仏)は、いつ助けると約束なされていますか。

全員

一念です。

講師

弥陀がなぜ、一念で救うという誓いを建立なされたか、覚如上人の『口伝鈔』から
教えていただきましょう。
如来の大悲、短命の根機を本としたまえり。
もし、多念をもって本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、
いかでか本願に乗ずべきや。
されば真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす(『口伝鈔』)

“弥陀の悲願は徹底しているから、一刹那に臨終の迫っている、
最悪の人を眼目とされている。
もしあと一秒しか命のない人に、三秒かかるようでは救えない。
一念の救いこそが、弥陀の本願(誓願)の主眼であり、本領なのだ”
いかに一念の救い(一念往生)を親鸞聖人は強調されたか。
「真宗の肝要、一念往生をもって、淵源とす」
とまで言われている。「肝要」も「淵源」も、これ以上重い表現は
ないからである。(『なぜ生きる』342ページ)

講師

ここで、「肝要」とはどういう意味ですか。

学徒

「要の中の要」です。

講師

「淵源」は?

学徒

最も大事なところ、ですか。

講師

そうです。
それを『なぜ生きる』では、
「主眼であり、本領なのだ」
と書かれています。
一念の救いは、弥陀の誓願にしかないことであり、弥陀のすごい狙いだ
ということです。

弥陀の救いは一念であると、このように明示されているのに、
どこをどう聞き間違ったのか、
「親鸞会は、そのうちに助かる、と言っている」と、聞き誤っているのです。
『顕正新聞』10月15日号にも書かれていたので、読んでみたいと思います。

 

●平生業成の本願●

「善をしてゆけば、そのうち助かる」と聞き誤っている者がいる。
「今、助けるという平生業成の教えに反する」と、非難してくる者さえある。
だが二千畳では常に「平生の一念に助ける」弥陀の本願ばかりが説かれているのだ。
平生とは現在ただ今。
「今、助ける」本願が常に説き切られているのに、「善の積み重ねで助かる」
とか「そのうち助かる」と聞くのは、とんでもない聞き誤りではないか。
『歎異抄をひらく』にも「弥陀の救いは『今』である」と明言されている。
言ってもいないことを言っていると的外れの非難は自損損他にしかなるまい。
一念往生、現生不退が阿弥陀仏の救いである。
釈尊も親鸞聖人も、ただこの阿弥陀仏の救いのみを伝えられている。
そのみ教えを「我も信じ、人にも教え聞かしむるばかり」が親鸞学徒だ。
そのうえでなお善を勧める理由を問うならば、それは阿弥陀さまの願心だから、
阿弥陀さまに聞かれるがよかろう。

◆私にも同じ心がある◆

学徒

すみません、先ほどからお聞きしていて、私にも、こうやって聞いていれば
そのうちに一念がやってきて助かる、という気持ちがあるように思います。

講師

いいところに気づきましたね。
二千畳にも毎月参詣している、信心の沙汰に参加している、こうやって一生懸命
やっていれば、そのうち阿弥陀さまが助けてくださるだろうという心ですね。
「そのうち」って、いつですか。

学徒

死ぬまでのいつか……。

講師

今日は無理?じゃあ、明日?明日も無理だったら?

学徒

「そのうち」や。

学徒

そうすると、私にも同じ心があると思えてきました。

講師

明日もその次の日もダメで、まだまだ1年以内は無理だろう。
2、3年でも厳しいのではないか。となると、結局……。

学徒

死ぬまで助からんのじゃなかろうかと思います。

講師

そうしたら、死んだら助かるだろうかと思いますよね。
「死んだらお助け」と言っていた善慧房と同じになってしまいます。
今日は無理だと思っても、今晩死ぬかもしれませんよ。そうしたら、どうしますか。

学徒

「死んだら何とか……」と望みをつなげることになります。

学徒

「今」以外は、「そのうち」なんですね。

学徒

病気になれば、無常を感じて、少しは慌てるかも。

学徒

そりゃあ、わしもそう思っとる。

学徒

そういう善慧房と同じような心が、自分の中にウヨウヨしているんですね。

講師

「今、ここ一つ聞き抜く」という心でないと、いつまでたっても、
「そのうち、そのうち」と聞き流しているわけです。
これは、「今、助ける」という弥陀の本願に反する。
そういう迷いの心を捨てなければなりません。

学徒

私も、「今日や明日には死なん。まだまだ聞いておれるだろう」という気持ち
だから、結局、「そのうちに助かる」という思いになるのだと思います。
自分が「いのち一刹那につづまる無常迅速の機」だと思っていないから、
「今、助ける」本願に、命懸けになれないのかなって。

学徒

今夜にも死ぬかどうか分からぬ無常を知らされたら、三願転入、
一念往生の弥陀の救いに向かって真剣にならずにおれないのではないでしょうか。

学徒

蓮如上人はそれを、
「これにつけても、人間は老少不定と聞く時は、急ぎいかなる功徳・善根をも修し、
いかなる菩提・涅槃をも願うべき事なり」
とおっしゃっているのですね。

学徒

「三願転入」は、時間の長短ではありませんからね。

学徒

「善をしなければ信仰は進みませんよ」と言うのと、
「善をしなければ助かりません」との違いが、分かりにくいのですが……。

学徒

「善をしなければ助からない」と言うと、私たちがやった善が間に合って
助かるということだから、これは間違いです。
「善をしなければ信仰は進まない」とは、従仮入真、三願転入の弥陀の願心から
言われることです。
この2つは全く違います。

学徒

聴聞も法施も私はできていないことが多く、もう少し聴聞して、法施もできるよう
になれば、信仰が進んで助かるんじゃないかと思ってしまいます。

学徒

「あの人よりは、こうやって善をしているのだから、その分、早く助かるんじゃ
なかろうか」と思いますよね。

学徒

「どんな極悪人でも、今、助ける」本願だと、なかなか思えない。

学徒

お聞きしていて、「善をしていけば信仰が進み、そのうち助かる」という迷いは、
私の心にもあるんだなぁと知らされました。
結局、平生の一念に助けるとはどういうことなのか、分からなくなる。

講師

「もっと善をすれば、信仰が進んで、後生の一大事何とかなるだろう」という心を
何といいますか。

全員

「自力の心」です。

講師

「何とかすれば何とかなれる」というのは、自力の心です。
救われた時とは、その心が弥陀の不可思議な願力によって浄尽した一念です。
「そのうちに助かる」という間違った心が、一念ですたるのです。

南無阿弥陀仏を聞信(もんしん)した一念に、自力がすたって、
仏智満入(ぶっちまんにゅう)、ああ、自力は一切間に合わなかった、
名号のひとりばたらきであったなあと知らされます。

*   *

講師

今日の信心の沙汰をまとめてみましょう。
親鸞聖人の教えは、「善をしてゆけば、そのうちに助かる」ではありません。
高森先生は、そんなことを一度もおっしゃったことがない。
それを、そう言っていると言うのは、とんでもない聞きぞこないです。

しかし、救われるまでは、こういう心がある。
その心を正して、「この一座しかない」という思いで、聞法していかなければ
なりません。

弥陀の救いは「聞其名号 信心歓喜」の一念です。

学徒

こういう疑問を縁に、自分の心はどうかと見つめなければならないですね。

講師

そうです。
すべて勝縁にしていかねばならないですよ。
自分にも同じ心があれば、本願を正しく聞けていないのです。
聴聞しているけれども、誤って聞いている。
その聞き誤りを正していかなければなりません。

阿弥陀仏の平生業成の誓いを「そのうち」と聞き誤っては
絶対になりません。

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2009/12/07

『歎異抄』解説書の比較対照【2】《弥陀の本願まことにおわしまさば》

前回(『歎異抄』解説書の比較対照《ただ念仏して》
http://www.shinrankai.net/2009/10/hikak.htm 親鸞会.NET)

に引き続き、『歎異抄』解説書の比較をしてみましょう。

◆「弥陀の本願まことにおわしまさば」の誤解◆

〔原文〕

弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。
仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。
(『歎異抄』二章)

このお言葉をどう説明しているか、

『初めての歎異抄』山崎龍明著の意訳から見てみましょう。
あらゆる人間を救おうという、阿弥陀仏の誓いが本物であるならば、
この教えを説かれた釈尊の教えが、嘘であろうはずがありません。
釈尊の教えがほんとうならば、中国・浄土教の大成者といわれる
善導大師(613~81)の説いた阿弥陀仏の教えが嘘であるわけがありません。

『歎異抄をひらく』高森顕徹先生著の意訳では、どう書かれているでしょう?

弥陀の本願がまことだから、唯その本願を説かれた、釈尊の教えにウソがあるはず
はない。
釈迦の説法がまことならば、そのまま説かれた、善導大師の御釈に偽りがあるはず
がなかろう。

『歎異抄』二章の「弥陀の本願まことにおわしまさば」を、
「本願が、まことであるとするならば」と領解する人が意外に多くあります。
山崎氏をはじめ、ほとんどの解説書がそのように解釈しています。

ですがこの章は、弥陀の誓願に疑いが生じた関東の同行が、
「直に本当のところをお聞きしたい」と、京都にまします聖人を命として、
決死の覚悟で訪ねた時におっしゃったお言葉である。
本願まことかどうかを聞きに来た人に、「まことであるとすれば」では何の解答にも
ならないから、倉田百三は「驚き入った非論理」と評している。

『法然と親鸞の信仰』倉田百三著の解説には、こう書かれています。

中学生にでも解るように、これは論理上には、証明にも何にもなっていない。
「弥陀の本願がまことにおわします」ことを証明しなければならない場合に、
「おわしまさば」という仮説を初めに持って来るとは驚き入った非論理である。
しかし此処が「信」の世界なのだ。

(倉田百三『法然と親鸞の信仰』)

「しかし此処が『信』の世界なのだ」と説明されても、はぐらかされた思いにしか
ならないでしょう。
ここは、なぜ聖人がこんな表現をされたのか、解説に苦心されてきた所です。
関東の同行の問いがあまりにも見当外れだったために、「本来、親鸞にはありえない」
仮定的表現で語られただけ、と理由づけする人もいます。

例えば、

『歎異抄 その批判的考察』石田瑞麿著では、こう解説されています。

「マコトニオハシマサハ」という仮定的表現は親鸞のどこをつっついたら出てくるのか、
考えてみてほしい。親鸞においては、「本願」が「マコト」であるかどうか疑問視され
たり、「マコト」と一応、仮定してみたりできる余地は本来、寸毫もない。
(中略)「弥陀ノ本願マコトニオハシマサハ」という仮定は、本来、親鸞にはありえない
ことがわかる。
それが、ここでこんな形で語られたのは、遠来の人たちの問いが余りにも見当はずれな
ものだったことによる。(石田瑞麿『歎異抄 その批判的考察』)
『歎異抄』だけは、相手に応じて、本来ありえない表現がなされたというのでは、
取ってつけたような解説です。
従来の解釈は訂正されるべきと主張する倫理学者もいますが、その説明は
「……であろう」という私見にすぎず、しかも文章は哲学的で理解しがたいものに
なっているのです。

『歎異抄論註』佐藤正英著の解説は、以下のとおりです。

「弥陀の本願まことにおはしまさば」の「ば」に、疑問あるいは仮説の意を含ませて
解したのでは文意が死んでしまう。
従来の解釈は訂されねばならない。(中略)だが、なぜ平叙文ではなく
「おはしまさば、……」あるいは「ならば、……」という仮定的な言い廻しが用いられ
ているのだろう。
親鸞は、阿弥陀仏の誓願が<真にして実なる>ものであることを己れの<知>において
捉えているわけではない。
<信>を抱いているにすぎない。

いいかえれば己れの<信>においてのみ阿弥陀仏の誓願は<真にして実なる>もの
として現前している。
その<信>の地平を明示せんがためであろう。
また、「草枕旅行く……」の歌と同様に、仮定的に語ることによって己れの<信>の
強固さを確かめ、詠いあげんがためであろう。
(佐藤正英『歎異抄論註』)

この『歎異抄論註』の著者は序文で、自分が試みたのは
「さまざまな読みかたのひとつ」と断っているから、自説の展開に躊躇はないのでしょう。
その序文では加えて、「『歎異抄』はわからないことが多い。異様なまでに多い」とも
告白しています。
そんな人から聞いて、何が分かるのでしょう。
解説者がこんな状態ならば、おびただしい研究書があっても、『歎異抄』は依然として
謎に包まれています。
その真意の解明は、聖人のお言葉によるしかありません。
第二章の「まことにおわしまさば」を「まことであるとするならば」と読むのは、
親鸞聖人の信心とかけ離れています。
「弥陀の本願まこと」が、常に聖人の原点だったからです。
それを『歎異抄をひらく』では、聖人のお言葉を根拠に、次のように教えられています。

■『歎異抄をひらく』189~191ページ

だが親鸞聖人には、弥陀の本願以外、この世にまことはなかったのだ。

誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法(教行信証)
まことだった、まことだった。弥陀の本願まことだった。

の大歓声や、

煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実ある
ことなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします
(歎異抄)

火宅のような不安な世界に住む、煩悩にまみれた人間の総ては、そらごと、たわごとで
あり、まことは一つもない。ただ弥陀の本願念仏のみがまことなのだ。

『歎異抄』の「念仏のみぞまこと」は、「弥陀の本願念仏のみぞまこと」の簡略である。聖人の「本願まことの信念」は明白であろう。
親鸞聖人の著作はどこも、「弥陀の本願まこと」の讃嘆で満ちている。
「弥陀の本願まこと」が、常に聖人の原点であったのだ。その聖人が、
仮定で「本願」を語られるはずがなかろう。
「弥陀の本願まことにおわしまさば」は、「弥陀の本願まことだから」の断定にほか
ならない。

冒頭で引用した山崎龍明氏は、「仮定」と読んだ理由を、ここは親鸞聖人が
「やや遠慮がち」におっしゃった所だと、苦しい解説をしている。
だが聖人自作のお聖教によれば、「断定」であることは明らかだ。
「遠慮がち」どころか、「弥陀の本願まことだった」と、幾ら言っても言い足り
ないのが他力信心なのである。
※参考

「弥陀の本願まことにおわしまさば」
マンガ:『歎異抄をひらく』の衝撃度 浄土真宗親鸞会公式HP
http://www.shinrankai.or.jp/b/tannisyou/hiraku-comic05.htm

親 鸞会.NET» » 『歎異抄』解説書の比較対照【1】《ただ念仏して》
親 鸞会.NET» » 『歎異抄』解説書の比較対照【2】《弥陀の本願まことにおわしまさば》
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親鸞会.NET» » 『歎異抄』解説書の比較対照【10-2】《『弥陀の救い「無碍の一道」とは 親鸞会.NET》)

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2009/12/01

「地球の反対側と思えない」 世界の親鸞会

 

「地球の反対側と思えない」
初の親鸞会電話座談会(10/27)

 

親鸞会電話座談会は、ブラジルでも同時中継され、感激の声がたくさん寄せられた。その一部を紹介しよう。

■親鸞会会員 Mさん
 まるで先生が前にいらっしゃるようで、頭を下げておりましたが、ふと黒板を見上げ、あっそうだ、私は今、サンパウロにいるのだと気づきました。
『教学聖典』の「罪の有る無しの沙汰をせんよりは」の蓮如上人のお言葉は、お聞きしたいと、ずっと念願していたことです。お答えいただき、跳び上がるほど喜びに満たされました。

■親鸞会会員 Wさん
 ハッキリ、スッキリ聞こえ、地球の反対側からと思えないほどでした。私たちの後生を心配くださる御心におこたえできるよう、ひたすら光に向かいます。

■親鸞会会員 Iさん
 ブラジルで初の電話座談会に参加できました。最新技術で、先生の生のご説法を聞かせていただけるとは、まさに阿弥陀仏からの尊い賜りものです。本当にありがとうございます。

○親鸞会顕正新聞21年12月1日号より

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