2010/05/14
後生の一大事について(1) 親鸞会.NET仏教講座
親鸞会.NET仏教講座「後生の一大事について(1)
●仏教の唯一の目的●
仏教は後生の一大事を知るところからはじまり、後生の一大事の解決で終わります。ですから、「後生の一大事」とはどんなことかを知らなければ、仏法は何十年聞いてもわかるものではありません。
これは蓮如上人が『領解文』に、
「一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御助け候え」
と仰っているとおりです。
では、「後生の一大事」とはどんなことでしょうか。
私たちは、嫌じゃ嫌じゃといいながら、墓場へと向かっています。死に向かって行進しているのです。禅僧・一休は、
「門松は 冥土の旅の 一里塚」
と歌いました。
年が明けるとみんな「おめでとう、おめでとう」と言いますが、一年経ったということは、それだけ大きく死に近づいた、ということです。
「死」は、100%確実な、私たちの未来なのです。
そう聞くとどうしても、50年や60年先の、遠いことだと思いがちですが、一息切れたら「後生」ですから、早ければ今晩かも知れません。
その「後生」に大変な一大事がある、と仏教では教えられているのが「後生の一大事」ですが、この「後生の一大事」に二つあり、阿弥陀仏の救われる前と、救われた後とで、大きく分かれるのです。
●二つの「後生の一大事」●
弥陀の救われた人の「一大事」は、「浄土に往き仏に生まれる」という大事です。
弥陀の救われていない人の「一大事」は、「地獄に堕ちて永い苦患に沈む」大事です。
弥陀に救われた人の「後生の一大事」について、蓮如上人から聞かせて頂きましょう。
(原文)
「信心決定して、その信心の趣を弟子にも教えて、諸共に今度の一大事の往生を、よくよく遂ぐべきものなり」
(意訳)
「平生に弥陀の救いに値って、皆にもその不可思議の救いの素晴らしさを伝えて、共に弥陀の極楽浄土へ往き、仏に生まれる一大事を遂げねばならない」
これは弥陀の救いに値った人の後生(来世)の一大事を教えられたものです。
欲や怒り、ねたみそねみの塊(煩悩具足の凡夫)である私たちが、一息切れると同時に、弥陀の浄土へ往って仏に生まれることは、あり得ることではない、大変なことですから、「一大事」といわれるのです。こうも仰っています。
(原文)
「他力の信心ということを詳しく知らずは、今度の一大事の往生極楽は、まことに以てかなうべからずと、経・釈ともに明らかに見えたり」(御文章)
(意訳)
「今生で弥陀の救いに値わねば、来世に弥陀の浄土へ生まれるという一大事は成就できないが、平生に弥陀の救いに値えば必ず来世は、極楽浄土に往生できるとどの経典や経釈にも明らかに説かれている」
次に、弥陀に救われていない人の「後生の一大事」を、蓮如上人はこう教えられています。
(原文)
「後生という事は、ながき世まで地獄におつることなれば、いかにもいそぎ後生の一大事を思いとりて、弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし」 (御文章)
(意訳)
「後生の一大事とは、未来永く地獄に堕ちて苦しむことだから、急いでこの一大事の解決を心にかけて、阿弥陀仏の救いを求めねばならない」
この「後生の一大事」は、弥陀に救われていない、全ての人がかかえている一大事ですから、有名な『白骨の御文章』にも、
「誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて」
と言われ、ご遺言にも、
「あわれあわれ、存命の中に皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり、まことに宿善まかせとはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし」
と、手に汗握って「皆々」=私たち一人一人に、訴えておられるのです。
以上、蓮如上人のお言葉を挙げて、親鸞聖人がどのように「後生の一大事」を教えておられるか、話をしてきました。
●「後生の一大事」は、仏説●
親鸞聖人は常に、
「更に親鸞、珍しき法をも弘めず、如来の教法を我も信じ、
人にも教え聞かしむるばかりなり」
と仰せの通り、釈迦の説かれた仏教以外に、教えられたことはありませんでした。
ですから、上記の「後生の一大事」は、そのまま釈迦・七高僧を貫く「仏説である」ことが明白でしょう。
つづく
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