2010/08/13

『歎異抄』解説書の比較対照【13】 《弥陀の本願まことにおわしまさば》

前回(《『歎異抄』解説本を比較する意義》 親鸞会.NET )に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。
「弥陀の本願まことにおわしまさば」の真意

原文

弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。   (『歎異抄』二章)

梅原猛氏著『誤解された歎異抄』の意訳

もしも阿弥陀さまの衆生救済の願いが真実であるとすれば、そのことをあの『三部経』という経典で説いたお釈迦さまの説法が間違っているはずはありません。もしもこのような『三部経』におけるお釈迦さまの説法が間違っていなかったならば、それを正しく解釈した善導大師の注釈書が間違っているはずがありません。


高森顕徹先生著『歎異抄をひらく』の意訳

弥陀の本願がまことだから、唯その本願を説かれた、釈尊の教えにウソがあるはずはない。
釈迦の説法がまことならば、そのまま説かれた、善導大師の御釈に偽りがあるはずがなかろう。

『歎異抄』二章の「弥陀の本願まことにおわしまさば」を、「もしも本願が、まことであるとするならば」と領解する人が多くあります。
ですが、この章は、弥陀の誓願に疑いが生じた関東の同行が、「直に本当のところをお聞きしたい」と、京都にまします聖人を命として、決死の覚悟で訪ねた時に仰ったお言葉です。
弥陀の本願が「まことか、どうか」をお尋ねした同行に、聖人が「もし、まことであるならば」と仮定で語られたとすれば、何の解答にもなりません。なぜ、答えにならない答えをされたのか、解説者は説明に苦心してきました。
例えば

延塚知道氏著『親鸞の説法「歎異抄」の世界』は、この一節は
『歎異抄』は、『観経』の伝統の中から生まれてきた書物であることを伝えようとしていると解説しています。

釈尊が『観無量寿経』で説かれた「弥陀の本願」を、善導大師が『観無量寿経疏』で注釈され、それをそのまま法然上人、親鸞聖人が伝えられているという「伝統」を示すものだと言うのです。「本願まことか、どうか」を命懸けで聞きに来た同行に、聖人がそんな「伝統」を語られるはずがないでしょう。

また、山崎龍明氏著『初めての歎異抄』は、
「親鸞聖人はやや遠慮がちにいっています」と解説していますが、聖人が「本願まこと」を「遠慮がち」に語られることなど、考えられません。

仮定で語られることすら「本来、親鸞にはありえない」のだと、
石田瑞麿氏著『歎異抄 その批判的考察』は、こう批判します。

「マコトニオハシマサハ」という仮定的表現は親鸞のどこをつっついたら出てくるのか、考えてみてほしい。親鸞においては、「本願」が「マコト」であるかどうか疑問視されたり、「マコト」と一応、仮定してみたりできる余地は本来、寸毫もない。(中略)「弥陀ノ本願マコトニオハシマサハ」という仮定は、本来、親鸞にはありえないことがわかる。それが、ここでこんな形で語られたのは、遠来の人たちの問いが余りにも見当はずれなものだったことによる。

関東の同行の問いがあまりにも見当外れだったから、『歎異抄』だけは、本来ありえない表現がなされたというのでは、取って付けたような説明です。

「仮定」で解釈する従来の説は訂正されるべきと主張する倫理学者もいますが、
佐藤正英氏著『歎異抄論註』の解説は、

「弥陀の本願まことにおはしまさば」の「ば」に、疑問あるいは仮説の意を含ませて解したのでは文意が死んでしまう。従来の解釈は訂されねばならない。(中略)だが、なぜ平叙文ではなく「おはしまさば、……」あるいは「ならば、……」という仮定的な言い廻しが用いられているのだろう。親鸞は、阿弥陀仏の誓願が〈真にして実なる〉ものであることを己れの〈知〉において捉えているわけではない。〈信〉を抱いているにすぎない。いいかえれば己れの〈信〉においてのみ阿弥陀仏の誓願は〈真にして実なる〉ものとして現前している。その〈信〉の地平を明示せんがためであろう。

この説明は、「……であろう」という私見にすぎません。親鸞聖人は、「弥陀の本願まこと」を自分の知恵で“知っておられた”のではなく、「〈信〉を抱いているにすぎない」ことを明示されたのであろう、と推測するにとどまっています。肝心なのは、「弥陀の本願まこと」だと「〈信〉を抱いている」という、その「信」の意味です。これがご自分の心で信じ固めた「信念」にすぎないのか、阿弥陀仏から頂いた「他力の信心」なのか、最も大切なことが書かれていません。

安良岡康作氏著『歎異抄 全講読』も、この一節の「明言・確説は、話し手である親鸞の信念によって証得されたものである」と解説していますが、これでは聖人はご自分の心で信じ固めた「信念」を語られていることになります。

『歎異抄をひらく』では、「弥陀の本願まこと」と疑い晴れた心は、ひとえに弥陀から賜る「他力の信心」であると明言されています。

弥陀の本願に疑い晴れた心は、決して私たちがおこせる心ではない。この心が私たちにおきるのは、まったく弥陀より賜るからである。
ゆえに、「他力の信心」と言われる。「他力」とは「弥陀より頂く」ことをいう。
このように親鸞聖人の信心は、我々が「疑うまい」と努める「信心」とはまったく違い、“弥陀の本願に疑い晴れた心”を弥陀より賜る、まさに超世希有の「信心」であり、「信楽」とも言われるゆえんである。

そして『ひらく』では、「弥陀の本願まことにおわしまさば」は、「まことならば」と「仮定」で語られたのではなく、「弥陀の本願まことだから」という「断定」であると、根拠を挙げて明快な解説がなされています。

だが親鸞聖人には、弥陀の本願以外、この世にまことはなかったのだ。

誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法  (教行信証)
まことだった、まことだった。弥陀の本願まことだった。

の大歓声や、

煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします  (歎異抄)
火宅のような不安な世界に住む、煩悩にまみれた人間の総ては、そらごと、たわごとであり、まことは一つもない。ただ弥陀の本願念仏のみがまことなのだ。

『歎異抄』の「念仏のみぞまこと」は、「弥陀の本願念仏のみぞまこと」の簡略である。聖人の「本願まことの信念」は明白であろう。
親鸞聖人の著作はどこも、「弥陀の本願まこと」の讃嘆で満ちている。「弥陀の本願まこと」が、常に聖人の原点であったのだ。その聖人が、仮定で「本願」を語られるはずがなかろう。
「弥陀の本願まことにおわしまさば」は、「弥陀の本願まことだから」の断定にほかならない。

「弥陀の本願まこと」と、いくら言っても言い足りないのが他力信心なのです。
各人各様の推測や私見をどれだけ読んでも、「弥陀の本願まことにおわしまさば」の理解はおぼつかない。

 
*梅原 猛……日本を代表する哲学者。
京都市立芸術大学名誉教授。
国際日本文化研究センター名誉教授

*延塚知道……大谷大学教授

*山崎龍明……元・西本願寺教学本部講師。
武蔵野大学教授。専門は親鸞聖人、『歎異抄』

*石田瑞麿……元・東海大学教授。浄土教の研究に専心。著書多数

*佐藤正英……東京大学名誉教授。
日本倫理思想史、倫理学の研究者

*安良岡康作……国文学者。
東京学芸大学名誉教授

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2010/08/01

ロサンゼルスで続々と… 世界の親鸞会

○親鸞会顕正新聞22年8月1日号より

ロサンゼルス 世界の親鸞会

親鸞会ロサンゼルス会館での6月の勉強会に7人のアメリカ人が参加しました。
 高校生のJは、祖母が浄土真宗で「親鸞聖人の教えを聞きなさい」と言われて育ったそうです。大富豪の家に育ち、東南アジアのある市の半分を祖父が所有していますが、お金や土地があっても苦は変わらないと痛感しています。
 アフリカ系のHは、人生の目的を知りたいと、親鸞会・テレビ座談会にも続けて参加。Eはこの世で救われるという教えに非常に感動し、親鸞会ロサンゼルス会館の掲示板を見て来たKは、両親が牧師ですが、自分の宗教を見つけたいと最近よく来るようになりました。
 次々と求める人が現れ、法雨を注ぐ秋は今と思わずにおれません。

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