2008 年 9 月 26 日

富山の城端が“アニメの聖地”!?

カテゴリー: 日記 — camera @ 5:10 PM

 さとし@カメラ小僧です。

 富山と言えば、越中民謡なんですが、全国的によく知られているのは八尾の「おわら節」、五箇山の「こきりこ節」と「麦や節」ってとこでしょうか?特に五箇山は民謡の宝庫と言われているように、大変多くの民謡があります。

 源平の合戦で破れた平家の落人が隠れ住んだと言われるのが五箇山ですが、彼らが鍬や鋤を手に京での栄耀栄華を想いながら歌ったと思われるような歌詞もあり、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で始まる平家物語などを思うと、何とも切ない気持ちになります。

 中でも勇壮なのが、紋付袴に白たすきという凛々しい姿で、笠をクルクル回しながら踊る「麦や節」。これは、五箇山だけではなく、南砺市の城端地区でもよく踊られて、大きなイベントも行われています。

麦屋節

 上の写真が、麦や節の笠踊りですが、これは城端で撮ったもの。城端は“越中の小京都”と言われるように、古い町並みが残る情緒あるところです。そんな町並みをバックに踊る麦や踊りは風情あります。

 そんな町なので派手さはなく、実に地味なんですが、ところが、この城端には“アニメの聖地”という一面があるようです。

 true tearsという恋愛アニメ(?)が、あるそうなんですが、このアニメの舞台のモデルとなったのが城端らしいんですね。全く知りませんでしたが……。

城端の町並み

 恋愛アニメといったジャンルはオシャレな都会が舞台となるものだとばかり思っていましたが、まさか富山県がモデルになるとは……。正直ビックリですが、実際にこのアニメについて調べてみたら、どっかで見かけた町並みやショッピングモール、飲食店などが登場します。気持ち悪いくらい作品の中で再現されているんですが、複雑な心境ではあるものの富山県民としては嬉しいもんですね。

 ……で、このアニメのファンの間では「聖地巡礼」ということで、城端や高岡方面を訪れる人が多いようですが、如何にもローカル線といった出で立ちの城端駅の駅舎の中には、このアニメのコーナーがあって記帳用のノートが用意されたりしているそうです。南砺市のサイトには、このアニメの紹介ページがあったりして完全にアニメの聖地化しています。

 城端に撮影に行った後に聞かされたことだったのですが、意外なところで賑わいを見せている城端でした。

 ではでは。

2008 年 9 月 25 日

トワイライト同朋の里

カテゴリー: 親鸞会館の見どころ — camera @ 2:54 PM

 さとし@カメラ小僧です。

 前回の記事が8月ですから、かなり更新サボッてしまいました。いや、何といいましょうか、あちこち行っておりまして……。

 そんなことしている内に、同朋の里“D館”と大浴場の“徳水館(とくすいかん)”が完成して、間もなく食堂の“百味館(ひゃくみかん)”が完成します。今月上旬には、見学会も行われ「早くここで信心の沙汰をしたい!」という声があちらこちらから……。

 この同朋の里に広がる森林の中には“中山池”という池があり今回の工事で、遊歩道も整備されました。実は、この同朋の里から見る夕日がベリーグッドなのです!!特に、この中山池に映る空のグラデーションが何とも幻想的!では、日没直後くらいに撮った写真をご覧いただきましょう!

中山池からの夕陽

 水面に映ったオレンジ色の空と森の木々……。ここはヨーロッパか、それとも……?

 この中山池の脇には、新しくできたD館が小高い丘の上に建っているのですが、この夜景もなかなかですよ!

中山池からのD館

 いかがでしょう?

 さっきの写真よりもうちょっと後で撮ってみたんですが、池に映ったD館も素晴らしい!このD館では、法友同士、思う存分信心の沙汰をして、宿泊もできるようになっています。ちょっとしたリゾート地のような気分も味わえるかもしれませんね。

 来月の親鸞会館でのご法話の前後には、D館、徳水館、百味館すべて揃って利用できる予定です。今から楽しみですね!

 ではでは。

2008 年 9 月 12 日

「太閤山」の地名のルーツは、やはり豊臣秀吉にあった

カテゴリー: 日記 — auto @ 9:41 AM

射水市(旧小杉町)太閤山と言えば、親鸞会の皆さんにとっても馴染み深いものがある地名でしょう。
親鸞会館のほど近く、富山県では最大級の団地「太閤山団地」が存在します。

元々、この団地一体は丘陵地帯でした。それを昭和40年代に大規模な開発が行なわれ、今の姿となったのですが、気になるのは「太閤山」という地名。
おそらく豊臣秀吉と何かの関係があるのだろう、と思ったあなた、正解!

実は、天正13年(1585年)8月、越中を守っていた佐々成政を攻める為に太閤秀吉がこの地に一晩だけ陣を敷いたと言われるのです。

1日だけ陣を敷いた場所なんて、秀吉にとってみれば全国各地に存在するでしょうね。
そうなると「太閤山」なる地名はもっと沢山あっていい気がします。
確か名古屋駅の近くに「太閤」という地名がありました。そこは秀吉の「生まれ故郷」という意味での地名のようで、他に私が思いつくものはありませんが、なにしろ名前のルーツは、そういうことです。

豊臣秀吉の人物については、ここで詳しく説明するまでもないでしょう。彼の有名な辞世の句は、親鸞会の法話でもよく使われる歌でもあります。

(参考:豊臣秀吉の辞世

さて、問題は実際に陣を敷いた場所はどこなのか、とうことなのですが、これは射水市黒河にある小さな丘になります。(地図

実は現在、パチンコ店の駐車場になっており、遺跡は残っておりません。
しかも、そのパチンコ店も閉店しているというのですから、何とも言えないありさまです。

『小杉町史』によると、駐車場化したのは昭和63年のことで、丁度、親鸞会本部会館が建立された年のことでした。それまでは、現在の駐車場より更にうず高い位置に遺跡が存在しており、発掘調査によって二重の溝が発見されています。
おそらく、陣所の簡易的な空堀と思われます。
内側の溝に囲まれた範囲は、東西13メートル、南北17メートルの方形。

実際に、内側の溝からは中世土師器1点、外側の溝からは火縄銃の鉛玉1個が発掘されています。
それが決定的要因という訳ではありませんが、それらの遺物から、おそらくここが秀吉の陣所跡だったのであろう、ということなのです。

ここで一晩、陣を構えた後、秀吉軍は呉羽山へ移動したと言われます。
現代的に言えば、一晩だけここで野営キャンプをしたということですので、出土品が少ないのも仕方が無いことでしょう。

「太閤山」の地名のルーツ、分かって頂けましたか?

そういえば、太閤山団地の中に「千成パーク」なるものがありますが、その名前も豊臣秀吉の馬印である「千成ひょうたん」から来ているのでしょう。
「太閤山温泉」も、実は秀吉が兵を温泉に入れた休ませたという伝承もあるそうです。

しかし、今は陣所の遺跡も、太閤山温泉すらも消えてしまっているのが、残念でなりません。

2008 年 9 月 3 日

佐々成政の居城「富山城」と浄土真宗

カテゴリー: 日記 — auto @ 7:44 AM

親鸞会館のある射水市のおとなり、富山市中心街にあるのが「富山城」です。
今日は、この富山城についてご紹介しましょう。

築城時期は諸説ありますが、天文12年(1543)に守護代の神保氏が築いたという説がよく知られています。
その後、富山城は加賀・越中一向一揆勢と上杉謙信との争奪戦がありました。

謙信死後は、織田信長が越中に進出し、天正10年(1582)に信長の家臣・佐々成政が城主となります。

佐々成政については、平成14年のNHK大河ドラマ「利家とまつ〜加賀百万石物語〜」で、山口祐一郎が演じ、その妻・はるを天海祐希が演じていましたので、かなり目立っていました。
ドラマ中、現在の富山城天守閣の映像がそのまま使われ、「さらさら越え」や「成政切腹」という題の回もあるほど、主役の唐沢寿明より目立つことが多かったですね。

「成政が出過ぎ!」という声もありましたが、ご当地富山にとってはかなりうれしい演出で、この年の富山県は「佐々成政」が一つのキーワードでした。(というか、あれは完全に富山を意識していましたよね?NHKさん)
本能寺の変以降、佐々成政と豊臣秀吉は敵対するようになり、天正13年(1585)には秀吉自らが10万の大軍を率いて越中に攻め込み、成政は降伏。以降、越中は加賀前田家の支配となります。
この戦いで、秀吉軍が一晩陣を敷いた場所に射水市太閤山の丘陵地帯があり、このことから「太閤山」の地名がつけられたのは有名な話です。

親鸞会の皆さんにとって気になる、佐々成政と浄土真宗の関係ですが、秀吉と成政が敵対するようになると、越中国内であらぬ争いをしないよう、浄土真宗を優遇したようです。
親鸞会では度々話題となる高岡市の勝興寺は、実は佐々成政から寺地を寄進されたものです。

成政は越中にて善政をしいたので、富山県人には慕われる歴史人でもありますね。
さて、江戸時代の富山城は、富山藩10万石(初代:前田利次)の城となり明治まで続きました。

もともと天守閣の無かった城でしたが、昭和29年に「模擬天守」を建築し現在に至ります。
そう、写真の天守閣は実は本丸の門跡に建てられた架空のものなのです。

戦後の天守復興は、全国ではこの富山城が最初だったそうで、以降の天守復興ブームの火付け役だった訳です。

以上、簡単ですが、富山城とその歴史についてでした。