2011 年 4 月 12 日

「750回忌行事は旅行じゃない」……親鸞会と本願寺

カテゴリー: ちょっと一言, 行事の感想 — sukeroku @ 7:49 AM

震災で多くの方が辛い思いをされている、そう考えると、被害を受けなかったからと行ってワイワイ騒ぐ訳にもいかない……そんな心情から、イベントなどを自粛する流れが広がっています。

「自粛、自粛」と騒いで、経済活動まで停滞させると大変なことになると警鐘する人も多いですが、日々報道される震災ニュースを見ていると、やはり「よっしゃ、どこか旅行にでも行くか!」という気持ちになかなかなれないのも確かです。
今年は丁度『親鸞聖人750回忌』の年。
京都の東西本願寺を始め、浄土真宗各派は様々な行事を予定していて、もちろん親鸞会でも秋に750回忌法要が予定されています。
しかし、震災による自粛ムードからか、京都の本願寺に参詣する人のキャンセルが相次ぎ、ホテル予約などではその数は既に千五百人を超えている、というニュースを耳にしました。
旅行業者は悲鳴を上げている、とのこと。

まあ、無理もないことと思いました。

実際、既に京都西本願寺の750回忌行事に参詣した人が言っていたことですが、
「いやあ、本山にお参りしてきたよ。有り難かった。法話は無かったけどね」
なるほど、何か教えを聞き学ぶ為に参詣した訳ではなく、最初から旅行気分だったとうことなのでしょう。
法要参詣を旅行の一つと思っているのなら、震災で自粛しようと思ってしまうのも無理もないでしょう。

「何だかよく分からないが、とにかく本山にお参りすれば、まあいいことあるだろう。極楽参りもできるだろう」
まるでパワースポットを訪れる感覚になってしまっていませんか。
浄土真宗とは、そんな教えではありません。

忘れてはならないのは、参詣の目的でしょう。
何の為に参詣するのか。教えを聞き求めるのは何故なのか。

親鸞会では、親鸞聖人の教えを聞き求める目的を忘れることは決してありません。
だから、今回の震災直後であろうと、親鸞会館の法話には全国から参詣者が集いました。中には、被災地からの参詣者もありました。
そして、心静かに、親鸞聖人の教えを正しく聞かせていただいたのです。

全国の浄土真宗門徒の皆さん、750回忌の今年こそ、「親鸞聖人の正しい教えは何なのか」しっかりと学び聞かせていただける年にしましょう。
決して、旅行気分にならずに。

2011 年 4 月 8 日

震災報道の影響とテレビ東京 〜親鸞会の行く道は〜

カテゴリー: ちょっと一言 — sukeroku @ 10:48 PM

東日本大震災が発生してから数日間、テレビはどのチャンネルに変えても震災の悲惨な状況を映し出していました。
もちろん、状況の詳細を知りたい私としては、自宅に帰ればテレビを付けて、放映されている災害状況を食い入るように見ていました。

ですが、ある時に気づきました。
一緒に見てしまう「子供」によくない、ということを。

幼い子供は幼いなりに、東北は何処かなど分からないなりに、今日本でどんなことが起きているのかを理解し、そして「不安」におびえるのです。
「ここは大丈夫だよ」と言い聞かせても、流れてくるニュースの「行方不明」「壊滅状態」そして「死」に敏感に反応していることに、気づきました。

これはまずい。

ある時点を持って、自宅でニュースを見るのを止めました。
いや、どこか娯楽番組がやっていれば、そのチャンネルにしたでしょうが、NHK教育でさえ安否情報を流しているのですから、子供に見せれる番組がないとなると、消す以外にありません。

こんなことがあってか知りませんが、テレビ東京では他の局より先にアニメ番組を放映し、絶賛されたという話題を耳にしました。
そうそう、全チャンネルが震災を報道しなくてもいい。子供がみれるチャンネルがあっていいじゃないか。それが多くの視聴者に喜ばれたのだろう、と素直に思いました。

ところが、その後のニュースで、アニメ放映したことに対する抗議の電話やメールがテレビ東京に殺到していたというではありませんか。
やむなく謝罪したらしいのですが、今の日本の状況を考えれば「不謹慎」と思う人が多いのも事実なのでしょう。
ただ思ったのは、どんなことを行っても、褒める人もあれば非難する人もある。すべての人が褒め讃えることなど存在しないのだな、ということです。

有名人が「何億円の義援金を出した」と聞いて「素晴らしい」と褒める人もあれば、「売名行為だ」と非難する人もある。
「よくも放射能をまき散らしたな」と東電を非難する人も多い中、「想定外の津波が来たのに、なんとかあの状況で収めた日本の技術はすごい」と言う人もある。
日本人のモラルは素晴らしいと海外が絶賛する、その中でも「いや、日本人はおひとよしすぎる」とバカにする声も聞かれる。

皆にて褒める人もなく、皆にて誹る人もなし。

もちろん、他人の言葉に耳を傾け反省し行いを正すことは大事ですが、浴びせられる声に一喜一憂していては何もできなくなります。
これは仏教、浄土真宗の歴史でもそうでした。
親鸞聖人、蓮如上人、いや一番最初はお釈迦さまでさえ、すべての人が「素晴らしい教えだ」と褒め讃えた訳ではなく、誹り嘲り、果ては命を狙う者まで現れました。
「誹謗されるから、教えるのはやーめた」と信念を曲げておられたら、とても仏教は今日まで伝えられることはなかったでしょう。

親鸞会の歩む道はどうでしょうか。

「親鸞聖人の教えを正しく理解し、そして多くの方に伝える」
讃える人、誹る人、様々な声があろうとも、この姿勢一つ、ブレることなく、今までも、そしてこれからも進んでいくことでしょう。