2008 年 9 月 12 日

「太閤山」の地名のルーツは、やはり豊臣秀吉にあった

カテゴリー: 日記 — auto @ 9:41 AM

射水市(旧小杉町)太閤山と言えば、親鸞会の皆さんにとっても馴染み深いものがある地名でしょう。
親鸞会館のほど近く、富山県では最大級の団地「太閤山団地」が存在します。

元々、この団地一体は丘陵地帯でした。それを昭和40年代に大規模な開発が行なわれ、今の姿となったのですが、気になるのは「太閤山」という地名。
おそらく豊臣秀吉と何かの関係があるのだろう、と思ったあなた、正解!

実は、天正13年(1585年)8月、越中を守っていた佐々成政を攻める為に太閤秀吉がこの地に一晩だけ陣を敷いたと言われるのです。

1日だけ陣を敷いた場所なんて、秀吉にとってみれば全国各地に存在するでしょうね。
そうなると「太閤山」なる地名はもっと沢山あっていい気がします。
確か名古屋駅の近くに「太閤」という地名がありました。そこは秀吉の「生まれ故郷」という意味での地名のようで、他に私が思いつくものはありませんが、なにしろ名前のルーツは、そういうことです。

豊臣秀吉の人物については、ここで詳しく説明するまでもないでしょう。彼の有名な辞世の句は、親鸞会の法話でもよく使われる歌でもあります。

(参考:豊臣秀吉の辞世

さて、問題は実際に陣を敷いた場所はどこなのか、とうことなのですが、これは射水市黒河にある小さな丘になります。(地図

実は現在、パチンコ店の駐車場になっており、遺跡は残っておりません。
しかも、そのパチンコ店も閉店しているというのですから、何とも言えないありさまです。

『小杉町史』によると、駐車場化したのは昭和63年のことで、丁度、親鸞会本部会館が建立された年のことでした。それまでは、現在の駐車場より更にうず高い位置に遺跡が存在しており、発掘調査によって二重の溝が発見されています。
おそらく、陣所の簡易的な空堀と思われます。
内側の溝に囲まれた範囲は、東西13メートル、南北17メートルの方形。

実際に、内側の溝からは中世土師器1点、外側の溝からは火縄銃の鉛玉1個が発掘されています。
それが決定的要因という訳ではありませんが、それらの遺物から、おそらくここが秀吉の陣所跡だったのであろう、ということなのです。

ここで一晩、陣を構えた後、秀吉軍は呉羽山へ移動したと言われます。
現代的に言えば、一晩だけここで野営キャンプをしたということですので、出土品が少ないのも仕方が無いことでしょう。

「太閤山」の地名のルーツ、分かって頂けましたか?

そういえば、太閤山団地の中に「千成パーク」なるものがありますが、その名前も豊臣秀吉の馬印である「千成ひょうたん」から来ているのでしょう。
「太閤山温泉」も、実は秀吉が兵を温泉に入れた休ませたという伝承もあるそうです。

しかし、今は陣所の遺跡も、太閤山温泉すらも消えてしまっているのが、残念でなりません。

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