「なぜ自殺してはいけないの」
京都 学生 藤木武史(仮名)
私は中学時代にいじめに遭いました。
「なぜ自分がいじめられないといけないのか、 僕が何か悪いことでもしたのか」 と思いつつ、 「だれかに言ったらもっとひどい目に遭わすぞ」 という言葉におびえて、 ずっと耐えていました。
私の中学校はそのころ非常に荒れていました。
そのためか、 いじめが盛んに行われ、 いじめるグループに目をつけられた人は徹底的に暴力を振るわれ、 多額のお金を奪われることもありました。
私の友人がいじめのターゲットにされたこともありました。
その友人が暴行を受けたあと、 泣きじゃくっていたのを見て、 何も慰めの言葉が出なかったのでした。
ただ、 「僕は目をつけられることはしていないし、 いじめのグループにかかわらなければいいんだ。 君子危うきに近寄らずっていうし」 と、 わが身の安全しか考えていなかったのです。
しかし、 私がいじめの標的になる時が来てしまったのです。
暴行を受け続け、 そんないじめの日々にびくびくしながら、 ただいじめの矛先が別のところに行くのを待つだけでした。
ある時、 いじめグループの1人が私に向かって言いました。
「おまえはおれらのおもちゃだ。
おまえでストレス解消するだけ。
それ以外におまえの存在価値はない。
死にたきゃ死んだら?
おまえなんか死んでも死ななくても関係ないし」
それを聞いた私は、
「こいつらは僕の命を何とも思っていない。 人間じゃない」 と心の中で軽蔑しながら、
「僕はこのまま生きてどうなるっていうのだろう?
あいつらのおもちゃでいなくちゃいけないのか?
いっそこのまま死んだほうがいいんじゃないのか?」
急速に自分の存在意義が感じられなくなっていくのを感じました。
「そうだ、 死んでも何もかもなくなっちゃうだけだ」
それからは本気で自殺するタイミングばかり考える日々が続きました。
結局、 いじめは学校でも問題として大きく取り上げられ、 私へのいじめは自然となくなりました。
いじめグループとも形式的には和解しました。
しかし、 あの時の言葉は相手が冗談で言ったとしても、 私の人命に対する考えはこっぱみじんに打ち砕かれたままでした。
それから高校へと進学し、 私は大学受験を大きな生きがいとしつつも、 人生このまま生きて何があるのだろうという思いは、 心の奥底でくすぶり続けていました。
そんな私が大学に入学した時、 親鸞聖人の教えと出遇ったのです。
「人生にはこれ一つ果たさなければならないという大事な目的がある。 どんなに苦しくてもこの大目的果たすまで、 生き抜きなさいよ」
これほどハッキリと、 なぜ自殺してはいけないのか、 ズバリ答えておられる方があったのか、 私は度肝を抜かれました。
今にして思えば、 死んでもいいじゃんと平気で思っていたことを恐ろしく思います。
そして、 いまだ生きる意味を知らず、 そんな心境になっている人はたくさんあります。
命の大切さを伝え、 自他ともに幸せになりたいと思います。