親鸞会館には多くの若者が参詣しています。
なぜ彼らは親鸞聖人の教えを聞くようになったのでしょうか?
『これは本当のことではないのか』
東京 学生 深田道夫(仮名)
12歳の時から親元を離れて暮らし始め、 海外に住んだこともある私は、 子供ながら、 常に孤独や不安を抱えて生きてきました。 中学、 高校では部活動や勉強に打ち込み、 それなりに充実した毎日を送っていたつもりでしたが、 言いようのないむなしさはゴマカせませんでした。
でも、 こんな自分であっても、 大学に入れば何かが変わるかもしれない。 今までの自分を変えたい、 その思いから大学を目指し、 法学部に合格しました。
しかし、 大学のキャンパスを歩きながら感じたことは、 「あれほど頑張ったのに、 得られたモノはこれだけか……」 という大きな失望と、 胸にポッカリと穴が開いたようなむなしさばかり。 喜びはすぐに色あせ、 残ったのは何に対してもやる気のない、 無気力な自分でした。
何をしても報われない……。 それならばいっそ好きなことを好きなだけやったほうがよいのではないか。
今まで勉強というフィールドで精一杯やってきた。 今度はまったく違うフィールドで自分を試してみたい。 せっかく望んだ大学に入ったのだから、 やりたいことをやれるだけやってみよう。 そうしたら少しでも幸せに近づけるかもしれない。
そう思った自分は、 4月ごろ先輩から、 「人生の目的について学んでみないか」 と言われても、 心ここにあらず、 といった感じでした。
1年間、 好きなことを好きなだけやってみました。 いろいろな物に恵まれ、 初めに思い描いていたたいていの物は手にすることができました。
しかし、 それはあまりにもつまらない毎日でした。 お金や他人からの評価、 恋人や仲間に恵まれても、 私自身は少しも変わらない。 ちっとも満たされず、 渇いていくばかり。
「自分の人生、 いったい何なんだろう」 と、 絶望に打ちひしがれてしまいました。
いったいどうすればいいのか、 分からないまま時が過ぎていくのは耐えられず、 自分の人生を真剣に振り返ってみようと思いました。
そんな中、 目に留まったのが、 机の上にあった、『なぜ生きる』でした。
「1年前、 読んでみた時はあまり気にもしなかったけど、 今なら読めるかも……」 という思いから、 再び読み返してみました。
すると、 口を突いて出てきたのは、 「分かる! 分かる!」 これはほかのだれでもない、 自分のことを書いた本だ。 自分の知らない自分さえも見抜かれて、 言い当てられているようでした。 乾いた大地に雨がしみ込むように、 自分の心の中に深く浸透していくのが分かりました。 大げさに思われるかもしれませんが、 正直、 心の底より救われた気がいたしました。
そして、1度読み終わっても2度、3度と繰り返して読まずにはおれなくなっていました。
このようなことは自分の人生の中で、 初めてでした。しかし、数回、読み返したあと、どうしても頭から離れない1つの疑問が浮かんできました。 「平生業成」、こんなことが本当に人の身の上に起こりうるのか、 ということでした。
「なるほど。確かにここに書かれているようなことは、 人生の目的たりうるだろう。しかし、本当にこのような体験をすることができるのか?」 これが私が最後まで引っかかった点でした。
頑張ったのに、 報われないのはまっぴらだ。
本当にこんな体験ができるのか、 ハッキリさせてから、 それに向かって生きていきたい。 「人生の目的はあったらよいなとか、 あってもなくてもよいものじゃない。 なくてはならないものだ。 そして、 あるとしたらきっとこれだと思う。 じゃあ達成できるものなのだろうか……」
そんな思いから、 どこかに自分の心に引っかかる場所はないものかと読み続けました。 そんなものあるものなのか……、 という思いの反面、 どこかにあってほしい、 自分が本当の幸せになれる手がかりが、 という、 祈るような気持ちで読み返しました。
そんな時、 心に留まったのが、
「弥陀の誓願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなり」
というお言葉でした。
親鸞聖人は全人類が救われる教えだとおっしゃっているのにもかかわらず、 ここでは親鸞一人がためと言われている。
これはもしかして、 本当のことではないのか……。 苦しんで苦しんで、 求めて求めて、 求め抜いた果てに、 救われた人が思わず口を突いて出る言葉というのは、 たとえその瞬間に全人類が救われる教えだと分かったとしても、 「親鸞一人がためだった……」 と言わずにおれないのではなかろうか。
もう1つ感じられたことは、 「この親鸞は救われた! あなたも同じように救われる! 何とかして、 どうにかして、 この幸せを、 あなたに伝えたい!!」 という親鸞聖人の熱火の法悦でした。
その時、 遠く離れた所にあった聖人のお言葉が目の前に迫り、 私の心は初めて仏法を学ばせていただこうという気持ちになっていたのです。