お義母さんにするならこの人しかいない
岐阜県 西村 文子さん(仮名)
幼いころ、人との別れに暗く沈み、どうしたら明るくなれるか悩みました。母から因果の道理を聞かされ、善いことをしようと心がけましたが、褒められたい一杯の心が見えたとき、自分のみにくさに愕然としました。
偉人の生き方にヒントを求め、毎日本を読みましたが、同じ人物でも著者によって評価は全く異なります。本に答えはありませんでした。
そのころ、岐阜市内で、親鸞会講師の方が活動されており、母と兄、妹はすでに親鸞学徒でした。ある日、講師より、人生の目的は決してくずれることのない絶対の幸せになることだと教えていただき、
「そうだ、私の求めてきたものはこれだった!」
と感激したのです。
家族の中で、最後に親鸞学徒にならせていただいた私の仏縁を、母は、「よかったね、よかったね」と心から喜んでくれました。
その後平原進さん(仮名)より今の主人を紹介され、その母親であった飛騨の伊藤きくさん(仮名)にお会いしました。不思議不思議の弥陀の救いを喜び、語られるきくさんの姿に、迷うことなく、
「お義母さんにするなら、この人しかない」
と思ったのです。
深夜まで仏法讃嘆
主人の実家へ帰るたび、義母から聞かされるのは、命がけで弥陀の本願をお叫び下さる高森先生のこと。いつも夜中まで仏法讃嘆は尽きることがありませんでした。
帰省した3、4日の間は夕食が終わると毎晩、信心の沙汰が始まり、11時ごろ皆が寝始めても、私は義母の話に夢中でした。雪が深々と降る夜には、差し向かいでこたつに入り、気がつくと夜中の2時、3時。時のたつのも忘れて聞いておりました。
白い画用紙にボールペンで縦と横の線をかいて、
「本当にこのとおりやっさー」と、弥陀に救いとられた一念の体験を話してくれたり、また、「これ以上、尊い方はない」と善知識(正しい仏教の先生)の尊さも聞かせてもらいました。
「泣かんでもいいのやよ」食道ガンの義母は笑顔で言った
語り尽くせぬいろいろな思い出がありますが、深く心に焼き付いているのは、62歳で義母が食道ガンになったときのことです。死を覚悟しながら、母の姿はとても考えられない堂々としたものでした。見舞いに行った私たちが悲しんで泣いているのを諭すかのように、にこにこした笑顔で、
「泣かんでもいいのやよ。私はここへ?お産?をしに来たようなものだから、赤飯炊いて喜んでくれなあかんのやさ。こうしていたえも幸せがこみ上げてくるんやさー、不思議やさなー」
というのです。とても義母の心の中は、うかがい知ることもできませんでした。
また、車いすで散歩に出たときも病室でも、思い出話に花が咲き、ワハハ、ワハハと笑い声が聞こえて来るのです。末期でありながら、どうして?と医師も看護婦も不思議がっていました。
「親鸞聖人のみ教えに狂いはないのやさー」。口癖のように言っていた、懐かしい飛騨弁が思い出されます。いつも聞法心を燃え立たせてくれた、忘れられない義母でした。