夫との死別
竹田圭子(仮名)さんは16年前、夫・雄一(仮名)さんを交通事故で失った。当時、夫は30代なかばだった。
「最愛の夫と死別した時はつらくてつらくて、とても仏法を聞く気にはなれなかった。でも、無上仏(阿弥陀如来)は徹骨のお慈悲で私を導いてくださったのです」
突然の訃報
「道に倒れているのは、雄一(仮名)さんではないか」
深夜1時半に突然の電話。飲み屋の店長からだった。驚いて雄一さんの布団に目をやると、まだ帰っていない。体が震えた。急いで外へ出ると警察官やパトカーが集まっていた。雄一さんはすでに救急車で運ばれていた。
〈夫に何が起きたのか……〉
地元の小さな医院に駆けつけた。11月半ばの寒い夜、上着も持たずに来た圭子さんは待合室のソファーで肩をすぼめて縮こまり、夫の経過を聞けるのを待った。やがて現れた警察官は、「ひき逃げで即死でした」。そう一言だけ告げて立ち去った。
足の力が抜け、震えが止まらない。義父から安定剤をのまされた。遺体は県警や大学病院へ運ばれていった。
雄一(仮名)さんはその日、従兄弟の竹田悦雄(仮名)さんとゴルフに行ったあと、何軒か飲み歩いた。
「じゃあな、アニキ。明日も仕事だから気ィつけてな」
そう言って悦雄(仮名)さんの肩をポンとたたいたのが最後だった。自宅まで50メートルもない。
その直後、無灯火の車が時速50キロで雄一(仮名)さんを直撃。後頭部が裂け、内臓破裂を起こしていた。
夕方ようやく、雄一(仮名)さんの遺体は自宅に戻った。
「帰ってきたよ……」
親戚の声に、圭子さんがその棺を見た瞬間、腰が抜けた。
〈現実なんだ、本当なんだ、夫は死んでしまった〉
仏間に運ばれた棺をのぞくと、雄一さんの頭は白い包帯で幾重にも巻かれていたが、顔は生きている人のようにきれいだった。
事故のショックで、義父は胃潰瘍になり、義母は入退院を繰り返した。圭子さんは家事と仕事と看病で悲しみを紛らわしていたが、1人になると仏壇前で、「どうして死んじゃったの」と泣き崩れた。毎晩、「ただいま」と帰ってくる夫の夢を見た。
「親鸞聖人のお話を聞きに行こう」と、悦雄さんの妻・友江さん(仮名)に誘われたが、すべて自因自果と説く仏法は、苦しすぎて聞けなかった。
〈苦しみはもう要らない。それより楽しいことに打ち込んで、今の地獄から逃れたい〉
再び苦悩の谷底へ
勤め先の社長夫妻は、圭子さんを気遣い、高価な供物や花束を頻繁に送ってくれた。夫人とは同い年で、旅行や買い物へ行き、おいしいものを食べ歩いた。優しさがうれしかった。
だがそれは、新たな地獄の始まりでもあった。
圭子さんはある日、会社の資金繰りで相談を受け、夫の保険金から快くお金を貸した。
そんなことが何回か続いたあと、町内で、「あの社長夫婦は危ない。年金をだまし取られた人が何人もいる」と噂が流れ始める。「そんなこと絶対にない」と、圭子さんは頑として信じなかった。
しかしそれから間もなく、社長夫婦は夜逃げした。
圭子(仮名)さんは泣いた。子供を学校へ送り出したあと家に閉じこもってひたすら泣いた。最愛の夫を亡くし、信じていた人に裏切られ、もう何を信じていいか分からなかった。
心配した友江さんが会いに行くと、いつもタオルを首からかけて目を真っ赤にはらしていた。友江さんは自宅のビデオご法話に圭子さんを連れて行った。雄一さんの事故から丸4年がたっていた。
親鸞聖人の「難思の弘誓は難度海を度する大船」のお言葉を初めて聞いた。海に浮いている丸太のような幸せは頼りにならぬ。裏切られては苦しむ、その繰り返し。それはまさに自分の姿だった。
「そんな苦悩の海を、明るく楽しく渡す大きな船がある」と、高森先生が黒板に大船をかかれた時、堰を切ったように涙があふれ出した。部屋の片隅に、一生懸命タオルで涙をふいている圭子さんの姿があった。
弥陀の大悲を
「因果の道理のお話も、ようやくうなずけるようになりました。ふりかえれば阿弥陀さまのご念力に動かされていると感じます。決して見捨てない大悲の力を、家族にも伝えずにおれません」
実父・西田和明(仮名)さんも、早くに伴侶を亡くしている。圭子さんは、親鸞学徒になった平成7年から少しずつ仏法を伝えてきた。
「苦労してきた娘が富山まで片道400キロ運転して連れて行ってくれるんです」と、和明さんは目を細める。隣で圭子さんも、「父と2000畳で聴聞するのが何よりの幸せです」とほほえんだ。