虚無の果てに出会った仏法|親鸞会 会員の声

面白いことを試し続けた先にあったもの

その後も、面白いことを思いっ切り試し続けた。スキーもゴルフも上級者クラス、町金融の裏社会をのぞいたりもした。だが切りがない。次第に疲れを感じてきた。

落ち着きたいと、今度は人が変わったように猛勉強して大学を卒業。現在の職場に配属された。
そこで知り合った女性と大恋愛の末、一緒に暮らし始めた。真面目な女性で、話しているだけでが心が安らいだ。

しかし、相手の家庭の事情で、どうしても別れねばならなくなる。平井さんはどんな反対を押し切ってでも一緒になろうと覚悟していた。彼女もそうだと信じていた。

ところがーー。
彼女は去った。仕事から帰るとだれもいない。彼女の携帯電話はすでに番号が変わっていた。その場に崩れ落ちた。7カ月。あまりにもあっけない幕切れだった。

それからは魂が抜けたような日々が1月以上続いた。気力が起きない。機械的に仕事をこなし、食事を口に運ぶだけ。頭の中は、「何のために生きる。何のために?」。そんな言葉が、呪文のように繰り返されていた。


トルストイの言葉

ふと高校時代、兄から勧められた『かくて私は人生の目的を知った』という本が目に留まった。

当時も読み、それなりに感銘を受けたが、内容は覚えていなかった。改めて読み返すと、いつの間にか、時を忘れてページを繰っていた。
ロシアの作家トルストイの『懺悔』が引用されている部分は、鮮烈に心に刺さった。

「こんなことはいずれもとうの昔から誰にでも分かりきった話ではないか。きょうあすにも病気か死が愛する人たちや私の上に訪れれば (すでにいままでもあったことだが) 死臭と蛆虫のほか何ひとつ残らなくなってしまうのだ。私の仕事などは、たとえどんなものであろうとすべては早晩忘れ去られてしまうだろうし、私もなくなってしまうのだ。とすれば、なにをあくせくすることがあろう?よくも人間はこれが眼に入らずに生きられるものだ――これこそまさに驚くべきことではないか!生に酔いしれている間だけは生きても行けよう、が、さめてみれば、これらの一切が――ごまかしであり、それも愚かしいごまかしであることに気づかぬわけにはいかないはずだ!」 (トルストイ著、中村白葉・中村融訳『懺悔』)


頭を殴りつけられたような衝撃だった。〈そうだ、このとおりだ。だれもが必ず死なねばならない。意識しようとしまいと、人は皆、死への道程にあり、内心それを恐れている。何もしないでいると不安になるから、忘れさせてくれる何かを求め、自らを忙しくしているにほかならない。だがそれはトルストイの指摘どおり一種のごまかしなのだ。

多様な価値観などとよくいわれるが、結局、このごまかし方の違いであろう。ごまかしは続かないし、何ら根本解決にはならない。今までやってきたことを振り返っても、心からの安心、満足がなかったではないか……〉


あらゆる人間の営みの根底に 死への不安

混沌としたジグソーパズルのピースがきちんとはまると、一つの絵画が現れるように、錯綜した人生の謎解きをされたように思った。あらゆる人間の営みの根底には、死があたかも不気味な通奏低音をなしている。それにずっと気づかぬまま、「面白いことをやればいい」と、見当違いの方角を走っていた。死を忘れた営みが、人生を真に明るくするわけがなかったのだ。

死に向かうと真っ暗になるこの心の解決こそ、人生において求むべき究極のもの。その答えが親鸞聖人の教えにあるという。

親鸞聖人は、暗い心が現在ただ今、明るい心に生まれる、それが弥陀の本願であると、法友との大論争で明らかにされたと書かれていた。

「もっと詳しく知りたい。高森先生は今どこでお話しされているのか?」
平井さんは、著者に手紙を送った。2日後、著者から、歓迎と激励の電話がかかってきた。ずーっと求め続けた光が届いた。平成12年6月、紫陽花の咲く初夏の夕暮れであった。

平井さんの第2の人生は、ここから始まった。

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