人生の目的に今遇えた|親鸞会.NET

「ある!」の断言

親鸞会 特集:写真 夕焼け

夕方4時過ぎ、図書館へ向かった。しばらくすると、1人の学生がチラシを手に、道行く人に声をかけているのが見えた。嫌悪感を覚えながらも、立ち止まってしまった。
チラシに、「なぜ生きる」「人生の目的」と書かれていたからだ。

なぜ、生きる?

見るからに自分より年下の学生だ。そんなに深く人生を考えているはずもなかろう。「一緒に考えよう」ということか。半端な気持ちならやめたほうがいいと説得しようか。なぜなら、「一緒に考える」とは「一緒に人生に絶望しましょう」と同義だからだ。

ところが次の瞬間、学生の言葉に、私は度肝を抜かれた。

「人生の目的があるから、聞いてみませんか」

人生の目的がある──。それは断言だった。変化球でも直球でも、何でも打ち返してやるという気持ちだったのに、手も足も出なかった。ノーラン・ライアンばりの超豪速球で後ろから頭を直撃されたような驚きだった。

「ええ?」

あるはずないよ。でもその学生は自信満々で瞳は輝いていた。もしかしたらこの人は、何かの間違いで人生の目的を知っているのかもしれない。
2日後に会う約束をした。


何を根拠に?

大学のキャンパスで話を聞いた時、「……と言われている」と何度も言うのが気になり、
思い余って聞いてみた。

「一体、何を根拠に言っているんですか」

すると静かに、私の目をじっと見つめてこう言った。

「仏典に説かれています。日本の親鸞聖人の書物に教えられているのです」

仏典──そうか、仏教か。
これは盲点だった。

そういえば大学2年の時、旅先の中東で、「仏教は宗教とは違う」と聞いたことがある。

経典には何が説かれているのか。宗教といわれるものは形は違っても似たり寄ったりの印象があるが、仏教だけは異質なものを感じていた。高校の教科書に、お釈迦さまが、飢えた虎の口に自ら身を投げる絵が載っていたが、あれも何を表しているのか分からなかった。きっと仏教はあまりにも深いので、今日正しく理解している人はいないのだろう。それで葬式法事仏教になってしまったのではないか。本当の仏教はこの世から消滅しているのだ。その時はそんな結論で終わらせていた。

しかし仏典ならば、なるほど、ありえるかもしれない。
「人生の目的の重さ」と「謎のベールに包まれた仏教の不可解さ」。これは、合う──。もしかしたら、かなり高い確率で、人生の目的がハッキリする。そんな期待が沸々とわいてきた。

次ページ>>「破無明闇」の明答

このページのトップへ戻る

【親鸞会.NET】トップに戻る