人生の目的に今遇えた|親鸞会

「破無明闇」の明答

親鸞会 特集:写真は青空

それは、3度目に話を聞いた時だった。

ぶ厚い一冊の本が目の前にあった。ページをめくって、親鸞聖人の主著とされる『教行信証』の冒頭だという、ある言葉を示された。

「難思の弘誓は難度海を度する大船
   無碍の光明は、無明の闇を破する慧日なり」

なんと重々しい言葉だ。
赤や青のラインが至るところに引かれている。ページをめくったあとが、黒ずんでいる。何度も読みこまれたものだろう。
難度海、大船……一つ一つの言葉の意味が語られる。うなずける話である。そして無明の闇──。一呼吸おいて、彼は、ゆっくりとこう言った。

「すべての人は幸せを求めて生きています。

 しかし、100パーセントの未来、後生が暗い。死後がハッキリしないから、何を手に入れても、どう生きても本当の安心満足はない。

 苦悩の根元は後生暗い心、無明の闇だと親鸞聖人は教えられています」


唖然とした……シンプル。あまりにもシンプルな論理に言葉を失った。
何度も心に問いかけた。
これは本当のことなのか。今聞いたことは確かか。本当にこれが苦悩の根元か。
めまぐるしく心は動いた。反すうした。

そう、確かにそう。やりたいことは何でもやってきた。欲しいものもそれなりに手に入れてきた。でも満足できない心がいつもあった。

人はだれもが、みな死ぬ。何を求め、手に入れても、これだけはまちがいない。
100パーセント確実な後生、死んだらどうなるかハッキリしない。たしかにそうだ。未来が絶対的に暗いから、現在も絶対的に暗くなる。当然ではないか。

親鸞聖人は、その苦悩の根元・無明の闇を破ることこそ人生の目的と教えられている。
そうだったのか──。

すごい!

しかし、言葉が出ない。どう言っていいか。もどかしい。全身が、かーっと熱くなった。そして心は、まちがいなくこう叫んでいた。

これは真実だ。私は今、求めてきた真実を知ることができたのだ、と。

過去2000有余年、西洋の大天才たちが生涯かけても出せなかった答えを知ることができた!レオナルド・ダ・ビンチが何だ。ニュートンやアインシュタインがどうした。例えばルーブル美術館にある作品すべてを足したら、何兆という金額になるだろう。しかし「なぜ生きる」の答えは教えてくれない。
この真実、全世界の放送局から大至急、流さねばならない。

興奮を抑えられず、心の中で躍り上がった。

「どうかしましたか?」
相手の言葉が耳に届いた。けげんそうな顔で私を見上げている。

私は、いつの間にか立ち上がっていたのだ。


新たな旅立ち

東京国際フォーラムでの高森先生講演会に参詣したのは、その翌月だった。お話が始まると、震え上がる気持ちをどうすることもできなかった。

この日の演題は、古今に聞こえる名文、歎異鈔。その第1章の冒頭はこうである。

『弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて往生をば遂ぐるなり』と信じて
  『念仏申さん』と思いたつ心の発るとき、
   すなわち摂取不捨の利益にあずけしめ給うなり

流れるような、それでいて何と不思議な文章だろう。
高森先生はこの一文を、4つに分けられた。そして、

「弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせた」も、

「往生をば遂ぐるなりと信じた」も、

「念仏申さんと思いたつ心」も、「摂取不捨の利益」も、

すべて同じ心、一念の体験です、と断言されたのだ。ああ、信心決定という体験は本当にあるのだと、その時、私は確信した。

「邂逅」という言葉くらいではスケールが合わない。一生に一度の出会いという程度のものでもない。おそらくは何億年かかっても遇えないご縁に、今遇えた……。

熱いものが、ほほをつたった。

その時から、無上道を往く、私の新しい人生の旅が始まったのである。

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