浄土真宗の教えを全国津々浦々に浸透させたのは、中興・蓮如上人です。上人の築かれた吉崎御坊、山科本願寺、石山本願寺の三大仏法都市は、500年前の聞法ドメイン(領域)といえるでしょう。
当時そこでは、何が行われていたか。蓮如上人の教導はどういうものだったか。親鸞学徒の鑑である蓮如上人を、私たちは常に手本とさせていただきましょう。
吉崎御坊編
吉崎御坊(福井県あわら市)は、それまで各地を転々としてこられた蓮如上人が、最初に建立された布教拠点である。
中心となる御堂ができると、周囲には宿舎である「多屋」が建てられ、門徒や商人もどんどん移住し、200軒近い多屋や民家が軒を連ねた。
自然とそこは各地から集まった同行たちの、法を語らう会合の場となった。
吉崎御坊
そして「講」という門徒組織があり、講単位で集っては、御文章が朗読され、活発な信仰問答が交わされたのである。
しかし、中には趣旨の徹底されていない講もあったのだろう。
『御文章』一帖目十二通は、「近ごろ、会合の本来の目的が果たされていないではないか」とのお叱りである。
しかるに当流に於て毎月の会合の由来は、何の用ぞなれば、在家無智の身をもって徒に暮し徒に明して、一期は空しく過ぎて、終に三途に沈まん身が、一月に一度なりとも、せめて念仏修行の人数ばかり道場に集りて、わが信心は・ひとの信心は如何あるらんという信心沙汰をすべき用の会合なるを、近頃はその信心ということはかつて是非の沙汰に及ばざるあいだ言語道断あさましき次第なり。
所詮、自今已後はかたく会合の座中に於て信心の沙汰をすべきものなり。これ真実の往生極楽を遂ぐべき謂なるが故なり
〈大意〉
浄土真宗において、毎月の会合をする目的は何か。
在家で知恵もなく、無益に日々を送って一生はむなしく過ぎ去り、ついには三悪道(地獄・餓鬼・畜生)に沈もうとしているわれらである。
せめて月に一度でも、法友が集まり、「自分の信心は、ほかの人の信心はどうか」と、信心の沙汰をするのが会合である。
しかし最近は、その信心の是非について話し合われていないのだから、言語道断、あきれて物が言えない。今後は会合で、信心の沙汰をしなさい。これは真実の極楽往生を遂げるに大事なことである。
これは吉崎御坊の完成から2年ほどあとに書かれたものである。
このお手紙も、それぞれの講で読み上げられ、周知徹底されたろうから、当時の同行は、御堂で聞法したあと、バラバラに帰っていったのではない。
多屋と呼ばれる宿へ移って、とことん互いの信仰を語り、不審を晴らしたのだろう。
そんな多屋が一つや二つではなく、何百とあったのだから、当時の活況が目に浮かぶようである。
平成の親鸞学徒もかくありたい。
聞法のあと、親鸞会館から同朋の里へ移って、皆で心ゆくまで語り合う。
疑問はそのままにせず、納得できるまで尋ねる。
蓮如上人が、そうお勧めになられたのは、往生浄土の本懐を遂げるのに、極めて大事なことだからなのだ。