蓮如上人と聞法ドメイン

 戦乱で、吉崎御坊(福井)を退去せられた蓮如上人は、新たな拠点を京都山科に定め、悲願の仏法都市・山科本願寺を建立されます。
 ここで参詣者が安心して聞法できるようにと、上人が精魂を傾けて造られた聞法ドメイン(領域)。
 親鸞学徒は、この蓮如上人をお手本とさせていただきましょう。

山科本願寺編

 文明12年(1480)、各地の門徒の熱い懇志で、山科に御影堂が落成する。

「誠によろこびは身上にあまれりて、祝着千万なり。(中略)その夜の暁き方までは、ついに目もあわざりき」(帖外御文)

 蓮如上人はお喜びから、一睡もできなかったと記されている。

 阿弥陀堂と合わせ、これら主要施設(御本寺)を核に、内寺内という僧侶たちの住坊、さらにその周辺に外寺内と称する町衆の居住区ができ、諸国の参詣者や、職人たちが住まいした。
 本寺・内寺内・外寺内の三郭は、それぞれ高さ7メートルほどの土居(土を盛り上げた堤)と堀で区画され、環壕城塞都市と呼ばれる大きな寺内町を形成する。面積は約24万坪で、大谷本願寺(最初の本願寺)の300坪と比べ、800倍の広さがあった。


山科本願寺

 戦乱の世に、安全確保は急務であり、城郭並みの防衛機能が欠かせなかった。
 大名が驚くほどの堅牢な城塞だったのは、幾たびも戦火をくぐり抜けられた経験と、如来聖人からお預かりしたご門徒を、何としても守る、蓮如上人の強い信念からであろう。

 中は平和が保たれ、都と比べ、勝るとも劣らぬ繁栄だったと伝えられる。
 ある貴族は、

「もっとも寺中広大無辺、荘厳ただ仏国のごとし、在家また洛中と異ならず、居住の者おのおの富貴にして、家々のたしなみずい分美麗なり」(二水記)

と評している。

 富み栄えているだけなら、珍しくはないが、山科寺内町は、規律に基づいた信仰の生活が営まれていた。
『本願寺作法之次第』を見ると、山科寺内町には時の太鼓が二カ所に置かれ、朝7時、昼、日没8時の1日3回、その太鼓が鳴らされた。
 その音で、寺内町の朝は明け、昼そして日没が告げられ、生活時間が定められた。風呂などの施設も置かれ、毎月定期的に沸かしていたという。
 音楽や生臭物を停止すべき日など、細かい規定もあり、門徒で係りを分担して規則を遵守し、仏法者らしい日々を過ごしていたのである。

 山科を訪れたキリスト教の宣教師ですら、「夜に入りて坊主彼らにむかいて説教をなせば庶民多く涙を流す、朝にいたり鐘をならして合図をなし、皆堂にはいる」と、当時の親鸞学徒の、秩序ある生活に感動している。

 遠くから参詣した同行たちを、上人は殊のほか大切にされ、食事面でもいろいろと気を配られた。
 蓮如上人の五男・実如上人は、「蓮如上人の御時、申し付けた雑煮をふと取り寄せて、まずご自分で味を見たところ、ひどく塩辛く、味も悪くこしらえてあった。蓮如上人はだれがこの雑煮を作ったのかと問い、料理人を注意し、遠国からはるばる上洛してきた親鸞聖人のご門徒に、このようにまずい料理を出すとはけしからぬことだと叱られた」と語っている。


 次回は、この山科本願寺の完成を機に、親鸞聖人のみ教えを求める人々が続々と現れてきたことを詳述する。
 浄土真宗親鸞会の同朋の里は、まさに現代の山科寺内町といえよう。

 

特集3 山科本願寺編その2(公開予定)

 

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