親鸞会 家族で聞きたい

難度海の荒波も、「生きててよかった!」

東北 金本恒男さん

 東北は、浄土真宗が少ない。富山からの移住で例外的に多い場所もあるが、金本さんの住む町に、真宗寺院は皆無という。
「これまで足を棒にして訪ね歩きましたが、『ウチは宗旨が違うから』と断る人がほとんどでした」
と、奥さんの金本結子さんは打ち明ける。

 しかし、金本さん宅の家庭法話には、親鸞聖人の教えを聞き求める元気な笑顔があふれていた。


 仏法との出遇いは、十数年前にさかのぼる。親鸞会の文化講座のチラシを目にした結子さんは、親鸞聖人のお名前に引かれた。

 高校を卒業し、看護師として働き始めたころ、
「これを読みなさい」
と、吉川英治の小説『親鸞』を差し出した父親は、生涯苦労続きだった。競輪選手引退後、自転車店を開くが、商売は軌道に乗らない。揚げ句に、50代後半、ガンに倒れた。
「あの本、読んだか」
 病室で不意に問われ、看病のかたわら読みふける。聖人の生きざまに魅せられたが、父が何を求めてこの本を読んだのか、尋ねる機会はなかった。

 同じころ、同居の義母に痴呆症による徘回が起こり、実母は脳梗塞に伏した。介護と家事、育児そして仕事と、ギリギリの毎日。病院の当直室で重い体を横たえ、乳飲み子の寝顔を見ながら幾度も考えた。

" 人の一生って何なのだろう"

 3年が過ぎた昭和62年、
「二度と明かりの見えない世界に行く」
と言い残して、父親は逝った。60年、父は何のために生きたのか。人生はかくも悲劇的なのか……。

 親鸞会の文化講座に初めて参詣したのと同じ年、東京サンケイホールで、高森顕徹先生のご説法を聞かせていただいた。
「後生の一大事を解決し、現在ただいま絶対の幸福に生かされる」

 これは真実だという直感があった。
" 生きててよかった、と言える世界があったんだ"
と涙ぐんだ。

 その後、ともに文化講座へ参加した夫・恒男さんが、意外な提案をした。
「講師の先生が会場を借りるにも、お金がかかるだろう。何なら、うちを使ってもらったら?」

家族ぐるみの仏縁

 せっかく自宅で法話を開くのだから、と夫のきょうだいにも声をかける。
「仏法を聞いて初めて、親の恩が分かったの。だから、お義母さんの看病もできたんだよ。一度聞いてみない?」
 なるほど、と思った夫の姉や妹が足を運んだ。

 家の宗旨は曹洞宗だという船越さんの一家は、この日も参詣した。
 最初にご縁を結んだのは次女の船越静江さん。スーパーでレジを打っていた時、金本結子さんに声をかけられ、法話に足を運ぶ。やがて父・勉さんへと伝えられ、今では一家全員が法の友である。
 次男・保さんは、父の勉さんだけでなく、勤め先の社長からも、
「親鸞聖人のお話、よかったら、聞きに来ない?」
と、声をかけられた。"社長"は、結子さんの夫・恒男さんだったのである。

「孫には、小さいころから聞かせたい」
と言う船越さんの願いで、保さんの隣に正座する二人の小学生は『正信偈』を暗記している。

 沢木利江さんは、この日、皆に祝福されながら、晴れて親鸞学徒の仲間入りをした。
「幼い長男を病気で亡くし、長女までも事故で失い、運命をのろいました。この先どう生きていけばいいのかと……。子供が友達同士だった縁で、金本さんから生きる目的を知らされ、救われた思いです」
 聞法するごとに、暗い表情が明るさを取り戻し、夫も喜んでいるという。

 ご説法後は、講師を囲み、求法の喜びを語り合い、皆が席を立ったのは夜10時半を回っていた。

 ほっ、と一息をついて金本結子さんは言う。
「『一人でもいい、参詣される方があれば、話をさせていただきます』という講師の方の言葉に支えられ、10年以上続けられました。親鸞聖人のお話を聞く人が、まだまだあればいいなぁって思ってます」

(プライバシー保護のため、仮名にしてあります)

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