教頭を務めるE先生の高校でも、数年前、いじめによる自殺未遂事件があった。いじめ対策に取り組む中、感じたことを寄稿してもらった。
最近の「いじめ・自殺」関係の報道を見ても「学校が、教育委員会が、文部科学省が、国が悪い」と同じ論調であり、揚げ句の果てには校長までが自殺する。ますます問題は大きくなり、解決からは遠ざかる一方で絶望的な気持ちになります。
思うに今、必要なのは、冷静に自己を見つめることではないかと思います。
今日、教育の場で絶対的に正しいかの如くいわれるのが「個性重視」の考え方です。人は個性的であるべきだ、個性的でなければ面白みがない、だから個性的でない教育も正しくない、よくない……となってしまっています。
でも個性的とはどういうことでしょうか?それが、人間は皆、他の人と違う特徴や無限の可能性を持っているということだとすると、この世の中の全員が、何か抜きんでた特技や能力を持っていなければならないことになってしまいます。
これを聞いた圧倒的多数である?普通?の子供たちは、自分も他者と違っているのがいい、違わなければならないと考えるでしょうし、またその基準となる他者を常に意識しなければならなくなるでしょう。そしてこれが子供たちに、大人社会のようなストレスを持ち込んでいるように思えるのです。
自己を見つめる時に、他者との比較においてしか見つめられない。そんな状況は、自分がうまくいかなかった時、「それは学校のせい、親のせい、世の中のせい」となりやすく、他者に攻撃的になっていくと思います。
親鸞学徒としてこれらの事柄について考える時、やはり最も大切なのは、善因善果、悪因悪果、自因自果の「因果の道理」ではないでしょうか。
「うまくいかないのは他人や周囲のせい」という考えを打ち破るには、この徹底しかありません。
タブー視される言い方になりますが、生徒が自殺した原因も学校や家庭だけに求めるのではなく、その生徒本人に求めていくことも大切であり、その経過を経ないと本当の解決には至らないはずです。
また前述の「個性重視」ですが、「みんな違って、みんないい」ではなく、「みんなと同じだっていい」で、かまわないのではないでしょうか。そんな中で、本当の平等や個性について考え、発想を転換させる必要があると思います。
「人は皆、煩悩具足の凡夫」「さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし」という自覚のもと、真実の自己を見つめようとする姿勢の中でしか、世のすべての問題は根本的には解決されないと思います。やはり親鸞聖人の教えを知ることが大切です。永年、教育に携わる中でそう確信しております。
特集4 いじめ自殺問題への提言 自己を見つめる教育を