いじめ自殺 教育の根底に仏法を|親鸞会 会員の声

いじめ自殺 教育の根底に仏法を|親鸞会 会員の声

「恩」を読めない生徒たち

 今、子供たちの心に何かが起きている。全国の学校で噴出する「いじめ・自殺」問題に、政府までが解決に乗り出した。だれが悪いのか。悪者捜しに終始しがちな風潮の中で、親鸞学徒の教員たちは、真の解決に向かって、真摯な取り組みを見せている。

 ある高校で永年、教えてきたA教諭は語る。

「戦後、宗教と名のつくものはすべて公教育の場から消し去られました。また団塊といわれる世代の教員の中には、共産主義の洗礼を受けた人たちが多く、教育の根底に、宗教的なものを疎んじ、唯物的で、社会への貢献を至上とする思想が入ってきました。人間としての成熟より、進学に必要な知識を身につけることが目的化し、教育の根底が、どんどん空洞化しているような気がするんです」

 その一例として、最近、「恩」を読めない生徒が増えたという。

 これは決して知力の問題ではなく、子供たちが「恩」という字を目にする機会が減ったことによるらしい。確かに今、学校で、「恩」は見掛けぬ言葉となった。

 仏教では、「恩を知らざるものは畜生よりも甚だし」と経典にあるとおり、恩を知ることは、人間として最も大切なことと教えられる。そういう教育は昔の日本にはあっても、今はないという。

 A教諭は、今日のいじめ問題にも触れた。

「いじめに関してですが、やってはいけない、とは言えても、『それは悪なのだ』と断言できる教員や、保護者が極めて少ない現実があります。まして悪因悪果、自因自果、自分の人生は自らの種まきでつくっていくのだと言える人は皆無に等しいと思います」

 以前、A教諭の受け持った高1のクラスでもいじめが起きた。対象となったのは、ずばぬけて学力の高い女生徒で、彼女自身、周囲にうんざりしていたことから事件が起きた。女子全員が彼女を徹底的に無視し始めたのである。担任には分からぬよう自然にふるまってはいたが、A教諭も次第に教室の空気の変化に気がついた。

「この時は、女子全員を1人1人呼び出し、放課後に話をしました。最初は、『皆仲良くやっています』などと言うのですが、『何もないわけないやろ。教室の空気が前と全然違うやろが!』と一喝すると、ポツリポツリ事情を話してくれました」

 生徒たちが言うには、「あの子は私らを見下しているみたいだ」「皆と同じことせーへんかったら、私もいじめられる」と。

因果の道理を子供たちに

「とにかく彼女たちの言い分をひととおり聞いたあと、できる限り、因果の道理の話をしました。まかぬ種は生えない、まいた種は必ず生える。善因善果、悪因悪果、自因自果なんだよと。善人づらはしたくないと、さもかっこよさそうに言う生徒もいましたが、

『形をまねてるだけでも善は善。やらねば結果は絶対あらわれない』と自信を持って話をすると、スッキリした表情になったのが、今でも鮮やかに目に浮かびます。私も真実の仏法を聞かせていただいていたから言えた言葉だったと思います」

 いじめられていた本人にも同じ話をしたところ、1年の終わりごろには、すっかりクラスに溶け込み、放課後、彼女がクラスメートとともに、勉強している光景が見られるようになった。

「善を勧め、悪を戒める。教師ならだれでも指導することですが、問題はそれを、どれだけの信念で子供たちに断言できるかなのです。善悪を断言できる仏教のようなバックボーンを学校側が排除してきたそのつけが、今の学校に現れているのではないでしょうか」

 中学で教鞭を執るB教諭も同様の意見である。

「根本は、因果の道理をだれも信じなくなったことにあると思います。いじめの問題は、いじめられる側にばかり同情が集まりますが、実はいじめている生徒も、相当ストレスを抱えているケースが多い。それを他をいじめることで解消しているのです。こういう明らかに間違った行為を、単に罰するだけでなく、悪因悪果、自因自果と伝え、いじめは人を苦しめ、自分をも傷つけることになると伝えてやらねばならないのです」

 教員という立場で、生徒と保護者の幸せを念じ、因果の道理を基盤にした教育活動を行っていくことが、堅実に道を開いていくはず、とB教諭は語っている。

特集1 なぜ自殺はいけないの?混迷の社会と親鸞聖人

特集2 教育の根底に仏法を

特集3 いじめられる側から見た「いじめ自殺」の問題

特集4 いじめ自殺問題への提言 自己を見つめる教育

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