祖父が倒れる
石塚大樹さん(仮名)
私は四国に生を受けました。
おじいちゃん子で、毎週日曜日に祖父の家に遊びに行くのが習慣でした。
部屋ではおもちゃで一緒に遊び、外ではキャッチボール。
どこへでも連れて行ってくれる。
僕が喜べば、おじいちゃんも喜ぶ。
優しくて面白い祖父が大好きでした。
ところが、突然の出来事は中学の時におきました。
学校から帰ってくると、どうも家が騒々しい。不審に思って尋ねると、祖父が倒れたとのこと。
脳出血でした。
祖父は、救急車に運ばれるとき、朦朧としながら「大樹には言うな。心配するから」と繰り返していたそうです。
数週間後、病院で会った祖父は別人のようでした。痩せこけ、半身が麻痺し、話す言葉も聞き取りづらい状態でした。
祖父が、何を言っているのか分からない。
「大樹」と僕の名前を叫ぶ、その声が、何を言っているのか分からないのです。
祖父と、最後に言葉を交わしたのは、どんな言葉だったか。いつだったのかも思い出せません。
「あー」とか、「うー」とかいう、ただ、つらいことを訴える、意味のなさない声だけが、今も耳に残っています。
人生に目的はない
祖父は、大会社の局長にまで出世した人です。人望も厚く、才能にも恵まれていました。
退職後も、将棋や釣りといった趣味を楽しみ、皆が、うらやむ人生を送ってきた人でした。
しかし、結局、今は喜べていないではないか。
もう、自分で釣ってきた魚を食べることはできないし、僕の将棋の相手も、できない。
点滴で栄養を取り、オシメをかえてもらい、ただ、壁と天井を見るだけの生活。
どれだけやりたいことをやっても、最期、死を前にしては安心も満足もなく、死んでいかねばならないのではないだろうか。
ベッドの上の祖父は、本当につらそうに見えました。
僕が人生の目的というものを考えたのは、このできごとが一番大きなきっかけだろうと思います。
人生に目的があるとするなら、それを果たせば後悔のないもののはず。だが、何をすれば死んで後悔しないといえるだろうか。
僕が出した結論は「人生に目的などない」でした。
自殺するのが一番賢いのだろうか、とも考えましたが、その勇気はありませんでした。
出来る限り先を見ないようにして、目の前の楽しい事を追いかけ続けて生きるしかない。そう、自分を納得させました。
そんな私が昨年、大学で親鸞聖人の教えに出会う事ができたのです。
はじめは半信半疑でした。
人生の目的と言っても、どうせ「死」の問題を無視して、調子のいいことだけ言っているのだろうぐらいにしか思っていませんでした。
ところが、ある日の部会でトルストイの言葉を通して「死」の大問題についてずばり話がなされたのです。
「きょうあすにも病気か死が愛する人たちや私の上に訪れれば、死臭と蛆虫のほか何ひとつ残らなくなってしまうのだ。
生に酔いしれている間だけは生きてもいけよう、が、さめてみれば、これらの一切がごまかしであり、それも愚かしいごまかしであることに気づかぬわけにはいかないはずだ!」
本当にその通りだ。じいちゃんの姿が僕に教えてくれた。
この死の大問題を前にしてでも、人生の目的があると断言する先輩。
一体その答えは何なのだろう?
魅力あふれる 親鸞聖人の言葉
この答えだけはハッキリさせたい。
そんなある日、高森先生の著書の言葉に釘付けになったのです。
「咲き誇った花も散るときが来るように、死の巌頭に立てば、必死にかき集めた財宝も、名誉も地位も、すべてわが身から離散し、一人で地上を去らねばならない。
これほどの不幸があるだろうか。こんな大悲劇に向かっている人類に、絶対の幸福の厳存を明示されているのが、親鸞聖人である。絶対捨てられない身にカチッと摂め取られて、
「人身受け難し、今すでに受く」
?よくぞ人間に生まれたものぞ?と、ピンピン輝く摂取不捨の幸福こそ、万人の求めるものであり、人生の目的なのだ。」
一切が滅びるなかに滅びざる幸せが親鸞聖人の教えに明らかにされている!
「摂取不捨の利益」
摩訶不思議な魅力あふれるこのお言葉に強く惹かれ、「摂取不捨の幸福」になることが人生の目的であることがハッキリしました。
「死」を前に「生きる意味」を見失った私が、「死」を前にして、より鮮明になる「人生の目的」を知ることが出来たのです!
人生は決して無意味ではなかった!
自殺しなくて本当によかった!
「無常を観ずるは菩提心の一なり」
祖父に特別にかわいがってもらい、色んなものをもらったけれど、一番の贈り物は「菩提心」でした。
祖父が、その一生と引き換えに僕に「菩提の心」を教えてくれたのです。
ありがとう、おじいちゃん。ボクは親鸞聖人の教えを光に人生を生きていきます。