親鸞会 家族で聞きたい

出遇いから40数年 聞き切りたい、今度こそ

富山 梶本節子さん

「家庭法話で結んだ仏縁を、今まで、二度も遠のけて、本当に馬鹿でした」と言う梶本さん。三度目の正直、弥陀の本願聞き抜くことを誓う。

散居村 富山

 富山県で仏法を尊ぶ家庭に生を受けた梶本節子さんは、子供のころから『正信偈』を丸暗記していたという。
 20歳で嫁ぎ、しばらくたった昭和30年代の初夏、実家から葉書で法話の案内が届き、参詣すると、講師は高森顕徹先生だった。
「信心決定まで聞け」と、熱いっぱい説かれるご説法に、
「寺の坊さんからは聞いたことがない話だ。信心決定とは、どんなことだろうか」
と、夜中まで布団の中で考えることもあったという。

 その後、ポスターなどを見ては、高森先生のご法話に、何度か参詣したが、忙しさに流されて20年が過ぎた。

 農閑期のアルバイトとしてバスの添乗員を始めた昭和51年、2泊3日で滋賀県へ向かうバスに乗務してびっくり、親鸞会会員の参詣バスであった。
 添乗員でありながら、その晩は、親鸞会滋賀会館に宿泊し、翌日、懐かしい高森顕徹先生のご説法を聴聞する。帰りの車中で、会員の宮下さんから、
「もっと仏法、聞かれ。若い時に聞かなあかん。一緒に聞こまいけ(聞きましょう)」
と言われ、その場で親鸞会会員になることを決めた。バスの全員が、拍手で祝福してくれたという。

 義父の賛同を得て、翌月から早速、家庭法話をすることになった。手製のポスターを電柱に張り巡らせると、毎回十数人が近所から参詣した。
 しかし、約2年後、義父の入院で、農作業に追われるようになり、また聞法から遠ざかった。

夫の無常に目が覚める

 12年が夢と過ぎ、夫が脳梗塞で急逝した。昨日まで元気だった夫が、もういない。無常の嵐に驚き、伴侶を失った悲しみで、鬱々とした毎日を過ごしていた。

 数カ月後、葬儀に参列した親戚の藤元さんの訪問を受ける。かつて二度、仏縁を遠ざけたことを打ち明けると、藤元さんは、
「後生の解決は、仏法しかないがよ。今、聞かにゃ、どうするの」。
 厳しくも優しい言葉に、流転を重ねた過去が、走馬灯のように脳裏を駆け巡った。
「あぁ、本当だ。今度こそ、いたずらに過ぎ去った時間を取り戻さねば」
 聞法を再開し、縁ある人にも法話の案内をし始めた。これまで、何人もの仏縁深い人と出会った。

 家庭法話の再開も切望したが、自宅には駐車スペースがない。どうしようか悩んでいると、長男の幸一さんが印刷会社を設立し、「仏法に使ってほしい」と、社屋の2階に5部屋40畳の別宅≠造ってくれた。
 駐車スペースは、軽く10台分あり、自宅からも近い。
「ここなら、法話ができる!」
 早速始まった家庭法話は、親戚や兄弟、近所の人々の聞法の勝縁となっている。

「もっともっと有縁の人に伝えたい。私も、今度こそ、今度こそ聞き切りたいと思います」
と梶本さんは、熱い気持ちを語っている。

 

(プライバシー保護のため、仮名にしてあります)

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