親鸞会 家族で聞きたい

法友に愛され35年

近畿 野村一郎さん

 16歳で父親を亡くした野村一郎さんは、昭和17年、高校卒業と同時に川崎市の軍需工場に就職した。19歳で徴兵検査を受け、海軍航空隊へ入隊。いわゆる特攻隊である。
「死を覚悟した」と言うが、敗色濃厚な戦争末期は、乗る戦闘機がなく、防空壕を掘るだけの毎日だったという。

 1年後、三重県鈴鹿で敗戦を迎えた。末っ子だったが、兄が皆、家を出たため、実家に戻り、農家を継ぐことになる。

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 敗戦で、価値観が180度変わった時代、「何を信じて生きればいいのか」。悩んだ一郎さんは、幼少時から親しんだ『正信偈』に答えがないかと思い、近所の寺の説教に何度も足を運んだ。しかし、親鸞聖人のみ教えは少しも分からぬまま、20年が過ぎた。

 昭和40年代初め、村の公民館で法話が開かれると聞き、参詣してみると、親鸞会講師の講演会だった。『正信偈』の最初の二行に、親鸞聖人が、阿弥陀如来に救い摂られた叫び尽くせぬ喜びを表されていることを知り、驚いたという。
 その後、親鸞会滋賀会館(旧・米原町)で、高森顕徹先生ご法話に続けて参詣し、親鸞会の会員となったのである。

自宅を移転して開催

 ちょうどそのころ、親鸞会講師を自宅に招待して法話を開く人が、近所に現れた。野村さんも、「ぜひ、ウチでも」と思ったが、自宅のある山の中腹は、道が狭く、普通乗用車が入るのも大変だった。年老いた母親を喜ばせたい思いもあり、自宅の移転を思い立ち、ふもとに近い場所に土地を求めた。

 昭和44年、新居が完成し、間もなく、家庭法話が始まった。
『正信偈』の意味を知りたいと思っていた妻の映子さんも、大喜びだった。通りに面した部分のガラスふきや、草むしり、掃き掃除から始めて、玄関や仏間の掃除をすべて一人で引き受ける。
「夫は、タラの芽やウド、桃、柿などの出荷で忙しいのですが、私は専業主婦ですから。でも年を取って、時間がかかるから、1週間前から取りかかるんですよ」
と笑顔で話す。

   *     *

 ご法話の日の午後6時半、最初に訪れたのは、長女の貴子さんである。中学生のころから聞法を始めた貴子さんは、自宅の法話で仏縁を深め、親鸞会の会員となった。今も、夫とともに聞法を続け、実家の法話には、必ず手伝いに駆けつける。

 7時過ぎ、地元の法友が次々と訪れた。

 野村さん宅の周囲は家屋もまばらで、夏の夜は、静寂な闇に包まれている。
「この環境は、聞法会場にぴったりでしょう」
と一郎さんは自慢げである。
 雪深く、町中にも遠くて不便な山を出て、平野部に引っ越したらどうかと勧める人もあったが、夫妻は、この土地を選んでよかったと思っている。
「ご法話開催は、最高の法財施と教えていただきます。今後も、体の続く限り勤めさせていただきたい」
と一郎さんは、張りのある声できっぱりと語った。

(プライバシー保護のため、仮名にしてあります)

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