2008 年 8 月 28 日

のこぎり坂の別れ 〜細呂木の親鸞聖人歌碑〜

カテゴリー: 日記 — auto @ 9:50 AM

福井県は吉崎、と言えば蓮如上人のご旧跡、吉崎御坊で有名な場所です。親鸞会の皆さんには、あええてここで詳しく説明する必要もないでしょう。

吉崎を訪ねれば「蓮如の里」という大きな看板が迎えてくれます。東西本願寺の別院が存在してはいますが、完全に観光名所としての役割を果たしている、という感じです。
400年の時が流れたとはいえ、蓮如上人の功績が残され、上人を慕って吉崎を訪れる人が多いのも驚くべきことですね。
さて、この吉崎の近くに、以外にも親鸞聖人のご旧跡があるのはあまり知られていません。
「なぜまた福井に親鸞聖人の足跡が?」
と思いがちですが、親鸞聖人35歳の時の越後流刑の際、北陸を通られながら、各地で布教もされていました。その伝承は、福井、石川、富山の北陸三県の随所に残されています。

ということで、やって来たのは福井県の細呂木地区。JR北陸線に「細呂木駅」があるので、名前を聞いたことがある人も多いでしょう。実際の細呂木はJR駅からもっと日本海側、北潟湖の近くにあります。近くには、これまた有名な「嫁威し谷」もあります。

細呂木地区の旧北陸街道
細呂木地区の旧北陸街道

この辺りは加賀と越前の境界付近になり、江戸時代には福井藩の「細呂木関所」が置かれた所でもありました。
旧北陸街道が通り、かつては相当にぎわった場所なのでしょう。流刑にあわれた親鸞聖人も、この道を通られたに違いありません。

その細呂木地区に「のこぎり坂」という坂があります。地元の人でもあまり知られていないようですが、ここに親鸞聖人の御歌が刻まれた石碑が遺っています。(地図

のこぎり坂

これは道路から外れた、斜面の中程に建っているので、非常に見落としやすいです。だからこそ、あまり知られていないのかもしれません。

歌碑には

『音にきく のこぎり坂にひきわかれ
身の行くすえは こころ細呂木』

と、親鸞聖人の御歌が刻まれています。

おそらく、越後に向かって越前国内を旅される途中、多くの方に教えを伝えられたのでしょう。「もっとお聞きしたい」という同行方が、親鸞聖人の後をついていったと推測されます。
しかし、さすがに越境はできません。こののこぎり坂で、上人と越前の人との辛い別れがありました。

せっかく仏縁に恵まれ、真実の教えを聞かれるよになったのに、ここでお別れせねばならないとは、のこぎりで切り裂かれるように辛いことだ、というお気持ちからでしょう。
この山上で、おそらく最後の説法をされたのではないでしょうか。

ところで、歌碑の側面には「文政十二己丑仲秋再建之 魚津町同行中」とあります。

つまり、江戸時代末期の文政12年(1829)秋に再建されたものということです。

「魚津町同行」とはおそらく、富山県魚津市の真宗門徒と考えられます。
なぜにまた、富山県の人たちが細呂木に石碑を建てたのでしょう?

推測するに、富山県から京都の本願寺へ聞法にはせ参じる人たちが多かったということでしょう。もちろん、歩いての往復。魚津の人たちがさびれた石碑を見て、志を集めて再建したものと考えられます。
さすが、親鸞聖人の教えを聞き求めようと旅する人が、聖人の歌を心の支えとしたのでしょう。

北陸が、親鸞聖人、蓮如上人と深い縁がある土徳の地であることに、深い感銘を受ける話でありました。

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