2010/05/22

『歎異抄』解説書の比較対照【9】『霧に包まれる「摂取不捨の利益」  親鸞会.NET

前回(『歎異抄』解説書の比較対照《『歎異抄』と「二種深信」》)
http://www.shinrankai.net/2010/05/hikaku.htm
に引き続き『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。

《原文》

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて
「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益に
あずけしめたまうなり
(『歎異抄』第一章)

梅原猛著『誤解された歎異抄』の意訳

阿弥陀さまの不可思議きわまる願いにたすけられてきっと極楽往生することができると信じて、念仏したいという気がわれらの心に芽ばえ始めるとき、そのときすぐに、かの阿弥陀仏は、この罪深いわれらを、あの輝かしき無限の光の中におさめとり、しっかりとわれらを離さないのであります。そのとき以来、われらの心は信心の喜びでいっぱいになり、われらはそこから無限の信仰の利益を受けるのであります。

高森先生著『歎異抄をひらく』の意訳

〝すべての衆生を救う〟という、阿弥陀如来の不思議な誓願に助けられ、疑いなく弥陀の浄土へ往く身となり、念仏称えようと思いたつ心のおこるとき、摂め取って捨てられぬ絶対の幸福に生かされるのである。

「弥陀の誓願」と聞くと、「死んだら極楽に生まれさせてくださるというお約束」程度に思っている人がほとんどです。万人のその誤解を正し、弥陀の救いは〝今〟であり、その救済は如何なるものかを明示し、人間の真の生きる道をひらかれたのが親鸞聖人です。
聖人の教えを漢字四字で「平生業成」といわれます。「平生」とは「現在」のこと。人生の目的を「業」という字であらわし、完成の「成」と合わせて「業成」といわれます。「平生業成」とは、人生の目的が現在に完成するということです。人は何のために生まれてきたのか。何のために生きているのか。なぜ苦しくとも、生きなければならないのか。
親鸞聖人は、人生の目的を次のように喝破されています。

生死の苦海ほとりなし
久しく沈めるわれらをば
弥陀弘誓の船のみぞ
乗せてかならずわたしける
(『高僧和讃』)

「苦しみの波の果てしない海に、永らくさまよい続けてきた私たちを、弥陀の誓願の船だけが、必ず乗せて渡してくださるのだ」
微塵劫のあいだ生死を繰り返し、苦しみ続けてきた私たちが救われる道は、弥陀の誓願ただ一つです。真実の道は一本キリだから「弥陀弘誓の船のみぞ」と仰り、弥陀の救いにあうことこそ、真の生きる目的だと明示されているのです。

弥陀の救いの時と内容

『歎異抄』全十八章の収まる第一章は、親鸞聖人の教えの肝要を略説する極めて重要な内容を持ちます。一章ではまず、弥陀の救いの時は、
「念仏称えようと思いたつ心のおきたとき」
と、平生の一念であることが明言されています。
ではその救いとは、いかなるものか。
「摂取不捨の利益を得る」
と言葉は簡明ですが、その内容は極めて深くて重い。
「摂取不捨の利益」とは何か。最大の関心事なのですが、なぜか不明瞭なままで甘んじられているようです。
以下に挙げる解説書はいずれも、「摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」の意訳があるだけで、それ以上の解説はありません。

山崎龍明著『初めての歎異抄』の意訳
阿弥陀仏は、その光明(智慧)の中に摂め取って捨てないという利益が恵まれるのです。

石田瑞麿著『歎異抄 その批判的考察』の意訳
阿弥陀仏は、そのお光のなかにおさめとってお捨てにならない救いの恵みにゆだねさせになるのである。

佐藤正英著『歎異抄論註』の意訳
摂めとって捨てることのない阿弥陀仏の恵みにあずかる。

私たちが最も知りたいのは、弥陀の光明に摂め取られたらどうなるのか、救いに恵まれる前と後とで、どこが変わるのかです。その肝心なことが、これらの意訳では一向に分かりません。次の安良岡康作著『歎異抄 全講読』の解説も、「摂取不捨」という仏語の出典に言及するにとどまっています。

「摂取」は、仏語で、仏が慈悲心によって、一切の衆生を受け入れて、救済し給うの意。「不捨」は、お捨てにならない。『観無量寿経』に、「一一光明、遍照十方世界、念仏衆生、摂取不捨」とあるのに由る。
(安良岡康作『歎異抄 全講読』)

親鸞仏教センター著『現代語 歎異抄』に至っては、憶測と想像の羅列です。

B▼「阿弥陀の摂めとって捨てない利益」というのは、得られたあとに感ずるものでしょう。「こんなに素晴らしい世界だったんだ」という感覚です。(中略)
A▼「生活に揺るぎのない不動の精神が与えられる」はどうでしょうか?(中略)
C▼「摂取不捨」は、譬喩としては、向こうから守られてあるという感じかな。
(親鸞仏教センター『現代語 歎異抄』)

「摂取不捨の利益」とは、「凄い弥陀の救い」のことですが、「凄い救い」とはいかなるものでしょうか。「救われる」前と後とは、どこが、どう変わるのでしょうか。
その違いが鮮明にならねば、依然として『歎異抄』は深い霧に包まれてしまうでしょう。

「摂取不捨の利益」とは

「摂取不捨」とは文字どおり、〝摂め取って捨てぬ〟ことであり、「利益」とは〝幸福〟のことです。
〝ガチッと一念で摂め取って永遠に捨てぬ不変の幸福〟を、「摂取不捨の利益」といわれます。「絶対の幸福」と言ってもいいでしょう。人生の目的は、時間をかけて徐々に完成するのではありません。人生の目的が果たされるのは「一念」です。一念で弥陀に救い摂られた、永遠の幸福とは、どんな世界でしょうか。

『歎異抄をひらく』では、いちばん聞きたい「摂取不捨の利益」を、次のように詳説されています。

生きる目的は幸福だとパスカルも言う。自殺するのも楽を願ってのことであり、すべて人の営みは、幸せの外にはありえない。
だが、私たちの追い求める喜びは、有為転変、やがては苦しみや悲しみに変質し、崩壊、烏有に帰することさえある。
結婚の喜びや、マイホームの満足は、どれだけ続くだろう。配偶者がいつ病や事故で倒れたり、惚れた腫れたは当座のうち、破鏡の憂き目にあうかも知れぬ。
夫を亡くして苦しむ妻、妻を失って悲しむ夫、子供に裏切られ激怒する親、最愛の人との離別や死別。世に愁嘆の声は満ちている。
生涯かけて築いた家も、一夜のうちに灰燼に帰し、昨日まで団欒の家庭も、交通事故や災害で、「まさか、こんなことになろうとは……」
天を仰いで茫然自失。辛い涙で溢れているのが現実だ。
瓢箪の川流れのように、今日あって明日なき幸福は、薄氷を踏む不安がつきまとう。たとえしばらく続いても、死刑前夜の晩餐会で、総くずれの終末は、悲しいけれども迫っている。

まことに死せんときは、予てたのみおきつる妻子も財宝も、わが身には一つも相添うことあるべからず。されば死出の山路のすえ、三塗の大河をば、唯一人こそ行きなんずれ (御文章)
病にかかれば妻子が介抱してくれよう。財産さえあれば、衣食住の心配は要らぬだろうと、日頃、あて力にしている妻子や財宝も、いざ死ぬときには何ひとつ頼りになるものはない。一切の装飾は剥ぎ取られ、独り行く死出の旅路は丸裸、一体、どこへゆくのだろうか。

蓮如上人、乱打の警鐘である。
ふっと死の影が頭をよぎるとき、一切の喜びが空しさを深め、〝なぜ生きる〟と問わずにおれなくなる。
〝死の巌頭にも変わらぬ「摂取不捨の利益」こそが人生の目的〟
親鸞聖人のお言葉が、真実性をおびて響いてくるのではなかろうか。
風前の灯火のような幸せ求めて、今日も人はあくせく苦しんでいる。なんとか摂取不捨の利益の厳存を伝えなければならない。
(『歎異抄をひらく』)

日本の歴史上、最も成功した秀吉も、臨終には「難波のことも夢のまた夢」と寂しくこの世を去っています。死んでいく時に、何が光になるでしょうか。名誉が残るといっても、千年、万年後には影も形もありません。そんな儚い幸福で、「人間に生まれてよかった」の生命の歓喜が得られるでしょうか。
「摂取不捨の利益」に生かされ、人界受生の本懐を果たされた聖人の法悦を、『歎異抄をひらく』では次のように書かれています。
ひとたび弥陀より摂取不捨の利益を賜れば、何時でもどこでも満足一杯、喜び一杯、人生本懐の醍醐味が賞味できるのだ。
親鸞聖人の、その歓喜の証言を聞いてみよう。

誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法 (教行信証)
まことだった、まことだった! 摂取不捨の利益、本当だった! 弥陀の真言ウソではなかった!

永久の闇より救われて苦悩渦巻く人生が、そのまま絶対の幸福に転じた聖人の、驚きと慶喜の絶叫なのだ。この摂取不捨の妙法を詳説されたのが親鸞聖人なのである。
(『歎異抄をひらく』)

どの解説書も曖昧だった「摂取不捨の利益」こそ、古今の人類が探求してやまぬ「人生の目的」です。『歎異抄』の愛読者は多いですが、〝摂取不捨の利益にあずかること〟が人生の目的と知る人は少ないのではないでしょうか。
山に入って山が見えないのかもしれません。

梅原 猛

日本を代表する哲学者
京都市立芸術大学名誉教授
国際日本文化研究センター名誉教授
『聖徳太子』『仏教の思想』などの著書多数
山崎龍明

元・西本願寺教学本部講師
武蔵野大学教授
専門は親鸞聖人、『歎異抄』
『本願寺新報』に教学の解説をしばしば掲載している

石田瑞麿

元・東海大学教授
浄土教の研究に専心
著書多数
佐藤正英……東京大学名誉教授

日本倫理思想史、倫理学の研究者

安良岡康作

国文学者。
東京学芸大学名誉教授

親鸞仏教センター

真宗大谷派の学者の集まり。「浄土真宗」から「浄土」が抜けた教えになっている

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2010/05/15

親鸞会・テレビ座談会 in U.S.A !! 如来の慈雨 世界平等に 親鸞会海外ニュース

○親鸞会顕正新聞22年5月15日号より

親鸞会・テレビ座談会 in U.S.A !! 如来の慈雨 世界平等に

親鸞会講師 毛利光一

親鸞会・テレビ座談会が始まって半年余り、海外にいながら直接質問させていただけるので、心の距離がグッと縮まり、アメリカの親鸞会会員の聞法熱は熱く燃え上がっています。
 ロサンゼルス、サンフランシスコ、ニューヨーク、ボストン、シカゴ、カンザスシティなどを中心に現在、親鸞会・テレビ座談会の開催拠点は増え続けています。
親鸞会・降誕会までにさらなる拡大を目指しています。
 遠方で参詣できなかった人、高齢で外出できない人、病気で会館まで来られない人などが続けて聞法されるようになりました。

親鸞会会員Iさんは、病のため、ほとんど外出できません。1時間以上、同じ姿勢でいると硬直し体を動かせなくなってしまうのです。ここ数年、親鸞会ロサンゼルス会館にも参詣できず、残念に思っておられましたが、親鸞会・テレビ座談会が始まってより自宅での聴聞をとても喜ばれています。

 メキシコ生まれのRさんも、親鸞会・テレビ座談会を喜ぶ1人です。生計を立てるのが難しい母国を離れ、アメリカへ移住する時、管理局のミスで支給されるはずのビザが下りませんでした。国家資格がありながら、10年以上、最低賃金で毎日サンドイッチを作り続ける苦労の日々。しかし「因果の道理を知ったことが人生を変えてくれた」と心から仏縁を喜んでいます。彼女から愚痴を聞いたことはありません。
 国外に出られないRさんは、一生、高森顕徹先生から直接お聞きすることはできないとあきらめていましたが、親鸞会・テレビ座談会がスタートし、自宅で聴聞できるようになったのです。
 朝4時半に起床し、5時から働いている彼女が、夜12時まで続く座談会を聞かせていただくのは大変と思いますが、そんなことは苦にもせず、「わが家で阿弥陀仏の御心を聞かせていただけるとは思わなかった」と涙ながらに語っています。

親鸞会会員Mさんは、サンフランシスコの自宅で毎月2回親鸞会・テレビ座談会を開かれています。「6月の親鸞会・降誕会は親鸞会・二千畳でお聞きしたい」と参詣されることになりました。
 サンフランシスコから車で1時間の所に住む親鸞会会員Sさん夫妻も毎月、家庭法話を開かれています。また、トレイシーという町に日本から出張中の親鸞会会員Yさんも多忙の中、親鸞会・テレビ座談会のご縁は欠かしません。 

子育て真っ最中の、テレビ局の元ニュースキャスターKさんは、親鸞会・テレビ座談会のことを耳にするや、すぐパソコンを購入、夜、子供たちが寝静まってから聴聞しています。
 無上仏(阿弥陀仏)の法輪が、このアメリカでも確実に広まっています。

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2010/05/14

後生の一大事について(3) 親鸞会.NET仏教講座

親鸞会.NET仏教講座「後生の一大事について(3)」

●真実の自己とは●

どん な人でも、ものを食べないで生きてゆくことは出来ません。
ところが、私たちの食べものは、かつては生命の通っていたものばかりです。
我々 が死にたくないように、生ある者は、どんなものでも死を嫌う本能をもっています。
されば、どんな生物でも死は苦しみであることは、我々人間と異な るはずがありません。
船の上に揚げられた魚がピチピチ跳ねるのも、首を絞められる鶏がバタバタするのも、みんな苦しいからでしょう。そんな苦しむ ものの生命をとらなければ、我々は生きてはゆけないのです。しかも、そのような生きものの屍を、私たちは、「うまい」
といって貪り食べているので す。
それどころか、そうした生きものの生命を少しでも多く貪ることを、私たちは「良い暮し」
といって喜びとしています。即ち、私たちは、 罪悪を犯しながらそれを、少しも罪悪とは思わず、むしろ、善いことのように考えているのです。

しかも、仏法で難化の三 機、難治の三病といわれる最も怖ろしい、五逆、謗法、闡提の大罪を、私たちは日夜造り続けているのです。
手にこそかけて殺さなくとも、心の中で親を邪魔者扱いにして、毎日毎時殺している五逆罪。
今日の説法は判らなかった、難しかっ た、長かった、短かったと善知識の頭上に登って批判している謗法罪。
これらは『末灯鈔』に、

「親をそし る者をば五逆の者と申すなり」
「善知識をおろかに思い、師をそしる者をば謗法の者と申すなり」

親鸞聖人が厳しく誡めてい られる重罪です。
それだけではありません。
地獄と聞いても驚かず、極楽と聞いても喜ばず、あの人が死んだかと驚いて一時は同情の涙が 出ても、自分は当分は死にはせぬと平気でいる心が闡提で、ドタ牛のように動かない。頭は承知しても肚が承知しない。道理は判っても納得出来ない。なんの不 足もないのに満足が出来ない。分かって分らず、知って知らず、急いで急がず、泣いて泣かず、なんともかんとも言いようのない奴が闡提で す。
これを親鸞聖人は、「逆謗の屍」とも言われています。

●親鸞聖人の一大事の警鐘●

照らし出されたこの人間の実相を、親鸞聖人は、次のように記されています。

「一切の群生海、無始よりこのかた、乃至、今日今 時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心なし」(教行信証信巻)

「無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流 転し、諸有輪に沈没し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なく、法爾として真実の信楽なし」(教行信証信巻)

「然るに、微塵界の有情、煩 悩海に流転し、生死海に漂没して真実の廻向心なく、清浄の廻向心なし」(教行信証信巻)

繰り返し繰り返し、地獄必定の一大 事を警鐘乱打されたものです。
これが単なる合点ではなく、自身の実相として照らし出された時、何人も一切の助かる望みが絶え果てて、必 ず火達磨になって必定地獄を実感させられるのです。
同時に、弥陀の呼び声を聞き破闇満願させて頂くのですが、悲しいかな、この厳然たる必定地獄 の実地の体験がないから、この一大事が分らないのです。

「後生の一大事」が分からなければ、これを「必ず救う」と誓われている 「弥陀の本願」も分からないし、その弥陀の本願一つを説かれた「仏教」も「浄土真宗」も、何にも分からないのも当然なのです。
ですから、もし「親鸞会は『後生の一大事』を説いて地獄の恐怖を植え付ける」という非難をする人があれば、その人は、実は、親鸞会を非難しているのではなく、お釈迦様を非難している人なのです。
知らないこととはいいながら、何と恐ろしいことでしょう。

「善知識にあうことも
教うることもまた難し
よく聞くことも難ければ
信ずること もなお難し」

(浄土和讃)

親鸞聖人のご述懐が、つくづく知らされるではありませんか。

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2010/05/14

後生の一大事について(2) 親鸞会.NET仏教講座

親鸞会.NET仏教講座「後生の一大事について(2)」

●一向専念無量寿仏 ●
この一大事の解決は、大宇宙に無数の諸仏ましませども、本師本仏の阿弥陀仏以外には絶対にできないから、お釈迦さまは 仏教の結論として、

「一向専念 無量寿仏」(大無量寿経)
(無量寿仏に一向専念せよ)

と仰いまし た。「無量寿仏」とは、阿弥陀仏のことですから、
「阿弥陀仏一仏に向け、阿弥陀仏だけを一心に信じなさい。必ず救われる」
と説かれたお言 葉です。
この釈迦の「一向専念」の教えに順われて、建仁元年(聖人29歳の御時)、「後生の一大事」の解決を果たされた親鸞聖人は、全ての人の 救われる、たった一本の道、「一向専念無量寿仏」を、釈迦の至上命令として、90歳でお亡くなりになるまで、叫び続けていかれたのです。

※一向専念無量寿仏について、もっと詳しく読まれたい方は、コチラをどうぞ
↓ ↓ ↓

一向専念無量寿仏とはどんなことか
…………………………………………………………………………………………………

 

 仏教はこの地獄必定の一大事に驚き、この一大事の解決で終るもの
と教えられています。

ですから、この一大事が分からなければ、仏教を正しく理解する
ことはできないのです。

「後生の一大事」が抜けてしまうと、それは仏教とはいえなく
なってしまうのです。
●仏教の出発点と終点●

 

ではどうして

「曠劫を逕歴せ ん」(親鸞聖人)
とか、
「無間地獄に堕在すべきものなり」(蓮如上人)
といわれる一大事 がおきるのか。
その理由を仏教はどのように教えているのか。今から明らかにしましょう。

 

 

●仏教の根本教理は因果の理法●

仏 教というのは釈尊の説かれた教えを言います。
釈尊は約2600年前、インドの一共和国の王子として誕生されましたが、人の世の無常に驚き29才の 2月8日出城入山せられて勤苦6年、35才の12月8日一見明星して大悟徹底、仏陀となられました。
これより80才の2月15日、御入滅になるま での四十五年間の教えを仏教とも仏法ともいわれます。

「仏教は因縁を宗とす。仏の聖教は浅より深に至る。一切法を説くに因縁の二 字を出でざるを以てなり」(維摩経)

と説かれているように、釈迦一代の教えを貫いている根本教理は因果の道理で あることは何人も疑う余地がありません。
いわゆる、
「蒔かぬタネは生えぬ」
で、原因なしの結果は絶対に認めないし、
「蒔 いたタネは必ず生える」
と教えます。
しかも因と果の関係は常に善因善果、悪因悪果、自因自果であることが厳然と説き切 られています。

このように、仏教の根幹である因果の道理を否定しては、もはや
仏教ではなくなってしまうのです。

※因果の道理については、こんな記事もありますよ

     ↓ ↓ ↓

  因果の道理を信じる心が人生を変える

このように善因善果、悪因悪果、自因自果の 因果の理法を離れて仏教はあり得ませんが、それは単に現在一世にとどまらず過去、現在、未来の三世を貫いて説かれているところに仏教の因果律の精粋がある のです。
これを三世因果といい、仏教の旗印となっています。故に仏教を深信するということは三世因果を深信するということで す。
では過去、現在、未来の三世はどのような因果関係によって成立しているのか。
『因果経』には、

「過去の因 を知らんと欲すれば現在の果をみよ。未来の果を知らんと欲せば現在の因をみよ」

と至って鮮明に説かれています。
過去の因は現在の果に現われており、未来の果は現在の因によって発現するのだから、現在の自己の上に無限の過去と永遠の未来を知見できることを教えている のが三世因果の理法であります。

※三世因果についてもっと詳しく知られたい方はコチラをお読みください。

↓ ↓ ↓

仏教講座|仏教の根幹、三世因果とはどんな教えなのか|浄土真宗 親鸞会公式ホームページ

故に仏教は、現在の自己を徹見すれば自己の後生は分かると教えます。
現在の自己は、如何なる 後生を生み出す因を造っているでしょうか。
法鏡に映し出された真実の自己を知らされたとき、誰しも脚下に渦巻く必定地獄の一大事に驚かずにおれ ないでしょう。

「いずれの行も及び難き身なればとても地獄は一定すみかぞかし」

は、その時の親鸞聖人 の悲痛な叫びであったのです。

つづく

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2010/05/14

後生の一大事について(1)  親鸞会.NET仏教講座

親鸞会.NET仏教講座「後生の一大事について(1)

●仏教の唯一の目的●

仏教は後生の一大事を知るところからはじまり、後生の一大事の解決で終わります。ですから、「後生の一大事」とはどんなことかを知らなければ、仏法は何十年聞いてもわかるものではありません。

これは蓮如上人が『領解文』に、
「一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御助け候え」
と仰っているとおりです。

では、「後生の一大事」とはどんなことでしょうか。

私たちは、嫌じゃ嫌じゃといいながら、墓場へと向かっています。死に向かって行進しているのです。禅僧・一休は、
「門松は 冥土の旅の 一里塚」
と歌いました。

年が明けるとみんな「おめでとう、おめでとう」と言いますが、一年経ったということは、それだけ大きく死に近づいた、ということです。
「死」は、100%確実な、私たちの未来なのです。
そう聞くとどうしても、50年や60年先の、遠いことだと思いがちですが、一息切れたら「後生」ですから、早ければ今晩かも知れません。

その「後生」に大変な一大事がある、と仏教では教えられているのが「後生の一大事」ですが、この「後生の一大事」に二つあり、阿弥陀仏の救われる前と、救われた後とで、大きく分かれるのです。

●二つの「後生の一大事」●

弥陀の救われた人の「一大事」は、「浄土に往き仏に生まれる」という大事です。
弥陀の救われていない人の「一大事」は、「地獄に堕ちて永い苦患に沈む」大事です。

弥陀に救われた人の「後生の一大事」について、蓮如上人から聞かせて頂きましょう。

(原文)
「信心決定して、その信心の趣を弟子にも教えて、諸共に今度の一大事の往生を、よくよく遂ぐべきものなり」

(意訳)
「平生に弥陀の救いに値って、皆にもその不可思議の救いの素晴らしさを伝えて、共に弥陀の極楽浄土へ往き、仏に生まれる一大事を遂げねばならない」

これは弥陀の救いに値った人の後生(来世)の一大事を教えられたものです。
欲や怒り、ねたみそねみの塊(煩悩具足の凡夫)である私たちが、一息切れると同時に、弥陀の浄土へ往って仏に生まれることは、あり得ることではない、大変なことですから、「一大事」といわれるのです。こうも仰っています。

(原文)
「他力の信心ということを詳しく知らずは、今度の一大事の往生極楽は、まことに以てかなうべからずと、経・釈ともに明らかに見えたり」(御文章)

(意訳)
「今生で弥陀の救いに値わねば、来世に弥陀の浄土へ生まれるという一大事は成就できないが、平生に弥陀の救いに値えば必ず来世は、極楽浄土に往生できるとどの経典や経釈にも明らかに説かれている」

次に、弥陀に救われていない人の「後生の一大事」を、蓮如上人はこう教えられています。

(原文)
「後生という事は、ながき世まで地獄におつることなれば、いかにもいそぎ後生の一大事を思いとりて、弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし」 (御文章)

(意訳)
「後生の一大事とは、未来永く地獄に堕ちて苦しむことだから、急いでこの一大事の解決を心にかけて、阿弥陀仏の救いを求めねばならない」

この「後生の一大事」は、弥陀に救われていない、全ての人がかかえている一大事ですから、有名な『白骨の御文章』にも、
「誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて」
と言われ、ご遺言にも、
「あわれあわれ、存命の中に皆々信心決定あれかしと朝夕思いはんべり、まことに宿善まかせとはいいながら、述懐のこころ暫くも止むことなし」

と、手に汗握って「皆々」=私たち一人一人に、訴えておられるのです。

以上、蓮如上人のお言葉を挙げて、親鸞聖人がどのように「後生の一大事」を教えておられるか、話をしてきました。

●「後生の一大事」は、仏説●

親鸞聖人は常に、

「更に親鸞、珍しき法をも弘めず、如来の教法を我も信じ、
人にも教え聞かしむるばかりなり」

と仰せの通り、釈迦の説かれた仏教以外に、教えられたことはありませんでした。
ですから、上記の「後生の一大事」は、そのまま釈迦・七高僧を貫く「仏説である」ことが明白でしょう。

つづく

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2010/05/14

「若不生者不取正覚」の〝生まれる〟の真意

阿弥陀仏の本願の「若不生者不取正覚」は、

「死後のことだけなのか」

「この世は信楽に生まれさせ、死後、真実報土に生まれさせる」

という誓いなのか

を論じられたサイトがあります。

こちらをご覧ください。

↓ ↓

http://shinjin.info/category/inquiry

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2010/05/14

親鸞聖人の教えに善の勧めはあるか、ないか。

《親鸞聖人の教えに
善の勧めはあるか、ないか。

浄土真宗で、
「雑行を捨てよ」と教えられる真意は?》

について詳しく論じられているサイトがあります。

こちらをお読みください。

http://www.geocities.jp/shinran0826/

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2010/05/14

なぜ人を殺してはいけないのですか?(4)  親鸞会.NET

「なぜ人を殺してはいけないのか」について書いてきました。

親鸞会.NET» » なぜ人を殺してはいけないのですか?  親鸞会.NET
親鸞会.NET» » なぜ人を殺してはいけないのですか?(2)  親鸞会.NET
親鸞会.NET» » なぜ人を殺してはいけないのですか?(3)  親鸞会.NET

これは「なぜ人命は地球より重いのか」が分からねば答えられない問いであると書いてきました。

「なぜ人命は地球より重いのか」の答えは仏教にあり、

そのことを表したお釈迦さまの言葉が

「天上天下、唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)」

です。

この言葉について、いかのような問答がありましたので、
紹介させていただきます。

Q:仏教は独尊的な教えではないのか

お釈迦さまは誕生なされた時に「天上天下、唯我独尊」と言われたそうですが、仏教はそのような独尊的な教えなのでしょうか。

A: 大変世間一般に誤解されている仏教の言葉です。

確かに、釈尊が誕生された時に、天と地を指さされて、
「天上天下、唯我独尊」
と叫ばれたと記録されています。

これを多くの人々は、「この世でいちばん偉くて尊いものは、自分1人である」と、釈尊が威張られたことのように思って、大変うぬぼれた言葉のように扱っています。

しかし、この「天上天下、唯我独尊」という心は、決してそのような思い上がった心でおっしゃったものではないのです。

この「我」というのは、決して釈尊だけのことをおっしゃったものではなく、人間1人1人のことなのです。

だから、人間だれしも釈尊と同じように、「天上天下、唯我独尊」なのであり、またそういえるのです。

では、「独尊」とはどういうことかといいますと、たった1つの尊い使命ということで、決して自分1人が偉いのだということではありません。

ですから、「天上天下、唯我独尊」ということは、我々人間には、天上天下広しといえどもたった1つしかない聖なる使命を果たすべく、この世へ生まれてきたのだということなのです。

釈尊のこの世へ生まれられた、たった1つの使命は『正信偈』に、
「如来、世に興出したまうゆえんは、唯、弥陀の本願海を説かんがためなり」
と、親鸞聖人が道破されているように、すべての人々を絶対の幸福に必ずしてみせると誓われた、無上殊勝の阿弥陀仏の本願1つを説くことにありました。

この世界広しといえども、唯一無二の阿弥陀仏の本願を説くという、たった1つの尊い使命を担って、我は生まれてきたのだという、釈尊の使命感が、「天上天下、唯我独尊」という格調高き宣言となったのです。

釈尊はこのように、弥陀の本願を説くという、たった1つの聖使命を唯我独尊とおっしゃいましたが、一切の人々は、人生の目的を何と心得ているのでしょうか。

これが明らかに自覚されていない人は、決して、「天上天下、唯我独尊」ということはできません。

その資格がないからです。

「人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く、この身今生に向って度せずんば、さらにいずれの生に向ってか、この身を度せん。大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし」
の、法語の示すごとく一切の人々の唯一の使命は、阿弥陀仏の本願を聞信して、人生究極の目的である、絶対の幸福を獲得(体験)することにあることは、明らかであります。

この使命を知り、この使命に向かって全力を挙げ、この使命を成就した時にこそすべての人々が、天と地に向かって、「天上天下、唯我独尊」と、絶叫せずにおれなくなるのです。

これを機縁に、我々の生きる聖なる目的について、深く考えてみようではありませんか。

もっと詳しく知られたい方は、この本を読まれることをお勧め
いたします。

↓ ↓
■「なぜ生きる」

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2010/05/13

なぜ人を殺してはいけないのですか?(3)  親鸞会.NET

「なぜ人を殺してはいけないのか」をテーマに書いています。
今日はその3回目です。

「なぜ人を殺してはいけないか、それは刑務所に入れられるからだ」

という答えを通して、論じてきました。

これまで

そもそも、人を殺したら刑務所にいれられるのは、
そういう法律があるから。

その法律を作ったのは国民の代表、選挙で選ばれた人。
(少なくとも日本では)

では、その人たちは「生命の尊厳」を知ったうえで、
法律を定めたのか?

もし「なぜ、人命は地球よりも重いのか」に答えられない人が
法律を制定したのならば、いちばん大事な根っこの部分が浮いたまま
法律が制定され、人殺しは罰せられていることになる。

「人命は地球よりも重い」といえるには、50年や100年
くらいの肉体の喜びしか得られないという人生観からは出て
こない。

ということを書いてきました。

そして、仏教には、過去無量劫から、未来永遠へと続く生命観が
説かれていることを紹介いたしました。

実は、この生命観が理解できないと、「人命は地球よりも重い」
と根拠をもって言うことはできないでしょう。

つかの間の幸せが地球よりも重いはずがないからです。

では、地球よりも重い、永遠の幸福はあるのでしょうか?

ここで親鸞聖人の言葉に耳を傾けてみましょう。

「噫(ああ)、弘誓の強縁(ぐぜいのごうえん)は多生(たしょう)にも
もう、あいがたく、
真実の浄信(じょうしん)は億劫(おっこう)にも獲がたし」

(教行信証)

〈ああ……何たる不思議か、親鸞は今、多生億劫の永い間、
求め続けてきた歓喜の生命を得ることができた〉

この言葉を聞き、

「人生の目的どころでない、多生永劫の目的があるからこそ
『人命は地球より重い』と言える。
それが仏教と知って感激した」

と語った人もありましたが、

(浄土真宗 親鸞会 公式ホームページ|宗教は何を救う?)

仏教には、多生(たしょう)億劫(おっこう)の幸せが
教えられているのです。

※多生・・・生まれ変わり死に変わりを続けてきた生

劫・・・4億3200万年

多生にもあえないことにあう命だから、
億劫にも獲られないものを獲るための命だから、

「生命は地球よりも重い」といえるのです。

このことは、仏教を深く、正しく聞かねばとても理解できる
ことではないでしょう。

仏教には、「地球よりも重い人生(多生)の目的」が
教えられています。

そのことを表した言葉が

「天上天下、唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)」

です。

このことについては、次回、書きたいと思います。

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2010/05/12

『歎異抄』解説書の比較対照【8】『歎異抄』と「二種深信」 親鸞会.NET

前回(なぜ東大教授も誤読したのか 親鸞会.NET)に引き続き
http://www.shinrankai.net/2010/04/tannisyo-19.htm
『歎異抄をひらく』と他の『歎異抄解説書』を比較してみましょう。

(原文)

「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏申さん」と思いたつ心のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり
(『歎異抄』第一章)

山崎龍明著『初めての歎異抄』の意訳

すべての者を幸せに、そして、広大な世界に気づかせたいという思いで救いを誓った阿弥陀仏の本(誓)願に救われ、かならず自然の浄土にうまれることができると信じて、阿弥陀仏のみ名を称えようというこころがおこるとき、ただちに阿弥陀仏は、その光明(智慧)の中に摂め取って捨てないという利益が恵まれるのです。

高森先生著『歎異抄をひらく』の意訳
“すべての衆生を救う”という、阿弥陀如来の不思議な誓願に助けられ、疑いなく弥陀の浄土へ往く身となり、念仏称えようと思いたつ心のおこるとき、摂め取って捨てられぬ絶対の幸福に生かされるのである。

第一章冒頭の「往生をば遂ぐるなりと信じて」の「信じて」を、ほとんどの解説書が、そのまま「信じて」と現代語訳しています。例えば梅原猛著『誤解された歎異抄』は「きっと極楽往生することができると信じて」と訳し、安良岡康作著『歎異抄 全講読』は「『浄土に往って生れることを果たすのだ』と信じて」と意訳しています。
だが『歎異抄をひらく』では「信じて」は使われず、「疑いなく弥陀の浄土へ往く身となり」と明らかに一線を画する。それは、聖人の「信じて」は、常識的な「信じて」と根本的に異なるからです。

「信ずる」のは疑心があるから

世間では、「信ずる」とは「疑わないこと」だと思われています。この誤った常識を正さなければ、『歎異抄』は冒頭から読めません。
「信ずる」とは、「恐らく間違いないだろう」と思うことであり、そこには疑いが残っています。もし疑う余地の全くないことであれば、「信ずる」とは言わず、「知っている」と言うからです。
例えば、天気予報で「明日は晴れ」と聞いた人は、「明日は晴れると信じている」と言います。未来については、確実なことは知りようがないから、信ずるほかはありません。しかし、現に雨が降っているのを見れば、「今は雨だと信じている」とは言わず、「雨だと知っている」と言います。信ずる必要がないからです。
火に触れた体験がなければ、”皆が言うから、多分火は熱いものなのだろう”と信ずるしかありませんが、火傷をした人は「火は熱いものと知っている」と断言します。
「信ずる」のは疑心があるからで、全く疑いの無いことは「知っている」と言います。聖人の「信じて」は、「真に知んぬ」と言われ、微塵の疑いも無く”まことだった”と知らされたことです。これを「深信」といいます。

聖人の「信心」は「二種深信」

弥陀に救われると、「機」と「法」の二つに疑い晴れるから、「機法二種深信」といわれます。「機の深信」とは、「堕ちるに間違いなし」の真実の自己(機)がハッキリすることであり、「法の深信」とは、「助かるに間違いなし」と弥陀の本願(法)に疑い晴れたことです。この二つが同時に立って相続するから、「機法二種一具の深信」といわれます。
このように機と法に疑い晴れた心は、決して私たちがおこせる心ではありません。この心が私たちにおきるのは、全く弥陀より賜るからです。なので、「他力の信心」と言われるのです。「他力」とは「弥陀より頂く」ことをいいます。
親鸞聖人の説かれる信心は、我々が「疑うまい」と努める「信心」とは全く違い、”機と法に疑い晴れた心”を弥陀より賜る、超世希有の「二種深信」です。
地獄一定と極楽一定が同時にハッキリする、不可称不可説不可思議の「二種深信」一つ解説されたのが、聖人畢生の大著『教行信証』です。

『歎異抄』を総括する第一章には、短い章にもかかわらず、「信」の文字が繰り返されています。
「往生をば遂ぐるなりと信じて」
「しかれば本願を信ぜんには」
「ただ信心を要とすと知るべし」
他宗教や世間で言う「信心」と字は同じでも、親鸞聖人が肝要と仰る「信心」は、全く次元の異なる「二種深信」だから、「二種深信」を知らずして『歎異抄』は毛頭、読めないことが分かるでしょう。

氾濫する勝手な解釈

ですが、『歎異抄』の「信じて」を、『教行信証』に説かれる二種深信で解説する書が、どこにあるでしょうか。
石田瑞麿著『歎異抄 その批判的考察』も、「『誓願不思議ニタスケラレ』た『信』も『念仏』も真実の信心であり、真実の念仏であろう」と推測するにとどまっています。
次に挙げる安良岡康作著『歎異抄 全講読』の解説では、他力より賜る信心なのか、自分で「信じるようになって」ということなのか、釈然としません。

「信じて」の語にこもる信心は、人間の努力・精進によって獲得されるのではなく、どこまでも、「弥陀の誓願の絶対性のお助けをこうむることによって、『往生を遂げるのだ』と信ずるようになって」という意味になるのである。
(安良岡康作『歎異抄 全講読』)

また、親鸞仏教センター著『現代語 歎異抄』は、「往生をば遂ぐるなりと信じて」を「新しい生活を獲得できると自覚して」と意訳しています。弥陀より賜る「二種深信」と、新しい生活が始まる「自覚」とでは、何の接点もありません。
佐藤正英著『歎異抄論註』は、「信」には「不信」(疑い)が含まれると、根拠なき自説を展開する。

〈信〉は〈不信〉を内包している。そしてそれは〈不信〉への絶えざる揺り戻しとして現れる。 (佐藤正英『歎異抄論註』)

『歎異抄』で最も大事な「信心」を、「二種深信」と似ても似つかぬ解説をする書ばかりです。『教行信証』と無縁な、私見を述べた『歎異抄』解説本に、親鸞学徒は用事はありません。
必要なのは、『教行信証』に立って『歎異抄』を解説した書です。
 

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