2009/03/13
140回直木賞を受賞した『悼む人』
作家の天童荒太(てんどう・あらた)さん が7年かけて書き上げた“渾身の一作”のようです。
さて、タイトルにもなってる“悼む”ということですが、この作品で書かれている“悼み”は追善供養ではありません。
亡くなった現場の周辺で「亡くなった方は誰を愛し、誰に愛され、感謝されていたのか」を尋ね心に刻む、それ以上のことは何もしません。
さて、今日こうして文章を書いているのは、主人公の行為について、論ずるためではありません。
テーマになっている「死」について考えたいのです。
この作品は、911テロで大勢の死が“数字”でしか見られていない現実に疑問を抱き、書かれたものといわれています。
例えば、このような一節があります。
「報道される死は一日十人前後だった。国内の年間死者はここ数年、百万人を超えている。
一日におよそ二千八百人が死に、そのなかで報道される死者は約0.0036パーセントの計算だった」(P.17)
「普通の主婦なんていません、一般市民という人間もいません……
特別な人が死んでいます、特別な人が殺されています」(P.423)
親しい人の死だけが特別なのでなく、一人一人の死が特別な重さをもっている、ということでしょう。
以前、ビートたけしが『たけしの死ぬための生き方』という本に、次のようなことを書いていました。
「全ては個人の問題。だから、五千人が死にましたなんて、『五千人死んだ一つの事件』みたいにくくるのは冒涜だよね。
そうじゃなくて、『一人が死んだ事件が五千件あった』ってことだよ。
大災害で死ぬとすぐ社会的な問題にされちゃってね。
そうじゃない。
死んだ人にとっては凄い個人的な問題なんだ」(P.96)
裏を返せば「一人一人がかけがえのない命をもっている、どうでもいい命なんて一つもない」ということではないでしょうか?
地球を守るかわりに、一人ずつ少年が死んでいく、そんなマンガ『ぼくらの』が話題になっています。その中にも少年のこんな言葉が出てきます。
「ぼく、アクション映画って苦手なんです。
派手な戦闘シーンとかが嫌いなわけじゃないんです。
ああいう映画って、たいてい一般の人達が巻き込まれて犠牲になるのじゃないですか。
それも別にいいんです。
そういう事態になれば、実際に起こりえるわけだし、それをあえて避けるのもおかしい気がするから。
でも観客は巻き込まれて犠牲になる群集に関心をもたないですよね。
主人公達が死んでいくことには過剰に反応するのに。
ぼくにとっては主人公達の死と、画面の端で描かれる群集の死は同じなんです。
虚構の中でそれぞれ意思をもち生活している人。
違いがないはずなんです。
でも主人公が途中で出会った女の人と笑いながらエンディングを迎えるとハッピーエンド、主人公が死んじゃうとバッドエンド。
その感覚がわからないんです。
途中で群集が一人でも犠牲になっていれば、それは、ぼくにとってバッドエンドです。
そのバッドエンドの中での違いはその虚構の主人公が、虚構の群集の死にイタミを感じてエンディングを迎えるかどうか。
でもたいがいそうじゃないですよね。
どうしてそういうヒーロー型の主人公はエンディングで笑っていられるんだろう?
どうして観客はそれをハッピーエンドと思うんだろう?」
すべての人にひとしく訪れる死。
その死を通して尊厳なる命の意味を考えずにおれません。
人身受け難し 今已に受く
仏法聞き難し 今已に聞く
生きる意味を明らかにされ、人間に生まれた喜びを伝えられた方がお釈迦さまです。
「生まれ難い人間に生まれることができてよかった!
聞き難い仏法が聞けてよかった!」
この生命の歓喜輝く身に親鸞聖人はなられました。
真実の仏教一つ明らかにされた親鸞聖人の生涯は、そのまま人生の目的を伝えられたご一生でもあります。
その御跡を慕う親鸞学徒の集まり、それが浄土真宗親鸞会です。
(M)
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